碧桃の花精 承翔


「どうしたんだ?
 血相を変えて」
 その一言が全てであった。
 一を聞いて十を知る。
 姓は翔、名は集英。字は伯俊。
 チョウリョウの都の北、山湖(さんこ)省の豪族の長子。
 誉れも高き前将軍。
 二十を数えた青年は生家の入り口で、がっくりとした。
「まあ、どうでもいい。
 お帰り」
 壮年の男は言った。
 姓は翔、名は金烏。
 死の商人と陰でささやかれる、チョウリョウきっての大商人である。
 うだつの上がらない印象が拭えない貧相な小男である。
 この親子、似たところがあるとすればその髪色と質感であろうか。
 黒よりも黒い紫黒色の腰の強い髪。
「あれ、兄貴。
 帰ってきたんだ」
 騒ぎを聞きつけたのか、これまた小柄な男が現れる。
 日に良く焼けて、屈託のない笑顔が良く似合う。
 まるで、農村の小作人のようだが、翔家の次男坊。
 シュウエイの三つ下の弟、ヨウキだ。
「あ!
 にいやだ!」
 ぴょんと庭先から飛び出してきた、溌剌とした少女。
 シュウエイの数え間違いでなければ、今年成人したはずの妹、オウカ。
「あらあら、何の騒ぎ?
 お帰りなさい、帰ってきたのね。
 長旅で疲れたでしょう?
 さあ、お茶を淹れてあげますから。
 中に入りましょう?
 いつまでも、こんな入り口にいないで」
 おっとりと微笑んだのは母である、ランホウ。
 大層美しい女人で、間違いなくシュウエイは母親似であった。
「父上!
 どうして、生きてるんですか!?」
 シュウエイは納得がいかずに、怒鳴った。
「父、危篤。
 すぐ、帰れ。
 だなんて、今どきガキでも引っかからないぜ」
 ヨウキがケラケラ笑う。
「にいや、また騙されたの?」
「本当にお人好しだ。
 お前の後先が心配だよ」
 しみじみとキンウは言う。
「あまり変わりがなくて、安心したわ」
 ランホウはにこやかに告げる。
 ――そんな家族である。
 シュウエイはためいきをついた。


「どうして、嘘をついたんですか?」
 父の書斎で、シュウエイは愚痴る。
「お前の顔が見たかったんだよ」
 キンウはお茶をすする。
 器はギョクカン製の白磁の器で、碗の内側には七枚の花弁を持つ梅が描かれている。
 この器一つで、平民の屋敷一つが買える。
「父上が参内する度に、お会いしておりますが?」
 シュウエイは言った。
「ランランも心配していたんだよ」
 夫婦仲は大変よろしいらしく、相変わらず妻を小字(しょうじ)で呼ぶ。
「どこに嘘をつく必要性があったんですか?」
「堅いことを言う。
 嘘も方便と言うじゃないか」
「ついて良い嘘と悪い嘘があるともいますが?」
「大司馬殿も快く協力を申し出てくれた」
「……」
 白鷹城に戻ったら、この借りは返してやる。
 シュウエイは決意した。
「それに書簡では埒が明かないしなぁ。
 お前の字は汚すぎるし、読みづらいし。
 こればっかりは、どんなに良い先生をつけても直らなかったな」
 キンウはためいきをつく。
 痛いところを突かれて、シュウエイは押し黙る。
「漢文の才が、全くないわけではないのに。
 書簡にすると駄目だというのは、不思議なものだ」
 キンウはうんうんとうなずく。
 それから、ゆっくりと茶碗を空にする。
「うすうすわかっているだろうが。
 お前を呼んだのは、他でもない」
 キンウは重々しく言った。
 シュウエイは顔をしかめる。
 武官としての出仕を咎められるか、それとも身を固めるように勧められるのか。
 どちらにしろ、断りの文句しか出ないようなことだ。
 親不孝だとしても、これだけは譲れないと言うものがあるのだ。
「暇だったんだよ」
 父はキッパリと言った。
「今は面白い商いがない時期でな。
 花見の季節には早すぎるし、困っていたところだ」
 真顔でのたまった。
「だから、帰ってくるのが嫌だったんです!!」



 チョウリョウでも北に位置する山湖省は、都よりも春が浅い。
 夜ともなれば、肌寒い。
 南城での生活に馴染んでいただけに、違和感を覚える。
 薄ぼんやりとした雲に包まれた月を見上げながら、シュウエイは深く息を吸い込んだ。
 それはすぐさま、ためいきへと転じる。
 一体、何のために自分はここにいるのだろうか?
 時間が無駄に過ぎていくようにしか、思えない。
「あれ?
 何してんの?」
 東屋の方から、ヨウキがやってくる。
「することがないから、月を眺めていたところだ」
 シュウエイは言った。
「ふーん、月ねぇ。
 やっぱ、兄貴はお上品だよなぁ」
「兄上、と呼べ。
 聞き苦しい」
「いいよ、俺向いてないから。
 堅苦しいの、キライだしぃ」
 ヨウキはニヤニヤと笑う。
「この家を継ぐのだから、ある程度の礼儀は覚えないと、後で苦労するのはお前だぞ」
「次男坊なのにぃ。
 兄貴が商売下手だから。
 ま、仕方がないけどさぁ」
「仕方ないついでに、言葉遣いも覚えるように」
「肝に銘じておきます、兄上様」
 しゃちほこばってヨウキは言った。
 が、すぐさまそれも崩れる。
「こんな夜分に月なんて見て、楽しい?」
「そういうお前こそ、何してるんだ?」
「あはは、そりゃ決まってんでしょ。
 コレ」
 ヨウキは人差し指同士を二回叩き合わせる。
 『逢い引き』を意味する仕草だ。
「相手の家にはもう行ったのか?」
「まだだよ。
 めんどくさいから、野合ですましちゃおうかと思って」
 ヨウキはあっけらかんと言った。
「家名が泣くな」
 シュウエイは盛大にためいきをついた。
「背負って立つもんなんて、ない方が気楽だぜ。
 好きでこの家に生まれてきたんじゃない。
 自分の女ぐらい、自分で決めるさ」
 ヨウキはにやりと笑った。
「それもそうだ」
 シュウエイはうなずいた。
「兄貴だって、好き勝手なことしてるんだ。
 俺だって、好きにやらせてもらうさ。
 どうせ、家(うち)んちはこそ泥の家系なんだ。
 今さら見栄張っても、意味ないし」
 気楽な次男坊は言う。
 その自由さがうらやましいと、シュウエイは思った。
 チョウリョウ屈指の家柄の翔家、その直系で嫡男。
 その肩書きを背負って立つ運命の青年は苦笑した。
 縛られるのに、慣れすぎたのだ。
 見栄を切るのに、そんなに苦痛を感じなくなっている。
 そんな自分がおかしかった。


 鳥陵という地域において翔家は名族だった。
 だが、その直系は不運続きで、傍系の方が羽振りが良いという有様。
 それが祖父の代の頃までの話だ。
 没落しかかっていた家を建て直したのは、父であるキンウだ。
 幼い頃は浮浪児に間違えられ、日銭を稼げずにかっぱらいまでしていた男が、成人を迎える頃には一財産を築いていた。
 運に恵まれ、投資する相手を見誤らなかったためだ。
 どんな商売もやったし、人に言えない後ろ暗いこともあった。
 それでも頑張ったのは、最愛の女性を妻に迎えるためであったと言う。
 エイネンの血を引く皇孫女。
 権力からほど遠いところにいたとは言え、それを得てからはとんとん拍子。
 シュウエイが生まれる頃には、誰もが一目置く家になっていた。
 両親は長男に朝廷で通じる礼儀を身につけさせた。
 それも徹底的に。
 シュウエイは歩く広告になった。
 満足した両親は次子以降、教育に手を抜いた。
 だから、ちぐはぐな家族が出来上がるのであった。
 シュウエイにとって、笑い話にはならない……。
 それが、同時に面白いところだった。



 昼下がり。
 春めいてきた院子を見渡す格好の東屋で、ささやかにお茶が振舞われる。
「木末芙蓉花
 山中発紅萼
    (木の梢に咲く芙蓉の花
     山中に紅き花を開く)」
 咲き初めの木蓮に、シュウエイは呟く。
 高貴な色合いのその花。
 麗らかな春である。
「借り物でも、にいやが言うと違うね」
 なかなか辛辣にオウカが言う。
「せめて兄様と呼べないのか?」
「良いよ、別に。
 呼び方一つで、その人が別人になっちゃうわけじゃないだし。
 礼の本質は『仁』なんでしょ?
 形式ばかりを追い求めていたら、本質を見失っちゃうよ」
 オウカは言う。
 商家の娘らしく、口が回る。
「全く」
 シュウエイはためいきをつく。
「にいやは、奥さんにも口うるさく言いそうだね」
「は?」
「やれ、箸の上げ下ろしだぁ、呼び方だぁ、歩き方だぁ、って。
 あんまりうるさく言うと、煙たがられちゃうよ」
 オウカはクスクスと笑う。
「大丈夫よ。
 伯俊の奥さんになる人は、そういうことがきちんとできる女性だから」
 ランホウが言った。
「え? そうなの?」
 オウカはクリクリとした瞳をシュウエイに向ける。
 シュウエイは困惑する。
「理想が高いから、条件に満たっていない相手は歯牙にもかけないでしょう?」
 ランホウはにこやかに、きつい一言を言う。
 一面、合っているので反論ができない。
「ふーん。
 だから、まだ結婚しないの?
 この前も、断っちゃったよね。
 一回しか見たことなかったけど、すっごい美人だったのに」
「顔の美醜で人を判断しているわけではない」
 シュウエイは憮然と言った。
 先だって会った女性は、確かにチョウリョウ美人だった。
 だが、それだけだった。
 心を動かされるようなものがなかったのだ。
「そう?
 でも、少しでも奥さんは美人の方が良いとか、思わない?」
 世の男たちは皆そうである、と言うようにオウカは言った。
「美人かどうかということは関係ない。
 自分の目で、その人が真に美しければ問題ない。
 これは顔の美醜ではなく、心根のことだ」
 シュウエイは言った。
 ただ一人の女性が思い浮かぶ。
 いつも笑顔を浮かべている佳人だ。
 苦しいときも、辛いときも、そんなときだからこそ笑う。
 そのしなやかな強さに憧れる。
 その強がりを守りたいと願う。
「やはり親子ね。
 あの人と同じこと言うわ」
 ランホウは嬉しそうに言う。
「……」
 確かにこの母は善女であろう。
 が、父が顔の美醜を気にしなかった証拠にはならない。
 エイネンの血のせいか、チョウリョウの典型的美人という枠から外れるが、しとやかな立ち振る舞い、百合の花のようなスラリとした肢体、黒々とした髪。
 充分に、美人である。
「ああ。
 この分だと、小(ちい)にいやの結婚、先延ばしだね」
「?」
「にいやを差し置いて、結婚できないでしょ?
 跡継ぎ問題で、もめちゃうもん」
 オウカは明るく言った。
「跡は仲楽が継いだ方が良いと思うだが……。
 私には商才がない。
 父上は、まだ私を廃嫡なさらない」
 全くもって理解しがたいことだった。
 都で武官として仕官している以上、家を継ぐのは物理的に無理なのだ。
 弟のヨウキ自身も納得しているし、覚悟している。
 後は父がうなずくだけなのだが、五年以上宙ぶらりんになっている。
「難しいことは私にはわからないけれど。
 親子の縁を切ってしまうようで、嫌な感じがするのかもしれないわ。
 あの人、とても寂しがり屋だから」
 おっとりとランホウは言う。
 寂しがり屋……。
 違和感の漂う言葉だが、シュウエイはとりあえずうなずいた。
 母の目には、そう映るのかもしれない。


 家に戻って、三日。
 充分、親孝行をしたと自分に言い聞かせ、その実とっとと疲れる父から解放されたいと思い、シュウエイは暇乞いをしようとしていた。
 そうは問屋が卸さない。
 キンウは息子の首根っこを捕まえると
「さて、遊びに行くぞ!」
 ご機嫌に言った。
「私は都に帰ります。
 仕事を放り投げてこちらに来たんです。
 今頃、滞って皆に迷惑をかけて」
「安心しろ。
 お前の上司は話がわかる」
 言い訳を並べて逃れようとしていた息子に、父はにこやかに言う。
「一月、戻らなくて良いそうだ。
 お前が家に帰ってきた夜に書簡が届いた。
 まだ、二十歳を越えてもいないというのに、均衡の取れた政治能力を持つな」
 キンウはソウヨウを手放しで褒める。
 それはそうだろう。
 あの大穀倉地帯で、一筋縄ではいかない老練な連中相手に、当主であり続けたのだ。
 それに実力主義の皇帝の直々のご指名で、夏官の長になったのだ。
 愚鈍であるはずがない。
「大司馬は政治に参加できるとは言え、惜しい。
 宰相の下についた方が、この国に貢献できるだろう」
 キンウは言った。
 ぞっとするような未来である。
 シュウエイは想像しないように努めた。
「さて、行くぞ!」
「どこに行くつもりですか!?」
「花見だ。
 ここは都と違って、酒も魚も上手いが、ちっとばかり春が遅すぎる」
「都の花は、ほぼ終わってますよ」
 父の見たい花とはどうせ初春の花。せいぜい、二月か三月までに咲く花までだ。
 今はもう四月の中旬。
 花見には、遅すぎる。
「友人の家で花見だ。
 船で出掛けるぞ」
 上機嫌でキンウは言った。
 シュウエイには逆らう気力もなかった。
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