第一章

「叔父上! まだ、行くのですか?」
 不機嫌にそう言ったのは童子(わらべ)。
 煌く夜空の星々を閉じ込めたような瞳を持つ、たいそう凛々しい男児(おのこ)である。
「もう、疲れたのか?」
 先を歩く青年は笑う。
 身の丈ばかりが伸びて、妙にひょろ長いと言う印象を与える青年だ。
 まだ若く見えるが、もう結構な歳だということを童子は知っていた。
 童子の母は、この青年の妹なのだ。
「疲れてなんかありません!」
 童子は声を張り上げた。
「そうか、そうか。
 じゃあ、まだ歩けるな」
 青年は笑いながら、河のほとりを歩く。
 ここは天界であり、二人は天人(あまひと)である。
 青年は天漢公子(てんかんこうし)、童子は天漢童子(てんかんどうじ)と天では呼ばれる。
 地においても燦然と煌く天の川を統べる精霊である。
「自らの統べるものを見るのは良いことだ」
 天漢公子は言う。
「それは先ほどもお伺いいたしました」
 天漢童子は憤然と答える。
「童子が先ほども、弱音を吐いたからな」
 クツクツと天漢公子は喉を鳴らす。
「弱音など吐いておりませぬ。
 我は、男児であれば、泣き言など申しませぬ!」
 天漢童子は頬を紅潮させ、めいっぱい訴える。
 年の頃は、五つ。
 まだ童と呼ばれる時分ではあるが、男児はかくあるべきと言う信念が芽生える頃でもある。
「では、行こう。
 我らの河は、北は麗しき冬の少女(おとめ)らの住処であれば、心浮き立たぬか?」
 天漢公子は歩きながら、己が統べる天の川の岸辺から、ひょろ長い狗尾草(えのころぐさ)を引き抜く。
 そしてその穂を甥っ子に向ける。
「冬の少女らは、皆冷たき故にそうは思いませぬ。
 春の少女らの方が気分がよろしゅう」
 天漢童子は眉をひそめた。
「麗らかな春の少女らは気安いが、何と言っても冬の少女らが良いであろう。
 儚い、と言う言葉がぴったりだ」
 青年はうっとりと目を細める。
「それは叔父上が氷花公主(ひょうかこうしゅ)をお忘れでないからでしょう」
 ぴしゃりと童子は言った。
 叔父が初恋の思い出を貫いて生涯独身を決め込んでしまったために、童子は生まれてすぐに父母から引き離され、叔父の跡継ぎとして引き取られた。
 その経緯を思い出すと、全ての元凶が冬の少女らのような気がしてくるのだ。
「我が初恋の君ぞ。
 何ぞ、忘れられる」
 天漢公子は幸せそうに笑む。
 氷花公主は天帝の娘であり、天漢公子とは腹違いの兄妹に当たる。
 雪を統べられる美しき女人だったが、娘を一人産み儚くなられた。
 その娘は氷霧姫(ひょうむき)と言う。
 天漢童子にとっては従姉姫に当たるが、まだ会ったことがない。
「童子も会えば、心が揺れること請け合いする。
 氷霧姫は佳き童女である」
 手慰みに狗尾草を振り回しながら、青年は言う。
「叔父上は、くりかえしそう言いなされるが……。
 仲良うできるとは、思えませなんだ」
 天漢童子はためいきをついた。
「男児が弱音を吐くのか?」
「冬の少女らは、笑いませぬ。
 笑わぬ者とどうすれば友になれるのでしょうか」
 童子は真剣に言った。
 冬の少女らは笑わない。
 司る性質そのもので、冷たく、厳しく、儚い。
「何、難しく考えることはあるまい。
 それに友にならず、夫婦になれば良い」
 天漢公子は甥っ子の小さな背を叩く。
「叔父上!」

   ◇◆◇◆◇

 天の川、その北の離宮。
 冬の少女らの住処は、寒花宮(かんかぐう)と言う。
 天の川の支配者の到来に、この宮であっても華やぐ。
 冴え冴えとした美貌の冬の精霊たちが、麗々しく着飾り、漣のように出迎える。
 天漢童子はそわそわとそれに受け答える。
 肝心の従姉姫と言えば、その出迎えの中に姿がないときた。
 住処が近いのだから仲良くするように、天帝から仰せ仕ったのだ。
 天漢童子は仕方なし、従姉姫の姿を探す。
 麗しい女人の中から、童女を探すのは難しいこととは思えなかった。
 寒花宮の寒々とした院子(なかにわ)を通り過ぎ、薄氷張る池の近く、童女がぽつんと座っていた。
 立ち込める冷気。
 しっとりと天漢童子を包むように霧が揺らく。
 氷霧姫に違いない。
 自分と背格好が変わらぬが、華奢な肢体が性を異なると知らせる。
 雪のように真っ白な髪がフワフワと下草につくほど長く、童女の唯一の装身具になっていた。
 弱々しい陽光の中、白い髪はキラキラと氷の欠片(かけら)のように輝いていた。 それを白い手が器用に編んでいく。
 天漢童子はそれに見惚れた。
 氷花公主の忘れ形見の氷霧姫もまた冬の少女らしく、凍りつくような硬質な美。
 笑いを刻むことのない唇は薄紅色で、そこだけが血が通っている証のようであった。
 あとは、皆冬の色。
 寒々しいばかりの色彩である。
 それでも美しいと天漢童子は思った。
 童女は髪を編み終えるとゆったりと立ち上がる。
 ゆるりと首を回し、天漢童子に気がついた。
 灰青色の瞳が童子を見た。
 氷の中に閉じ込められた勿忘草の花のような瞳だった。
「初めまして。
 私は天漢童子。
 次の天漢を統べる者として、姉上様にご挨拶に参りました」
 天漢童子は用意してきた言葉を述べ、拱手(立礼)をした。
 氷霧姫はカタカタと小刻みに震えながら、あとずさる。
「従姉弟同士なのですから」
 天漢童子は口上を最後まで述べることはできなかった。
 氷霧姫が池に落ちたのだ。
 天上人は空を翔る能力を持つ。
 特に女人であればその能力は優れ、たとえ地に落ちても霞披(ひれ)を使って天に戻ってくるのは容易い。
 が、氷霧姫は間違いなく落ちて、池の中に沈んでいく。
 天漢童子は慌てて、池に飛び込んだ。
 薄氷の張る池は冷たいどころではなかったが、果敢にも天漢童子は従姉姫を池から助け出した。
「大丈夫ですか?」
 天漢童子は訊いたが、返事はなかった。
 氷霧姫は気を失ってしまったのだ。
 凍えるほどの冷気が天漢童子を包む。
 氷霧姫は冬の少女であれば、その身に冷気を宿す。
 その冷気が全てを凍らせようとしていた。
 天漢童子は身の丈の変わらぬ従姉姫をしっかりと背負い、敬愛する叔父の元に急いだ。
 凍え死ぬのは、真っ平だった。


 こうして、二人は出会った。
 その出逢いは、とても美しい思い出とは言いがたかったが、とにかく二人の道が始まったのだ。



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