第六章


「祝いぐらいしてやったらどうじゃ?
 そなたときたら、もらいっぱなし」
 垂氷公主が軽く宙を見上げて言った。
 氷霧姫はあいかわらず、漂っていた。
 本性に戻るのは天人としては能力不足を意味するため、天人たちは外聞もあって通常、本性に戻らないように努める。
 下等な精霊はその神性が揺らぐと戻ってしまうこともあるが、この従姉は違う。
 好んで、本性に戻るのだ。
 今もただの霧に戻って、周囲に広がっていた。
 氷の浮く霧が辺りを白く覆う。
 垂氷公主の目から見ても、寒々しい限りの光景であった。
「天河もかわいそうじゃな。
 妾は弟が可愛い故、何をするかわからぬぞ」
 垂氷公主の言葉に霧は反応を示す。
 おぼろげに形を取り、天少女が現れた。
「天河のことがよっぽど好きなようじゃな」
 垂氷公主は鼻を鳴らす。
 放って置けば一日中、霧になって気ままに漂っている従姉だ。
 それが『天河』の名を出しただけで、人身に戻った。
 天が震えんばかりの驚きだった。
「嫌いじゃないわ」
 氷霧姫はささやくように言う。
「でも、宴は嫌いなの」
「一生に一度のことじゃ。
 あれも今日から一人前。
 従姉として立ち会ってもよかろう」
 垂氷公主はためいきをつく。
 氷霧姫の顔には、行きたくないと大きく書いてあるのだ。
 なよなよと頼りげのない風情故に、騙される男も多いが、氷霧姫は情の強い少女だ。
「妾の口は軽い。
 ありもしないことを言うてしまうかも知れぬ。
 見張らなくても良いのじゃな?」
 垂氷公主は弟のために、脅しを使う。
 しばらく考え込むような表情を浮かべて、氷霧姫は本性の霧に戻った。
「また、逃げおった」
 垂氷公主は眉をひそめた。

   ◇◆◇◆◇

 天印宮。
「許してたもれ」
 成人を果たした弟を見上げて、垂氷公主は言った。
「……。
 許すも何も、初めから謝る気がないのに、白々しい」
 呆れたように天漢公子、天河は言った。
 身なりが変わったせいか、それとも神性に輝きが増したのか、天河はその地位に相応しい姿だった。
 身の丈は七尺一寸(百七十一センチ)、それを包むは玄にも近い紺青の織文様の衣、重々しい錦の帯。玉は青金石、飾りは黄金。
 天漢公子は武官ではないので太刀は佩かず、代わりに象牙の笏を持つ。
「せっかくの席であるから、氷霧姫を連れてこようと思うたのじゃが。
 あの娘、逃げ回って捕まらなんだ」
 垂氷公主は扇で口元を隠した。
「こういった人の多いところは、姉上は苦手としていらっしゃられるから」
 かまわない、と天河は笑う。
「そうやって甘やかすから、あの娘はつけ上がるのじゃ」
 垂氷公主は忌々しげにつぶやく。
 氷霧姫の周囲の男は際限なく甘やかす。
 儚げな外見が要因だ。
 それが、垂氷公主には面白くなかった。
「それで、そなた今宵から晴れて大人の仲間入りじゃが、どうするのじゃ?」
 垂氷公主は訊いた。
「?」
 青金石よりも綺羅らかな瞳は、間抜けにもきょとんとする。
 垂氷公主は飲み込みの悪い頭にげんなりとする。
 煩わしげに垂氷公主が口を開こうとした瞬間
「これはこれは、冬の少女らが統領殿」
 声をかけてきた人物がいた。
 天界切っての色男と言われる天弓王・彩虹だ。
「お久しぶりです、従姉姫」
 彩虹は恭しく拱手をする。
 天少女の心を蕩かすような笑みを浮かべたが、垂氷公主には何の感慨も湧かなかった。
 むしろ氷の瞳は、この軽薄な青年を嘲るように見た。
「相変わらず、お美しい」
「当たり前じゃ。
 妾は冬の少女らが統領。
 死と絶望こそが妾の糧。
 天弓王、ご訂正を願おう。
 妾は美しいのではなくて、清らである」
 垂氷公主は言い切った。
 傍らにいた弟は呆れたように姉を見る。
「それは失礼。
 凡俗な言葉でしたね。
 貴方は、苛烈で麗しい」
 大仰に彩虹は言う。
 芝居がかった台詞に、今夜の主役はためいきをついた。
 褒め言葉など聞き飽きている垂氷公主は、冷たく笑った。
「その調子で、八人目の妃を物色するのかえ?」
「いやはや、まさか。
 妃は七人。
 それが、天弓王の定めですから、そのようなことは。
 全く、天帝様が羨ましい限りですよ。
 百八人もの女人を娶ることができるのですから。
 もちろん、天漢公子の地位も羨ましいですが」
 虹彩は天河を一瞥した。
「妃は一人で良い」
 天河は憤慨したように言う。
 天の規範――太綱では、天漢公子は八一人まで妃を持つことを許されている。
「残りの八十の未来を捨てるのか。
 もったいない」
 彩虹は言った。
「叔父上とて、独り身であった。
 妃は必ずしも持たなくても良い。
 無理して八十一人も妃を作らなくても良いのだ。
 第一、数が多すぎる。
 八十一だぞ。
 毎夜通ったとしても、一周するのに三ヶ月近くかかる。
 一体誰が決めたかわからぬが、迷惑な律だ」
 天河は言った。
「その言葉を聞いて、安心したわ。
 八十一人もの娘が泣かされるのは、かわいそうじゃからな。
 では、それを土産に妾は帰るとしよう」
 垂氷公主は笑む。
「一人で帰るのですか?」
 天河は訊く。
「迷子にはならぬ。
 それにその方が気楽じゃからな。
 ああ、良い。
 そなたは今宵の主役じゃ。
 変に気を回されても、妾が困る」
 困惑したような天河。
 ヒラリと凍牙を扇ぐ。
 小さな粉雪が舞う。
 その隙に、垂氷公主は天印宮を出た。

   ◇◆◇◆◇

 自慢の霞披で帰っても良かったのだが、そぞろ歩きをする気分になり、天の川のほとりを歩く。
 見上げた空には、天の河が雄大に流れている。
「天にも地にもとは、贅沢じゃな」
 垂氷公主はつぶやく。
「一人歩きは危険だよ」
 ふらりと姿を現したのは天伯となった叔父・高天(こうてん)。
 宴の主役なはずだが、いつも通りの気軽な身なりである。
「叔父上」
 垂氷公主はそう言ったきり絶句してしまった。
「寒花宮まで、送っていこう。
 綺麗な花を手折る無粋な輩も紛れているからね」
 高天は柔和な笑みを浮かべた。
「宴に戻らなくてもかまわぬのか?」
「ああ、堅苦しい席は苦手なんだ」
 高天は少年のような笑みを見せる。
「何と言っても、父上もご臨席だ。
 耳が痛い話ばかり聞かされる。
 やれ、早く妃を娶れ。
 子どもを作れ。
 せめて、恋人の一人でも、と。
 最後は泣き落とされる」
 高天は指折り数え、ためいきをついた。
「叔父上は氷花公主を忘れられぬのか?」
「忘れるのは難しい。
 垂氷公主は知らないから、疑問を持つんだろう。
 あのように、可憐で儚げな存在は忘れることはできない」
 高天は断言した。
 垂氷公主はそっとためいきをついた。
「天河も叔父上のようになるのじゃろうか」
 思ったこととは別のことを垂氷公主は言った。
「?」
「氷霧姫は、天河の妃にはならぬ」
 垂氷公主は言った。
 事実だった。
 冬の少女らは、天人の妃になることは稀だ。
 心に凍えるほどの冷気を宿しているために、それが本性故に、妻にはなれない。
「どうだろう?
 未来は誰にもわからないよ」
 気にした風でもなく叔父は言った。
「今のままでは、無理じゃ」
 垂氷公主は言う。
「季節が巡るように。
 時間が流れるように。
 不変のものはない」
 高天は言った。
 長いこと姿が変わらず、生き続けている者は、笑った。
「未来は良い方向で変わるものだ。
 誰かの願いがそこにあるのなら、より良い方向に。
 祈りは力になる」
 眩しいばかりの神気に、垂氷公主は目を逸らした。


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