第七十章

 日課のように上官の書斎に行くと、彼は珍しく立っていた。
 普段なら、黒檀でできた大きな卓について、面白くなさそうに竹簡でも読んでいるというのに。
「おはようございます」
 シュウエイは立礼した。
 時刻は七つ。
 おかしくはない挨拶だが、ソウヨウは不可思議な微笑を見せた。
 曖昧な色の瞳を床に落とし、口の端だけに笑みを刻む。
「ご存知ですか?
 メイワ殿は実家に帰ってしまったんですよ」
 ソウヨウは言った。
「はい。
 それが何か?」
 シュウエイは知っている情報だったので、訊き返す。
「いえ。
 別にたいしたことではありません」
 その言葉とは裏腹に、何か含むようにソウヨウはシュウエイを見た。
「言いたいことがあるなら、はっきり言ったらどうですか?」
 シュウエイは憮然と言い放った。
「いえ。
 いつまで時を逸しているのか、と思いまして」
 ソウヨウは慈悲の権化のような顔をして言った。
 からかわれたことに気がついて、シュウエイは赤面した。
「貴方には関係ないことでしょう!」
 語気も荒くなる。
「だって、面白いじゃないですか」
 純粋無垢な微笑みで、ソウヨウは言った。
 愉しんでいる。
 シュウエイはぎゅっと拳を握る。
 質が悪い、このクソ餓鬼が!
「こんな面白いことに、首を突っ込まずにいられる人間なんているんでしょうか?
 賭けにもなっているんですよ。
 頑張ってくださいね!
 私、応援していますから」
 ニコニコとソウヨウは言った。
「賭けたんですか!」
「あれぇ。
 駄目でしたか?
 流行ってるんですよ、今」
「率先して貴様がやってるんだろう!」
 ぷち
 シュウエイは堪忍袋の緒が切られる音を聞いた。
 自分の恋の行方が賭けの対象にされて、嬉しい人間なんているはずがない。
「あはは。
 どうしてわかっちゃったんですか?
 おかしいなぁ」
 ソウヨウは笑顔を崩さずに言う。
 わざと、だ。
 全部、わざとだ。
 こうやってわざわざばらして、人の反応を見て愉しんでいるのだ。
 シュウエイはこんなクソ餓鬼に引き合わせてくれたモウキンと運命の神様を恨んだ。
 これから先も、付き合っていかなければならないのだ。
 こんな人間の腐った奴と。
「安心してください。
 上手くいくほうに賭けてあげました」
 誇らしげに青年は言う。
「……。
 まさか、大穴だとか言い出しませんよね……」
 シュウエイは疲れてきて、投げやりに言った。
「流石、シュウエイです。
 良くわかってるじゃありませんか。
 ちなみに本命は『メイワ殿に気がつかれずに、彼女が他の男性と結婚してしまい、あまつさえその披露宴に友人代表として招かれてしまう』という踏んだり蹴ったりの良いことなしの結果です」
 ソウヨウはとても嬉しそうに告げる。
 それが、本命。
 シュウエイは目の前が真っ暗になる。
 それほどまでに、自分の恋は前途多難なのだろうか。
 ……そうなのかもしれない。
 納得できてしまえるのが、悲しい。
「一口、どうですか?」
 親切ごかして、ソウヨウは訊いた。
「いりません!!」
「えー、どうしてですか?」
 ソウヨウは不満そうに口を尖らせる。
 何が悲しくて自分の恋の結末の賭けに乗らなければならないのだ。
 この常識知らずめ。
 内心で罵るものの、すっきりはしない。
「お守り代わりに。
 上手く行く方に賭ければ、運が向いてくるかもしれませんよ」
 ソウヨウは言った。
「そんな気分になれません」
「おや、それは残念です」
 ちっとも残念そうな顔をせずに、ソウヨウは言った。
 シュウエイはためいきをついた。
 他人にからかわれるのは気分の良いものではない。
「あ、そう言えば!」
 新しいネタを思いついたらしい。
 わざとらしくソウヨウは言う。
「何ですか?」
 げんなりしながら、シュウエイは訊いた。
「先ほど、シュウエイの家から書簡が届いたのです」
「はあ」
 毎日届くものだから、新鮮味が薄れている事柄だ。
「火急に、とのことだったんで知らせに行ってあげようと思ったんです」
「ご親切にどうも」
「行こうとしてたところにシュウエイが来たものだから、ついつい忘れて話し込んでしまいました」
 ……普通、忘れるものだろうか?
 火急の意味がない……。
「と言うわけで、大変なんです!」
 ソウヨウは言った。
 全く、焦らずに。
 もう少しぐらい、それらしい顔をすれば良いものを……。
「どれぐらい大変かというと、泰山(たいざん)を逆立ちで登攀(とうはん)するようなぐらい大変なんです」
 訳のわからない話が持ち出される。
「わかりますか?」
「大体は」
 いいえ、と言いたいところをグッと我慢してシュウエイは返事をした。
 これ以上、訳のわからないことを話し込まれたら、火急の用事にたどり着けない。
「シュウエイは優秀ですね。
 私でも良くわからない喩えなのに」
 ソウヨウは笑顔で言う。
 上官の顔をぶん殴ったら、さぞやすっきりすることだろう。
 シュウエイは本気で考え始めた。
「そんなことはさておき。
 心の準備はできましたか?
 聞いても驚かないでくださいね」
 今の会話の流れに、覚悟を促うながすような展開があったのだろうか?
 シュウエイは記憶を振り返る。
 ……。
 ない、と断定できる。
「意外にたいしたことではないので、肩透かしかもしれません」
 ソウヨウは、ほえほえと言う。
 上官ぶん殴って、地方に飛ばされる方がこの後の人生、楽なような気がしてくる。
「あなたの父上が危篤で、明日も知れない状態らしいんです。
 落馬したときに、打ち所が良くなかったそうです。
 ……すっごく、ありきたりですよね。
 何か、よく聞く話だけに面白みもありません。
 死の商人らしく、今までの恨みを買って暗殺されるとか、世を儚んで飛び降り自殺とか、もっと面白く脚色した方が良いと思うんですよ」
 ぶつぶつとソウヨウは書卓に広げられている書簡を見て文句を言う。
 後半部分はシュウエイの耳には入っていなかった。
「父が危篤?」
 シュウエイの脳裏には、仕官を決めたときの父の顔が浮かぶ。
 もう5年も前の話だ。
 名家シャンの跡取り息子が、一平卒として赴任することが気に喰わず、最後まで反対した。
 武で身を立てなければならない家柄ではない。
 それでも「お前は、商売に向いていないからな」と送り出してくれた。
 死の商人と陰では言われていたが、家族思いの陽気な父だった。
 翔家の当主として、伺候を許された立場であり、文官としてほどほどの地位を与えられているものの、仕官に興味があるはずもなく、朝の中で会うことは稀だった。
 シュウエイ自身も、積極的に父に会いに行こうと思ったことがなかった。
 だから、思い出すのは5年前の父の顔だった。
「それで、帰りますか?」
 ソウヨウに問われ、我に帰る。
「はい。
 できることでしたら」
 シュウエイはうなずいた。
「親の死に目に会えないと、一生後悔しますからね」
 ソウヨウは軽く言った。
 まるで、それが一般常識だと言わんばかりに。
 その表情も穏やかな笑顔で、いつも通りだった。
 ただ、緑色の瞳は凪いでいた。
 弱冠の大司馬には、すでに親と呼べるような人間がいない。
 戦とはそういうものであるし、シュウエイが恵まれているだけだとしても、何となく居心地が悪くなる。
「何か変事があった場合は、カクエキに押しつけますし。
 行ってらっしゃい」
 ソウヨウは笑顔で送り出す。
「ありがとうございます。
 失礼いたします」
 シュウエイは深く頭を垂れると、踵を返した。
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