第四章


 天の川にその壮麗な宮はある。
 天漢公子の宮で、天印宮(てんいんぐう)という。
 この宮はかなり特殊な構造をしていた。
 天印宮は、天の川を直接引き入れているのだった。
 まるで河の上に宮が浮かんでいるように見える。
 敷地の中には飛び飛びに堂があり、それを繋ぐ廊下の下には、とうとうと流れる銀の河。
 天漢童子は渡り廊下の欄干に腰を下ろし、流れ行く川を眺めていた。
「浮かぬ顔だな」
 天河は声の方向に、目だけを動かす。
 叔父であり、この宮の主がゆったりとやってきた。
 威風堂々と付け加えるべきなのかもしれないのだが、天印宮の主には威厳も何もあったものではない。
 背丈ばかり伸びて、痩せた体つきに、貧相な顔つき。
 まとう空気は、真に柔和で、天の川の支配者には見えなかった。
 天漢公子は欄干に背を預け、甥の顔を見上げた。
「もう少しで、成人すると言うのに」
 ちっとも外見上の変化のない叔父は、からかうように笑う。
 天河は青い瞳を河に投げる。
「以前は早く大人になりたかった。
 早く一人前になって、姉上をお守りする力が欲しかった」
 天河は誰に聞かせるふうでもなく呟く。
 子どもであることが、嫌でたまらなかった。
 姉上を守りきれるほどの力が欲しかった。
「今は?」
「成人したら、今までのように逢いにいくわけにはいかぬ。
 姉上に、変な噂が立てられたら困る」
 子どもだからこそ、許されていたこともある。
 その特権を失うことが、恐ろしかった。
 けれども、時は無常にも流れていくのだ。
 この大河のように。
 天河は寂しそうに笑う。
 人は悲しいときでも笑うことができる、と知った。
「変な噂ね。
 それはたとえば?
 天漢公子はそんなに安っぽい名ではないと思うんだが」
 次の満月には、名を告ぐ甥を見遣る。
 天漢童子天河は成人した後、天漢公子となる。
 叔父である天漢公子は、天伯(てんはく)となる。
 天の川を統べるのは、天漢公子という決まりがあり、この叔父はお役御免となるのだった。
「姉上は私のような若輩者の妻になるようなお方ではない。
 もっと素晴らしい方の妃になるのがふさわしい」
「天漢公子の上のお方々は、妻帯者が多いぞ。
 それとも、天后(てんこう)を狙うのか?
 確かに天上一の地位だが、あの娘には似合わない。
 こじんまりとした幸せが」
「身分の話をしているんじゃありません!
 心根が素晴らしい方、という意味です」
 天河は叔父を睨む。
「なるほど」
 呆れながら天漢公子は甥を見た。
 まだまだ、子どもではある。
 自己評価と周囲の期待がかみ合っていないのだ。
「氷霧姫はしばらく独身でいそうだな」
 天漢公子は笑う。
「?」
「そんなに好きなら、夫君に立候補したらどうだ?
 見てくれは悪くないし、性格だってまともだ。まだ妃を一人も持っていないどころか、恋人すらいない。周囲の評判も良く、血筋は天帝の直孫で、身分も充分だ。歳も釣りあっている。そして、何よりも氷霧姫を想っている」
 天漢公子は指折り数える。
「条件は揃っている。
 後は何が足りない?」
 これほどの良縁は少ないのではないのだろうか。
 天帝も孫同士の婚姻を、手離しで喜ぶことであろう。
 天漢公子にはそう思えた。
「まだ、足りていません」
「それは面妖な」
 天漢公子は目を丸くする。
「姉上の気持ちが足りていません」
 天河は言った。


 もうこれまでのように通うことができなくなると思うと身を切られるように辛い。
 天河は寒花宮をゆるりと歩く。
 行く場所は決まっている。
 薄氷張る池がある院子だ。
 寒花宮の中でも北の場所、霧が常に立ち込められている場所。
「姉上、ご機嫌伺いに参りました」
 天河は氷霧姫に声をかける。
 霧が僅かに揺らぎ、氷霧姫はほんの少し天河に近づいた。
「ご加減はよろしゅうございますか?」
 天河は微笑んだ。
 成人の儀間際の天河には、従姉姫は華奢で小さく見える。
 見た目の年齢はずいぶん前にひっくり返ってしまっていて、天河の方が年長に見えるのだ。
「庭で芳香の素晴らしい薔薇がありました。
 美しかったので、ぜひ姉上にお見せしたく、持って参りました」
 天河は淡い紅色の薔薇の花を一輪差し出した。
「あいにくと、咲いていたのはこの一輪だけでした。
 もう少し後ならば、一抱えの束にできたのですが……残念です。
 最後に、姉上に差し上げたかったのですが」
「……最後?」
 粉雪同士がふれあったときに立つ音ほどに、小さな声。
 それが氷霧姫の声だった。
 もう聴けなくなると思うと、残念と言う言葉では足りない。
 身を二つに裂かれるよりも、辛い。
 痛くて、悲しくて、……喪失感が苛む。
「次の満月で、成人いたします。
 童ではいられません。
 このように、軽々しく姉上の元に来ることは……」
 天河は言葉を濁した。
 自分の口からはこれ以上は、辛くて言えなかった。
 星のようだと褒め称えられる瞳も、精彩を失う。
 天河は敷き詰められた色石を見つめた。
「もう……来てくれないの?」
 氷霧姫はささやく。
 天河は弾かれたように従姉姫を見た。
「ご迷惑ではありませんか?」
 天河の問いに、氷霧姫は首を横に振った。
 彼女を慕う霧が、僅かに晴れる。
 金剛石の切片のような煌きが撒き散らされた。
 華やかでも、優美でもない。
 ただ、ただ、儚くも、惜しいと思われる光景だった。
「迷惑だと、……思ったことはありません」
 綺麗な灰青色の瞳は真摯に天河を見上げていた。
「でしたら、毎日でも参ります。
 姉上のためでしたら、どんなことがあっても必ずこちらに参ります」
 天河は言った。


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