第三章


 天帝のおわす天の宮殿――天廷(てんてい)。
 そろそろ成人の儀をするであろう年頃の少年が花を抱えて、急ぎ足で歩いていた。
 清楚な百合の花も美しいが、それを抱える少年の清げなることこの上なし。
 天廷にいる官女らも心憎しと思うことはあれど、恨むものはいない。
 凛々しくも颯爽たる姿である。
 それもそのはず、少年は天帝の直孫。
 天の川を統べる天漢童子、天河。
 天界でもその姿と共に、優れた心延(こころば)えで鳴り響く。
「天河、急ぎ足でどこへ行く気だ?」
 天漢童子の行く手を遮るように立ちふさがったのは、天界切っての美丈夫。
 虹を統べる天弓王(てんきゅうおう)――彩虹(さいこう)だ。
「彩虹、邪魔だ。
 退け」
 少年は不機嫌な表情を浮かべる。
「まあまあ、そう邪険にするな。
 我らは従兄弟同士ではないか」
 彩虹は天河の隣を歩く。
「それを言ったら、掃いて捨てるほど従兄弟がいるわ。
 天帝は子沢山でおられるからな」
 不遜にも天河は言う。
「それは良いことだろう。
 子宝に恵まれるのは、徳高き証拠。
 ところで、花など抱えて一人前に、どの女人のところに行くのだ?
 その見事な百合は禁園のものだろう」
 彩虹は目聡く百合の咲いていた場所を当てる。
 天帝の直孫だからといっても、禁園の花をそうそう手折ることは許されない。
 その花を束にして贈る相手は限られてくると言うものだ。
「おぬしと一緒だと誤解される」
 天河は立ち止まり、彩虹を睨んだ。
「何を誤解されると言うのだ?」
 彩虹は口の端を吊り上げて笑う。
「おぬしは七人も妃がいる」
「俺は天弓王だからな。
 それが決まりだ。
 属性の異なる七人の女性を妃にするのは、古来よりのしきたり。
 それを守ったまでのこと」
「知っておる。
 しかし、おぬしはそれだけでは飽き足らず、天少女らを毒牙にかけておる」
「毒牙とはまた酷い言われようだ。
 確かに蛇は俺の眷属だがな。
 誤解があるようなら正すが、俺は無理強いをするようなことはこれまで一度足りともしたことがない。
 きちんと女人の意思を問うている」
 彩虹は堂々と言った。
「ああ、そうだろうとも。
 おかげで天上一の色好みと、官女たちも騒いでおる」
 天河は呆れたように友人を見遣る。
 同じ歳、同じ月生まれの従兄弟であれば、自然と仲良くなるもの。
 齢を重ねる速さこそ違えど、二人は大変仲が良かった。
「結構なことではないか」
「おぬしに不満はない。
 そのようなことで揺らぐ友情だとは思っておらぬ」
「なるほど。
 俺に手を出されては困るような想い人か。
 ずいぶんとお熱いことで。
 相手は誰だ?
 天河のものには手は出さん。
 女人の好みが違うから、安心しろ」
 秘密の話をするように、彩虹は背をかがめ、天河の首を腕で固定する。
 これでは、身動きが取れない。
 天河は不愉快極まりないと言った表情を浮かべる。
「そのような相手ではない。
 そう考えるのも、汚らわしい」
「聖人君子か?
 聖人とは恋ができないぞ。
 相手は清らか過ぎる」
 虹彩は、天河にとって百も承知のことをささやいた。
「わかっておる。
 だから、我の想いもまた恋ではなく、思慕だ」
 天河は唇をとがらせる。
「切ない恋だな」
 彩虹は天河の肩を労わるように軽く叩く。
「恋ではない」
 天河は言い切った。
 その強がりに、流石の彩虹も苦笑を禁じえなかった。
「して、名は?
 名立たる姫君だろう」
「我らが従姉姫。
 北におわせられる細氷(さいひょう)のお方だ」

   ◇◆◇◆◇

 天の川北端の岸辺、寒花宮。
 その主の垂氷公主には挨拶そこそこで、天漢童子は院子に急いだ。
 薄氷張る池のほとりには、冷たい霧が立ち込めていた。
 常緑の木々には、白き飾り。
 薄ぼんやりとした陽光の中、その佳人はいた。
 白霧よりも白い面。
 打ち静かに輝く白銀の髪。
「姉上!」
 天河は満面の笑みを浮かべる。
「お久しゅうございます。
 今日は天帝から、お花を頂きました。
 美しい花ゆえぜひ姉上にと思い、お持ちいたしました」
 天河は誇らしげに白い百合の花を見せる。
「綺麗なお花ね」
 氷霧姫は微かに表情を変えた。
 微笑と呼ぶにも僅かな変化。
 天河にとっては至福の時だった。
 飾り物のような薄紅の爪がついた指先が、凛とした白百合の花弁をなぞる。
 そこにキラキラと霜が降りた。
「ありがとう」
 氷霧姫は天河を見上げた。
 成人の儀を済ましてから、成長を止めてしまった従姉は、見た目の歳が天河とそう変わらなくなってきた。
 天人の成長と老いは共通ではないので、実に様々だ。
 あっという間に老いる者もいれば、いつまでも子供のままでいる者もいる。
 ただ、一つ言えるのは、老いるのが遅い者ほど長寿であるということだった。
「私は姉上を喜ばすためにいるのです」
 天河は言った。
 灰青色の瞳が彼をじっと見る。
 氷の中に閉じ込められた勿忘草の花。
 美しいと思うのと同時に、淋しいと感じる。
 氷の中の花は決して手に入らない故に。
 花は氷の中だからこそ、枯れない故に。
 胸を震わせるほど、綺麗だと思う。
 そして、彼の姫は小さく微笑んだ。
「天漢童子は、本当に優しい」
 氷霧姫は言った。
 天河にはその言葉一つで、充分だった。
 泡沫のように頼りないこの従姉姫をこれから先も守っていく、そのことを喜びと共に確固たるものにするのだった。


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