第二章


 先だってお逢いした従姉姫は、儚い佳人であった。
 天漢童子は、あの瞳を忘れることができずに、己の名と同じ河のほとりで佇んでいた。
 清らかな川面に、ぼんやりと童子の面が映る。
 童に不相応な憂いがそこにはくっきりと映っていた。
 氷霧姫は童子が寒花宮に滞在する間、目覚めることはなかった。
 氷に閉じ込められた勿忘草の花のような瞳は、童子を見ることはなかったのだ。
 だからこそ、余計に気になるのかもしれない。
 もう一度お逢いしたい。
 その声を耳にしたい。
 天漢童子は、図らずも恋に落ちたのだった。 
 稚い童はためいきをついた。
「ずいぶんと重々しいためいきじゃのう。
 空気が淀む」 
 氷柱の如く厳しい声音が降ってきた。
 見上げれば、冬の少女らが統領の垂氷公主(たるひこうしゅ)がご自慢の霞披で降りてくるところだった。
「これは垂氷公主」
 天漢童子は妙齢の天少女(あまつおとめ)に拱手をした。
「姉様とお呼び」
 天の川の岸辺に降り立った垂氷公主は、形の良い眉をひそめる。
「嫌です」
 天漢童子は言った。
 同じ父母を持つが、天人としての位は等しい。
 払うべき礼はない。
「天河(てんが)は可愛くないのう。
 せっかく、嬉しゅうなるような知らせを、直々に持ってきたと言うのに」
 垂氷公主は艶やかに紅の塗られた唇を笑みの形にする。
「ずいぶんとお暇なようで。
 天界では宴の季節だと言うのに、誰からもお誘いがなかったのですか?」
「童のくせに、可愛げがないよのう」
 垂氷公主はそのことを気にしていたようで、手慰みに扇をパタパタと開く。
 氷を薄く削ってこしらえた扇は射るように冷たく、冬の少女らの心のようだった。
 綺麗だと思って不用意に近づけば、鋭い刃になって人を傷つける。
「我は天漢を司る精霊ぞ。
 その辺の益体のつかない数多の精たちと同じゅうされては困りまする」
 天漢童子は胸を張って答える。
「気位だけは高いと見える。
 いったい誰に似たことやら」
 垂氷公主は不快げに扇を軽く扇ぐ。
 ビューと音を立て、泰山(たいざん)も凍らせんばかりの寒声が駆け抜けた。
 さしもの天の川は凍ることは免れたが、下草どもは皆しおしおと頭を垂れる。
「せっかく、この間の一件もあることだし、我が宮に招こうと思うたが……。
 これでは」
 扇を弄びながら、垂氷公主は笑う。
 匂うような媚態に他の精霊なら、跪いて今までの無礼を謝っただろうが、目の前にいたのは童。
 しかも、心に決めた相手がいる者だ。
 感銘を受けるのはその笑みではなく、言葉であった。
「寒花宮に?
 それは真か?」
 綺羅星のように煌く青い瞳は期待を満ちた眼差しを姉に向けた。
「嘘をついてどうするのじゃ。
 人をからかうような悪趣味は持ち合わせてはおらぬ。
 氷霧姫も目を覚ました故、ちょうど良かろうと、人がせっかくこちらまで足を運んだと言うのに。
 全く、天漢童子は傲慢で鼻持ちならぬな」
「非礼なら、幾重にも詫びる。
 氷霧姫に逢わせて欲しい!」
 天漢童子は誠意を込めて言った。 
 白露のように儚げなあの人に逢いたい。
 一目逢うことが叶うなら、己の命など安いものに思える。
「叔父上の頼みじゃ。
 あとで、よくよく礼を言うようにな。
 あの方は、ご自分とそなたを重ね合わせておられる。
 ほんに困った方よのう」
 垂氷公主は苦笑した。

   ◇◆◇◆◇

 寒花宮。
 やはり薄氷張る池のほとりに童女はいた。
 夢にまで見た相手だ。
 天漢童子の心は躍った。
「氷霧姫。
 天河が来たぞ。 
 妾の弟じゃ、仲良うしたもれ」
 垂氷公主が言うと、氷霧姫はおずおずと顔を上げ、天漢童子を見た。
 綺麗な灰青色。
 天漢童子の心臓はドクンと跳ね上がる。
「氷霧姫は恥ずかしがり屋ゆえ、びっくりさせるでないぞ。
 白露の精のように、繊細で、儚いのじゃ。
 普段、そなたが遊ぶ子らとは違うのじゃ。
 くれぐれも、そこのところ忘れるでないぞ」
 垂氷公主は勝気な弟に釘を刺す。
「妾は少し席を離れる。
 仲良うするのじゃぞ」
 垂氷公主はそう言い残すと、立ち去った。
 再び、逢いたいと思っていた相手が目の前にいる。
 その喜びが童子の心を震わせる。
 何を言ったら良いのかわからない。
 話すことなんて考えていなかったのだ。
 とにかく、逢いたかったのだ。
 逢いたくて、逢いたくて、それだけを思っていたのだ。
「この間は……」
 小さな声だった。
 銀の粉雪がお互いに打ちふれあうような、可憐な風情だった。
「お助けいただき……、ありがとうございました」
 ところどころつっかえながら、氷霧姫は言う。
 いじらしい姫だと、天漢童子は感動した。
 この姫君は誰かが守ってやらなければあっけなく消えてしてしまうだろう。
 強い陽光に照らされれば儚く溶けていってしまうだろう。
 天漢童子は、童らしい純粋さで決意した。
「これからは貴方のことを、実の姉と思い、全霊でお守りいたします」
 驚いたように灰青色の瞳が、童子を見る。
 真意を問いただすようにしばし彼を見つめ、それから小さくうなずいた。
 そして、氷霧姫は春を待つ花がほころぶように微笑んだ。


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