碧桃の花精 転翔


 ほんの一年前まで。
 ヒエンは嫁ぐ日を夢見ていた。
 いつかはあの方の妻になるのだ、と思っていた。
 それは誇らしげであり、大きな喜びであった。
 長い冬が終わり、春が巡ってくる度に、いつ迎えが来るのだろうかと思っていたものだった。
 歳を重ね、その約束が両家の思惑と政治的な駆け引きで、白紙にも近い扱いをされていることを知る。
 その頃には分別がつき、大人になっていたので、幼き頃の思い出を頼りに生きていくのも悪くない、と考えた。
 想うだけなら、自由、と。
 いつか『嫁ぐ』と夢を見よう、と。
 ……そして、一つ前の秋。
 その夢を終わらせる決意をした。
 三妹のアイサを自分の代わりにと、ギョクカンに行く自分の代わりにと。
 正式に破談した。
 紅葉が美しい季節だった。
 それで、話は終わったはずだった。
 しかし、現実には続きがあって、今もあの方は自分を妻に望んでいることを三妹の口から聞く。
 ヒエンはためいきをついた。
 それは喜びから程遠いものだった。
 幼い頃に約束を交わした背の君に逢うというのに、その顔を彩るのは憂鬱。
 今日、彼の方が来るのは間違いない。
 ヒエンは朝も早くから、入念に支度させられたのだ。
 良い香りがする花弁が浮かんだ風呂に入れられ、どこもかしこも磨き上げられた。
 袖を通すようにと、差し出された衣はこの日のために仕立てた物。
 小花が丹念に織り込まれた朱華(はねず)色の衣に、織り目の粗い白い衣を重ねる。白い衣には裾の方だけ紅色で刺繍が施されている。裳は紅梅色で帯は月色。
 髪には、庭で咲いた桃の花。
 実に若々しい装いで、ヒエンにとっては頭が痛くなるものであった。
 おおよそ、嫁き遅れた娘の格好ではない。
 もっと、相応しかろう衣裳があると思うのだが、これしか用意されていないのであれば、着るしかなく……。
 ためいきも深くなるばかりだ。
 あの方にお逢いできる。
 そう聞いても、心は躍らない。
 気が重くなるばかりだ。
 逢ってどうするというのだろうか。
 昔とは違う。
 自分は変わってしまった。
 あの方は、変わらないのだろうか?
 変わらず、想ってくださっていたのだろうか?
 お逢いしたのは一度だけ。
 言葉を交わしたのは、ほんの一時だけ。
 頼るには儚い縁を忘れずにいてくれた……。
 思惑と政治的な駆け引きを乗り越え、その約束を果たしにいらっしゃる。
 それに引きかえ、自分は不実だ。
 お逢いするわけにはいかない。
 どんな顔をして逢えば良いのかわからない。
 逢いたくない、ではなく。
 逢ってはいけない。
 きっと、あの方を失望させてしまうから。
 ヒエンが何度目になるかわからないためいきをついた時のこと。
「大姉様」
 控えめに部屋に入ってきたのは、五妹と六妹。
「どうしたの?」
 ヒエンは反射的に柔らかく微笑んだ。
 二人の妹は、目配り合わせる。
 やがて口を開いたのは、セッカだった。
「大姉様は、想う方がいるんでしょう?」
 不安げに、少女は言った。
 ヒエンはどう答えて良いものか、わからなかった。
 そうだとも言えず、違うとも言えなかった。
 その様子を見た妹たちは肯定と取ったようだった。
「三姉様が言ってたの。
 家との繋がりが欲しいなら、自分でも良いはずなのにって」
「三姉様と今日来るお方はお逢いしたことがあるの」
 セッカとキクサイは言った。
「逢ったことがある?」
 ヒエンは驚いた。
 三妹のアイサは幼い頃から目鼻立ちが整っていた。
 そのため、父も嫁ぎ先を良く吟味していた。
 群雄割拠の時代、誰が明日の覇者になるかわからない。
 国外であっても、有力な人物なら嫁がせる価値がある。
 だから、アイサは成人前に婚約が整っていなかったのだ。
 そんな妹が、結婚前に男性と逢えるはずがなく、たとえやがて夫になるべき人物であろうとも、早々に許可は下りないはずである。
「もうずっと前のことで、二姉様が成人なさる前のことだから、私たちは良く覚えていないのだけれど」
 キクサイは言った。
「成人した折に、我が家に挨拶に見られたの。
 三姉様は、垣間見なさったのよ」
 セッカが詳しく話す。
「でもね、三姉様は振られちゃったの。
 だからこそ、これは渡り船なわけ」
 ニコニコとキクサイは言った。
「大姉様に他に好きな方がいれば、結婚が整わないでしょう?
 それで、大姉様には逃げて欲しいの。
 みんな幸せになれて、とっても良いと思うの」
 こちらも笑顔でセッカが言う。
 結婚が現実感を伴わないお年頃らしく、面白がっているのだ。
「そういうわけにはいかないわ。
 あの方にお逢いしなければ」
「「どうして?」」
 二人は目を丸くする。
「お逢いして、きちんとお話をして、それから決めなければいけないわ」
 ヒエンは幼い妹たちに聞かせる。
「嫌だからといって、逃げ出してはいけないわ。
 自分の行いには、責任を持たなければいけないの。
 お逢いして、自分の真心を伝えなければいけないのよ。
 だから、逃げるわけにはいかないの。
 わかったかしら?」
 ヒエンは妹に向けながらも、自分のために言う。
 逃げてはいけない。
 今、ここで逃げて、両家に禍根を残してはいけないのだ。
 それに、恋に不誠実であってはいけない。
 後で悔いることになるだろう。
「でも……」
 セッカは口を尖らせる。
「さあ、早くここから出て行ったほうが良いわ。
 お父様とお母様に見つかったら、怒られてしまうかもしれないわ」
 ヒエンの言葉に、二人の妹は退出の挨拶もなしに、出て行った。
 二人の行動に、ヒエンは苦笑を禁じえなかった。
 妹たちなりに心配してくれたのだろう。
 ただ、それがあまりにも不恰好で、おかしかった。
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