碧桃の花精 結翔


 山湖省から南に下る。
 船上の人となったシュウエイは流れ行く景色をぼんやりと眺める。
 ワッと咲く花々、茂る青草。
 船縁からもそれは良く見て取れる。
 大河を下り、船は江南(こうなん)省に入る。
 船旅はゆっくりとしたものなはずだが、そうならないのが商人気質。
 馬で旅するのと変わらないか、それよりも早いか。
 あっと言う間である。
 朱鳳に近い、河の都。
 ここは翁一族が古くから治める地である。
「父上、花見とお聞きしたのですが」
 シュウエイは父を見る。
 キンウは飄々と小船に乗り換える。
 解けた糸のように広がる河に、いくつもの橋が架かる。
 大きな船では、不自由で仕方がない。
 この地方では生活の足として、小船を高きも低きも好む。
「もちろん」
 キンウは息子の帯を掴むと、小船に乗り込んだ。
 逃走防止のためだ。
「綺麗な花を見るためだ。
 ここまで来ると、春らしい。
 ほれ、あそこに花蘇芳が咲いておるよ」
 キンウは川縁に植えられた花蘇芳を指し示す。
 蝶のような形をした赤紫の花が枝にびっしりと咲いているのが見える。
「父上の友人とは、もしかして……」
 シュウエイは顔を歪める。
「何、緊張しているんだ?
 遠慮することのない間柄だ。
 翁家のおべっか坊やに逢いに行くだけだ。
 覚えているだろう?
 あの人の好さそうな小父さんだよ」
 ニコニコと、キンウは言った。
 シュウエイは血の気が引く音を聞いた。
 できることなら、一番近寄りたくない家だった。
「きっと、今が見ごろだ」
「騙したんですね」
 シュウエイは父を見据えた。
「何がだい?
 花を見て宴会することを花見と言うんだよ?
 友人は、快く承諾してくれた」
 キンウはとぼけたように言う。
「その花が比喩表現ならば、違う呼び方をすると思うのですが?」
「ああ、そうだねぇ。
 でも、花見は花見だ。
 それに昔から言うじゃないか。
 騙される方が悪いって」
「狐狸(こり)」
 シュウエイは翔家の蔑称の一つを口にした。
「もっと、巧くやるよ。
 道具も使わずにやってみせるんだ。
 手者(てしゃ)と呼んで欲しいね」
 キンウは気にせずに言った。
 闇の中で彷徨う半生だ。
 罵倒の言葉は褒め言葉に聞こえるのだろう。
「お前にだって人を引っ掛ける楽しさはわかると思うんだけど」
「私は父上たちとは違います」
 シュウエイは断言した。
 器用な生き方ができないからこそ、身を戦に投じたのだ。
「その体を巡る血潮は間違いなく翔家のもの。
 戦場での評価は耳にしている。
 自分がどう評価されているか、知っているかい?」
 嬉しそうに父は言う。
「さあ?」
 あまり興味のない事柄ゆえに、シュウエイは知らなかった。
 他人の評価よりも、身近な人間の評価こそが重要だった。
 命をやり取りする中では、遠くの人間の評価など意味がない。
 目の前の人間が信頼できるか、どうか。
 そればかりを気にしていた。
「武略の奸才(かんさい)」
 ドスンッ、と胸に沈む言葉。
 おおよそ褒め言葉ではない。
 悪意のこもった呼び名だった。
 『戦術における悪知恵が働く者』
 まさか、そんな評価がつけられているとは思わなかった。
「頼もしい限りじゃないか」
 キンウは明るく笑った。
「ん?
 不満なのかい?
 騙すか、騙されるか。
 商売も、用兵も、基本は同じだ。
 騙された方が負けなのさ。
 立派な称号じゃないか。
 そんな顔しなさんな。
 せっかくの男前なんだ。
 ちょっとでも花嫁さんの気を引かなきゃならんと言うのに、しょうがない息子だよ」
「花嫁?
 どういうことですか、父上!
 見合いに行くんじゃないんですか!?」
「同じようなもんさ」
「全然、違います!」
「相手がくれるって言うんだから、もらっとけば良いのさ。
 こっちが損するわけじゃない」
「人は商品じゃないんですよ」
「ずいぶんと初心なことを。
 人身売買だって立派な商いさ。
 一夜の恋が買える時代だ。
 目新しくもないだろうに」
 キンウは、チョウリョウの民らしくないことを言う。
 上流階級の人間は、決して口にしないことをあっけらかんと。
 子弟に『生涯一度の恋』と説くのは、道理がある。
 政略結婚を円滑に行うためだ。
 たやすく離縁されては困る親たちは、子どもに説く。
 『ただ一度の恋』だと。
 その言葉をくりかえし聞かされた子どもたちは、年頃になり、婚約者に一目で恋に落ちるのだ。
 作為的だか、それで鳥の名を持つ者たちは上手くやってきた。
 強固な思い込みは、信仰にすらなる。
「冗談も大概にしてください」
「こんな笑えない冗談を言ってどうするんだい?
 今さら四の五の言っても遅い。
 とっとと腹を括るんだね」
「できるわけないでしょう!
 何度も申し上げているように私には」
「きっと気に入るさ。
 綺麗な綺麗な花だそうだ。
 まあ、話半分にしとかないと、期待しすぎてがっくりきちゃうかもしれないけどね」
 息子の話の腰を折ると、キンウは機嫌良く言った。


 翁家の当主、フホウは友人とその息子のために、わざわざ家の前まで出て待っていた。
 フホウは背の高い壮年の男性で、人を無条件で惹きつける魅力にあふれていた。
 父と何故、友人なのかわからない。
「遠路はるばる、よく来てくれた」
 フホウはキンウの肩を叩く。
「花見に来たぞ。
 今年の庭はどうだ?」
 キンウも嬉しげに、フホウの肩を叩く。
 親しげなその様子に、シュウエイはいつも不思議に思う。
 いったい、どうやってこの二人は知り合い、親交を深めたのか。
「今年は格別だ。
 お前の家よりも美しい」
 フホウはにこやかに告げる。
「それは大きく出たものだ。
 じゃあ、早速見せてもらわないとな」
「その前に、しなければいけないことがあるだろう?」
「おお、そうだった」
 父はようやく息子を思い出したようだ。
 視線が合った。
 案外『見合い』が口実で、懐かしい友に逢いに来たのかもしれない。
 うっかりそんなことを考えてしまうほど、楽しげだった。
「伯俊殿、ご立派になられたな。
 前将軍を任じられたとか。
 先だっての戦では、ギョクカンの皇子を屠られたそうで」
 フホウは穏やかに微笑む。
「お久しぶりです。
 私は大司馬の素晴らしい策を遂行したに過ぎません。
 若輩者ゆえ、過分な身分を与えられ、途惑っている毎日です」
 シュウエイは拱手した。
「いやいや。
 任務を忠実に遂行する部下という者は得難いものだ。
 ぜひ、伯俊殿にお見せしたいものが。
 どうぞ、こちらに」
 フホウに招かれて、翔親子は屋敷に踏み入る。
 伝統美あふれる邸宅だった。
 古き良き時代を偲ばせる。
 回廊を渡り、奥へ奥へと進む。
 院子は春の盛りで、花々の饗宴。
 蜜を求めて彷徨いこんだ胡蝶までが、計算のうち。
 まるで恰幅の絵のようである。
 幾つかの堂を通り過ぎて。
 美しい乙女が飛び出してきた。
 海棠の雨に濡れたる風情。
 なよなよとして、泣き濡れた印象の美人だ。
「お父様、私は反対です!」
 乙女は開口一番に言った。
「大姉様の意思を無視して縁談を進めるだなんて!」
「これっ!
 何を言い出すんだ阿秋」
 フホウは慌てて、娘の口を閉じさせようとするが遅い。
「お聞きくださいませ!
 大姉様には想う方がおありになるんです!
 此度の縁談は大姉様の本意ではございません。
 父に監禁され、不孝もできずと大姉様はこちらにいらっしゃいますが。
 どうかお願いいたします。
 大姉様のお気持ちを汲んでくださいませ」
 乙女は言い募った。
「なるほど」
 キンウはうなずいた。
 乙女はほっと胸をなでおろした。
 が、それは早計。
「これぐらい手強くなくてはな!
 なかなか面白い。
 是非ともお逢いしなければな」
 キンウはあっさりと言った。
 心強い友の言葉にフホウも笑みをつくる。
「三番目の娘が失礼した。
 伯俊殿、どうぞこちらに」
「お父様!」
 悲鳴のような叫び声を無視して、フホウは案内を続ける。
「想う方がおありだと?」
 シュウエイはフホウに問うた。
「作り話でしょう。
 娘の口から、男の名前が出たことはない。
 見合いと言うと、ついつい及び腰になるのは、若い娘特有の恥じらい。
 下の娘二人も、見合い前は何か理由をつけたものだ。
 やれ体調が良くない、やれ今日は占いの卦(け)が良くない。
 そんなものです」
 フホウは穏やかに言った。
 シュウエイには納得のいく説明ではなかった。
 想う方がいる。
 ……その事実が、気分を滅入らせる。
「さあ、こちらです。
 阿翡。
 お客様だ」
 フホウが部屋の奥にいる娘を院子まで出るように呼び寄せる。
「はい、お父様」
 しっかりとした返事が返ってくる。
 馥郁たる桃の香り。
 可憐な女人がそろそろと裳裾を気にしながら堂から現れた。
 陽光燦然。
 碧桃の花精。
 シュウエイは瞬くのを忘れて、見つめた。
「五番目の娘か?」
 キンウが問う。
「まさか、あの子はまだ成人してません。
 一番上の娘です。
 字は鳴和」
 フホウは紹介する。
 娘はぼんやりとしていたが、やがてハッと気がついて優雅に一礼した。
「二十歳を越えていると聞いて心配したが、これならかまわないな。
 実に瑞々しい。
 この春、成人したと言っても誰も疑わないだろう。
 まあ少し小柄ではあるが、細い体でも子を何人も産めるもんだ。
 お互いの妻が、その証明だな。
 うんうん。
 これは美しい花嫁だ」
 ご機嫌にキンウは言った。
「チョウリョウの美人とは言えないが」
 フホウは困ったように笑った。
 翁家の娘は器量良しで有名なのだ。
 しかし、この娘は美しいと言うと語弊がある。
「いやいや。
 うちの辺りや、それよりも北に行けば、このぐらいの色の人間は珍しくない。
 散々、文句を言っていた息子が見蕩れるほどの可憐な風情」
「そう言っていただけるとこちらも助かる。
 これ、阿翡。
 伯俊殿に院子でも案内して差し上げなさい」
「はい。
 こちらの碧桃が見ごろですわ」
 娘は微笑みかける。
 シュウエイはぎこちなくうなずいて、二人は院子を歩き出した。


「私、びっくりしてますのよ」
 碧桃の林の中、ヒエンは微笑んだ。
 柔らかな衣がそよ風に揺れ、霧のように消えてしまいそうだった。
 春特有の柔らかな色彩が良く似合う。
 淡い青の空も、優しい桃色も、彼女のためにあるように思えた。
「こんなところで伯俊殿に逢うとは思っていませんでしたから」
「逢うつもりは、こちらも……ありませんでしたから」
 シュウエイは美しい光景に目を細めた。
「どうして名乗ってはくださいませんでしたの?」
 可憐な乙女は不実をなじる。
 その言葉自体が、甘い響きすぎて耳に心地よい。
「一度は破談になっていましたから。
 できるだけ、その……貴方の意思を、尊重したかったんです。
 貴方が他に想う者がいるなら、……それでかまわない、と」
 そう、思っていました。と、シュウエイは微かに笑う。
「本気でそう思ってらっしゃったんですか?」
 黄玉石の瞳が真剣に問う。
「全部が全部と言われると、嘘が混じるかもしれません。
 貴方を幸せにするのは、自分でなければ嫌だと思っていましたから」
 シュウエイは白状した。
 碧桃のおかげだろうか。
 今日は思っていることを言葉にすることができる。
 ヒエンは瞳を瞬かせ、それから白い頬を染めた。
 乙女は袖で口元を隠す。
「ずっと、貴方を想ってきました。
 私の妻になっていただけませんか?」
 シュウエイはようやく言えた。
 奇跡のような再会を果たし、想像よりも美しくなっていた彼女を見て以来、告げようと思い続けていた。
 その言葉が言えた。
「いつ、私だと気がついたのですか?
 私は一度も家名を言わなかったのに」
 震えている声が尋ねる。
「再びお逢いすることが叶ったあの日。
 初めて貴方が南城に来た日です」
 鮮やかに思い出せる。
 春を告げる花精が現れたのかと思ったのだ。
「どうして?」
「忘れることができないこの美しい瞳。
 黄玉石の瞳を持つのは、貴方ぐらいです」
 今も自分を見上げる美しい瞳。
 その瞳に映れることが至上の喜びだ。
「では、私は感謝しなければなりませんね。
 人よりも、薄い色合いだから、ずっと気にしていましたけれど。
 この瞳のおかげで、伯俊殿に見つけて頂けたのなら」
 ヒエンはうつむいた。
 伽羅色の髪に挿された桃の花弁が散る。
 花弁が白いうなじに、肩にハラリと掛かる。
 それが何とも艶めいて見えて、シュウエイは慌てて目を逸らした。
「お返事を頂いてもかまいませんか?」
 ためらいがちにシュウエイは問う。
 ヒエンはコクンとうなずいた。
 それが、返事だった。
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