碧桃の花精 起翔


 ウェン家の一番上の娘が帰ってきた。
 それだけで、辺り一帯は軽くお祭り騒ぎになった。
 離宮からやってきた車を取り囲んで、上に下の大騒ぎ。
 河の多い地域だけに十重に二十重と掛かった橋。そこに多くの人が押しかけて、河の中に転げ落ちる者まで出る始末。
 数少ない舗装された道を馬車は軽快に通り過ぎる。
 集まった民たちは口々に言う。
 大旦那様の上のお嬢様がお戻りだ!
 故郷を離れて、十数年。
 短くはない歳月。
 それでも、古里の人たちは暖かかった。
 メイワは――翁 翡燕(ウェン ヒエン)は人々の歓声に微笑んだ。


 久しぶりの我が家。
 嫁に出たはずの妹たちまで出迎えてくれ、いかに自分が心配されていたか実感する。
 年老いた両親、美しく成長した妹たち。
 確かな年月を感じる。
 そんなにも長い間、自分はここから離れていたのだ。
「大姉様、よーく顔をお見せくださいまし。
 私のこと覚えてらっしゃいますか?」
 黒髪が艶々とした美人が言う。
 高く結い上げた髪には玉の簪(かんざし)がいくつも挿されていて華やかだった。
 しかし、その華やかさに負けないほどのチョウリョウ美人。
 相手の方が背が高いため、ヒエンは見上げることになる。
 特徴的な丁子色の瞳は変わらないため、相手の名前はすぐ思い出す。
 家族の中で、ヒエンに次いで色素の薄い瞳を持つのは二番目の妹セキレイ。
「ええ、覚えているわ。
 阿鶺(レイちゃん)。
 私が家を出る前は、本当に小さかったのに。
 今では、私の方が小さいぐらいね」
 ヒエンは微笑んだ。
「ご無事で何よりですわ」
 そう声をかけたのは三女のアイサ。
 姉妹の中で、最も美しいと評判の乙女だ。
 雨に濡れた海棠の花のように、匂やかだった。
「大姉様」
 はにかみながら声をかけてきたのは、まだ成人前の少女。
 年のころは十一、二と言うところか。
 キラキラとした瞳が濡れた黒曜石のようで美しかった。
 その背に隠れるように十ぐらいの童女。
「阿雪(セッちゃん)と阿菊(キクちゃん)ね」
 初めて会う妹に、ヒエンは微笑みかける。
 幼い少女たちは歓声を上げる。
 恥ずかしそうに部屋から飛び出していってしまう。
 そこへ遅れて来た女性とぶつかりそうになる。
「全く、落ち着きのない。
 好い加減になさい」
「はーい」
 二人の少女は可愛らしく返事をすると、羽でもあるかのように部屋を出て行った。
「大姉様、お帰りなさい」
 おっとりとその女性は笑う。
 零れるような愛嬌のある女性だ。
「お懐かしい、と言っても、ほとんど覚えてはいないのですけれど。
 四妹のサンジャクですわ」
 柔らかな物腰で、女性は名乗った。
「まあ」
 ヒエンは驚いた。
 この落ち着きある女性は成人を迎えたばかりの妹とは。
 これでは三妹のアイサの方が若々しく見える。
「嫁ぎ先が中々、外出を許してくださらなくて。
 遅れて申し訳ございません」
 サンジャクは穏やかに言う。
「これで全員揃ったな。
 出て行ってしまったお転婆もいるが、な」
 父、フホウは言った。
「今日は久々の家族の団欒だ」
 嬉しそうな父の言葉に娘たちは自然と笑みになった。


 すっかり変わってしまった自分の部屋に、ヒエンは栓のないためいきをついた。
 仕方がないことだった。
 そう思うのだけれど、寂しく思った。
 この部屋を使っていたのは年端いかない頃。
 元のままであったら、今のヒエンには使い勝手の悪いものになっていたことであろう。
 シュホウの流行が微塵も取り入れられていないのは、名家ゆえの誇りだろうか。
 お陰で、ヒエンの格好も堅苦しいものである。
 錦の衣を複数重ねられた衣が重々しく、玉の簪がキリキリと頭を刺激する。
 動く度に鳴る歩揺(ほよう)に、爪にまでつけられた飾りに、げんなりする。
 ここ最近、明るすぎる柔らかな色合いの衣を選んで、身軽な格好を楽しんでいたのだから、余計である。
 自己主張の激しい色合いの袖に、ためいきが零れる。
 ちょうど、その時。
「少し、いいかしら?」
 母であるケイリが部屋に入ってきた。
 ヒエンは驚く。
 先触れもなしとは、らしくない。
「お母様?」
 ヒエンは小首をかしげる。
 その拍子にシャランと、歩揺が鳴る。
 高い金属音に、ヒエンは違和感を覚える。
「普段、そう言う格好をしていないのね」
 ケイリは穏やかに微笑むと、娘と卓を挟んで座る。
「侍女ですから」
「そうではなくて。
 今日見ていて思ったのだけれど。
 いつもはもっと動きやすい軽い布を身につけているようね。
 都での流行なのでしょう?」
 ケイリは言った。
「ええ。
 陛下がエイハン風を好まれますので、自然と。
 私には、華やかなものが似合いませんから」
「色が良くないわね。
 もっと、華やかな染めのものが良いわ。
 良い反物が合ったかしら?
 阿鶺に似合うから、貴方にもこの色が似合うと思ったのだけれど、全然駄目ね。
 阿翡はもっと色が薄いのね。
 子どもの頃よりも、髪も瞳も白っちゃけてしまったのね」
 ケイリはためいき混じりに、娘の装いに評価をつける。
 ヒエンは瞳を卓に落とす。
 忘れかけていたことだった。
 南城には、ありとあらゆる地域から兵士が集まってきていたため、ヒエンの色素の薄さは目立たなかった。
 もっと、色彩が淡く金にしか見えない色の頭髪や夏の青空のように青い瞳の人物もいた。
 ……こんな自分でも、美しいと言ってくれる男性もいた。
 だから、忘れかけていたのだ。
 自分がどんなに不細工だったのか。
 年頃を過ぎて、若さもない醜女であることを。
「貴方に似合いの衣を仕立てなければ。
 離宮ではどんな衣を着ているの?
 参考にするわ。
 明日、着付けてみましょう。
 普段の装いを見れば解決の糸口が見えるかもしれないわ」
 ケイリは名案だと言わんばかりにまくしたてる。
「え?
 衣裳は充分、ありますわ。
 これ以上、仕立ててどうなさるのですか?
 私は、離宮に戻るのですし」
 一ヶ月間、毎日朝夕に着替えをしても余るほどの衣裳を両親は用意して待っていた。
 親孝行だと思い、着せ替え人形になっていたのだが、まだ足りないらしい。
「良いのよ、お金のことなら気にしなくても。
 我が家は潤いすぎているのだから。
 今まで娘に衣一つ選んでやれなかったんですもの。
 この後、こんな機会はないかもしれないわ。
 一生分の楽しみをさせてちょうだい」
 ケイリはニコニコと言った。
 そう言われてしまうと、反論の余地がなかった。
 ヒエンは大人しくうなずいた。


 翌日。
 都の流行にも精通している着付け師が呼ばれた。
 だが、ヒエンの衣裳を見て途惑いを禁じえなかったようだ。
「流石はウェン家の小姐(お嬢様)。
 一級品をお持ちですな。
 都でも、いえ宮殿でもこのように見事な一式は稀でございますな」
 着付け師である中年の女は感心した。
「奥侍女の待遇ってこんなに素晴らしいの?」
 アイサは興味津々に訊いた。
「珊瑚よ」
 五妹のセッカは末妹のキクサイに説明する。
「それって海にしかない宝石でしょう?」
 キクサイは真ん丸な瞳をさらに真ん丸にする。
 ヒエンの都から持ってきた装身具や衣に母と妹たちは驚く。
 葛篭(つづら)一つで一財産だ。
 それが全部、五つ。
「半分以上、いえほとんどが貰い物よ」
 ヒエンは苦笑する。
 どうしても側に置いておきたい物だけを選んできたのだ。
 ヒエンの全財産はこれの三倍以上はある。
 一度は綺麗に処分してしまったのだが、あっという間に集まってしまった。
 奥侍女として恥ずかしくない程度の、たしなみとしての装いもあるが……。
「十六夜公主がお優しい方だから、何かと下賜なされるのよ。
 皇太后様は絹の織物の価値に無頓着だから、一度袖を通した物はよっぽどでなければ女官にくれてしまう方だから。
 お二人の側近く使えさせていただいている私は、どうしても衣裳持ちになってしまうのよ」
「珊瑚も?」
 セッカは目聡く訊く。
「いえ。
 流石に珊瑚は下さらないわ」
 ヒエンは言った。
「これだけあると、衣を選ぶのも一苦労だ」
 そう言いながらも着付け師は衣の色を見て選んでいく。
「せっかく珊瑚や真珠なんて珍しい物があるんだ。
 活かさなけりゃ、勿体ない。
 まあ、まずはこの辺りでも通用するのが良いかねぇ」
 着付け師が選んだのは、偶然にも伯俊が選んだ物であった。
 しっとりとした手触りが懐かしかった。
 あのときのことは忘れられそうにない。
 惜しげもなく贅沢な品をくれたのだ。
 南城には名家の子弟が特に選ばれてやってきていた。
 彼も名の知れた家の者なのかもしれない。
 身分をひけらかすのを嫌うのか、姓を名乗ることはなかった。
 誰も彼もが、下働きの者や出入りの商人ですら彼を字で呼んでいた。
 だから、ヒエンは彼がどこの誰かを知らない。
 他の武人たちは自分の出身地や家柄を、親しくなるにつれ教えてくれたのだが……。
 彼のことだけ、知らないのだ。
「まあ、素敵だわ」
 セッカの声で、ヒエンは考えを中断する。
「こういう色が似合うのね。
 ああ、もっと他の衣も着せてちょうだい」
 ケイリは着付け師をせっつく。
「もったいないわ」
 うっとりとアイサは呟く。
「これからはもっと小姐にお似合いなる物ばかり」
 訳知り顔で着付け師は妹たちに言った。
「ホント?」
 キクサイは嬉しそうに訊いた。
「ああ」
 中年の女はうなずいた。
 ヒエンは少し困ったように微笑んだ。


「大姉様。
 院子を歩きませんか?」
 ヒエンが屋敷に帰ってきて一週間もした頃。
 アイサがそう誘いに来た。
「ええ、良いわよ」
 何かにつけて、物珍しさか引っ張りまわされる。
 母の美容に付き合わされたり、父と棋を打ったり。
 セッカやキクサイと共に楽を奏でたり、セキレイと香合わせをしたり、と。
 皆用事を見つけて、ヒエンの部屋にやってくる。
 何も疑わず、ヒエンは院子に出た。
 咲き初めの白木蓮の下。
 アイサは真剣な面持ちで立ち止まった。
 ここに来てようやく、アイサが誘いに来たのは今日が初めてだと気がついた。
「何か、悩み事かしら?
 私でよければ相談に乗るわよ」
 ヒエンは微笑んだ。
「大姉様はまだあの方のことをお好き?」
 美しい乙女は鋭く訊いた。
「え?」
「あの方は大姉様でなければ嫌だとおっしゃったそうです。
 ……名を交わしていらっしゃったのでしょう?」
 アイサは言った。
「あ……」
 ヒエンは自分の迂闊さを呪った。
 全ての人に良かれと思ってしたことが裏目に出てしまった。
 運命があの時、間に合っていなかったら、今頃ヒエンはギョクカンにいたはずだ。
 だからこそ、幼なじみの君に妹を薦めたのだ。
 だが、ヒエンは今ここにいるのだ。
「あれは幼い頃のことよ。
 私たちの間はもう何もないのよ。
 破談になったもの。
 それはちゃんと手続きを踏んだものよ。
 事実上の離縁と同じ。
 貴方が気にすることではないわ」
 自分の声が上滑りしているのがわかる。
「でも、あの方は……忘れてらっしゃらない。
 今でも、大姉様を欲していらっしゃる。
 あの家の者たちは外で何と言われているかご存知でしょう?
 どんな手段であろうと、気兼ねしません」
 アイサは白木蓮の花を見上げる。
「碧桃の花がこの家で咲く頃、迎えが来ます」
 美しい乙女は顔を歪める。
 遠くで蕾が綻び始めたあの花は……。
 濃い桃色のあの色は、碧桃。
「早く、お逃げになって」
 アイサは向き直る。
「大姉様には、もう違う方がいらっしゃるのでしょう?」
「え?」
 ドキッと胸を貫かれる。
「珊瑚の簪のお方が」
「……」
 どう答えて良いものかわからずに、ヒエンは口を閉ざした。
「私にはわかります。
 隠さなくてもよろしいですわ。
 でも、大姉様、貴方はここにいてはいけないのです。
 守りの堅い白鷹城の後宮で、公主のお傍に。
 そこでしたら、あの家の者でもおいそれと手出しはできません。
 お父様もお母様もこの話に乗り気なんです。
 手遅れにならないうちに」
「駄目よ、三妹。
 この家は繋がりを失うわけにはいかないの」
 振り返ると、セキレイが立っていた。
「まだ、嫁いでいない貴方にはわからないかもしれないけど。
 私たちは家の繁栄のためにいるのよ。
 大姉様なら、わかってくださいますよね?」
「ええ、そうね」
 ヒエンは瞳を伏せた。
 それが運命と言うならば、仕方がないこと。
 逆らう気も起きはしなかった。
「そんな!」
 アイサは悲鳴を上げた。
「良いのよ。
 大丈夫だから」
 何が大丈夫なのだろうか。
 それすら良くわからないまま、言葉を乗せた。

 その日から、ヒエンは監視をつけられた。
 この屋敷に戻ってからの日々は、全部見合いへの下準備だったのだ、と格子の嵌った部屋に軟禁されてから、気がついた。
 ヒエンは格子の嵌った窓から、夜空を見上げる。
 欠けた月がようやく天頂に掛かろうとしていた。
「どこにいても、月は美しいのね」
 ヒエンは呟いた。
 一寸先は闇だ。
 どこにどんな出来事が待っているかわからない。
 十六夜の月に見守られて、馬の背に乗っていたときも、そうだった。
 いつだって想像しない未来が待っているものだった。
「今頃、どうなさってらっしゃるかしら?」
 主を思い浮かべ、それからその婚約者。
 離宮で暮らす人々を一人ずつ思い出し、最後に彼を思い出す。
 ヒエンはほんのりと微笑んだ。


 彼女は運命を受け入れる覚悟をした。
並木空のバインダーへ > 「碧桃の花精」目次へ > 承翔へ

「鳥たちの見た夢」本編 第70章へ