第五章


 寒花宮。
 宮の主、垂氷公主は北端にある堂を尋ねた。
 その堂の傍の池にいつも薄氷が張ることから、履氷堂(はくひょうどう)と呼ばれていた。
 薄氷を履む――非常に危険な場面にのぞむことのたとえ。
 それが由来の堂は、氷霧姫の堂である。
 堂とその主の性格は、無縁ではない。


「氷霧姫」
 垂氷公主は堂の中で従姉の姿を見つけて、安堵した。
「今日はどうしたのじゃ?」
 垂氷公主は優しく笑む。
 それが見せかけだということを、氷霧姫はわかっていた。
 だから、なよやかな少女は氷柱の影に隠れるのであった。
 堂の中にはたくさんの氷柱があり、心も凍るほどの冷気で満たされていた。
 床から天井までを繋ぐ氷柱は皆均一の大きさで、等間隔に並んでいた。
 一切の家具のない堂の中、氷柱ばかりがそびえ立つ。
 天上においても異様な光景であった。
「怒らぬから、教えてたもれ」
 妙齢の天少女は、嫣然とする。
 同性でも心が動かされるような、冬の少女らが統領にしては華やかな微笑である。
 が、氷柱の影から氷霧姫は出てこない。
 垂氷公主は無言で、手にしていた扇をパラパラと開く。
 氷を薄く削ってこしらえた扇の銘は『凍牙(とうが)』と言う。
 女人の手でも扱える実用的な武器で、一振りで泰山を凍らすことができる代物である。
「では、この氷柱を片っ端から壊していくとしよう」
 垂氷公主は楽しげに言った。
 氷霧姫は折らざるをえなかった。
 なよなよと氷柱から出でた。
「最初から素直に出てくれば良いのじゃ」
 垂氷公主は扇を閉じた。
 氷霧姫は睨む。
「そのような顔をしても恐ろしゅうないぞ。
 愛らしいだけじゃ」
 垂氷公主は勝ち誇ったように言う。
 氷霧姫は氷柱を庇うように立ち位置を変える。
 彼女にとって、この氷柱は無二の宝物。
「霧を統べるというのに、趣味は氷柱作りとは。
 妾と名を取り替えた方がよろしかろうよ」
 公主は見事な氷柱を仰ぐ。
 氷柱の中には、美しい花々。
 薔薇、百合、蘭、金木犀、蓮……。
 天上に咲く花、全てがあるように思われた。
 この寒花宮では咲かない花ばかりが、氷の柱の中には咲いていた。
「そのうち、天河もこの中に閉じ込められてしまうやも知れぬな」
「そんなことは」
 氷霧姫はささやくような小さな声で否定した。
「しない?
 さあ、どうであろう。
 そなたならやりそうじゃ。
 妾とは違う故にな」
 垂氷公主の言葉に氷霧姫は沈黙した。
「さて、今日の一件どうする気じゃ?
 叔父上は笑っていらっしゃったが、祖父様はカンカンじゃ。
 気が進まぬのはわかる故、そのことでそなたを責めるつもりはない。
 しかし、もう少し穏やかに断ることもできよう。
 文なり何なりで、その気のないことを伝えることぐらいできよう。
 土壇場になると、そなたはいつも雲隠れする。
 隠れている間に、事は終わるのを知っておる。
 卑怯だと、思わぬのか?」
 垂氷公主はためいきをついた。
 今日、寒花宮ではささやかながら管弦の宴が開かれた。
 天帝もご臨席という、実に晴れがましい席であった。
 花の咲かぬ寒花宮のためにと、天帝御自ら花を用意し、花見の宴が行われたのだ。
 しかし、花見と言うのは口実で、宴の真の目的は見合いだった。
 後見人のいない氷霧姫に、早く頼りになる夫君を見つけてやろうという親心がなせる騒動である。
 成人してだいぶ経つが、氷霧姫は未だに独り身であった。
 恋人の一人でもいれば、ここまでお節介を働く者もいないのだろうが、度を外れた引っ込み思案である。
 周囲が多少、お節介になるのは仕方がなかった。
「いっそのこと、天河と夫婦になったらどうじゃ?
 我が弟であるから、気が進まぬが。
 その辺の男よりは骨があるぞ」
 垂氷公主は言った。
 氷柱に閉じ込められた花の贈り主は、天漢童子。
 これほど熱烈に想われれば冥利に尽きる。
 氷霧姫はパッと身を翻して、氷柱に隠れる。
 金剛石のような氷の破片が周囲にまかれる。
 氷霧姫が未熟の証だ。
 成人しても、己の中の冷気を自在に操ることができないために起きる現象だった。
「どうじゃ。
 天河の妻になると言えば、祖父様も諦めなさる。
 いや、諸手を挙げて賛成するじゃろう」
 公主は言った。
「ご迷惑です」
 消え去りそうな小さい声が柱の影から告げる。
「迷惑ではないのじゃな?
 それは良いことじゃ。
 天河も喜ぶじゃろう」
 垂氷公主は氷柱の林をゆるりと巡る。
 堂の中は、冬の少女らであっても、震えるほどの冷気が満たされている。
「……知りません」
 氷霧姫は声をとがらせる。
 垂氷公主は氷柱に回りこみ、氷霧姫を見た。
 司るものそのものに、頼りない姫君は氷柱にぺたりと張りついている。
 そうしていれば、安全だと思っているのだろうか。
「妾は自分の都合の良い解釈をするぞ」
 垂氷公主は言った。
「知りません!」
 氷霧姫は叫んだ。
 ザッとまかれる氷霧。
 実に幼い反応だ。
 これで、自分よりも早く生を受けたとは思えない。
 垂氷公主はクツクツと喉を鳴らして笑う。
「良きかな。
 是非とも、叔父上にご報告を差し上げなければ」
 立ち去ろうとした公主の霞披を、氷霧姫は慌てて掴む。
「何じゃ?」
「言うの?」
 灰青色の瞳が懇願する。
「告げ口をするわけではあるまいし。
 目出度いことじゃ。
 そなたのように身分が低く、父母もいない者は、早う頼れる夫君を持つべきじゃ。
 それはわかっておるだろう?
 それとも、何か秘さなければならないことがあると言うのかえ?」
「……。
 ご迷惑でしょう」
 氷霧姫はうつむいた。
「それに」
 声が打ち沈む。
 それに合わせて、霧が深くなる。
 この寒花宮の主を前にして、霧が濃くなっていくのだ。
 忌々しい。
「それに?」
 機嫌悪く垂氷公主は問う。
「私にはわかりませぬ。
 殿方は皆、恐ろしゅうございます。
 天漢童子は、優しくしてくださいますが……。
 永遠ではございません」
「久遠が欲しいのかえ?」
「違います。
 垂氷公主もご存知でしょう?
 私はいつまで、私でいられるかわかりません。
 それなのに百年の誓いを立てることができましょうか」
 冬の少女らは、笑わない。
 硬く厳しい季節が笑顔を奪うため。
 その身に宿すのは苛烈な冷気。
 柔肌を切り裂く刃を、内に秘める。
 氷霧姫は心に決めたことを覆すことはない。
「もう幾瀬もの歳月が過ぎたではないか」
 垂氷公主は言う。
 氷霧姫とは従姉妹同士。
 幼い頃より知っている。
 彼女が最も恐れていることは何か知っていた。
「天帝様も、それをお知りになられますまい。
 私は、ただここで時が流れていくのを待つのだけで充分です。
 そう、それこそ叔父上のように」
 氷霧姫の白い頬に涙が伝った。
 それはすぐさま一粒の氷となった。
 真円の氷は、カツーンッと床を鳴らして、……砕けた。
「放っておいてくださいまし」
 少女の声は霧散した。
 白い霧が立ち込め、その姿は消えた。
 残された垂氷公主は、ためいきをかみ殺した。
「いつも、こうじゃ」
 吐き捨てるように垂氷公主は言った。
 従姉はいつもこのようにして、逃げてしまうのだ。
 困難に立ち向かう気は、さらさらない。
 この分だと、弟の想いは美しい思い出の一つにされてしまう。
 可哀そうに。
 垂氷公主はためいきをついた。


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