碧桃の花精 幻翔


「ずっと、悩んでいたんですよ」
 責める言葉も心地よい。
 何を? と瞳を転じて問えば、可憐な風情の女性は可愛らしくためいきをつく。
「私は知りませんでしたもの。
 婚約者の字が伯俊とおっしゃるなんて」
 ヒエンはすねる。
「私も鳴和と言うのは知らなかった」
 シュウエイはクスクスと笑う。
「全然、意味が違います!」
 ヒエンは羽根枕を叩く。
 ぽすっと枕はヒエンの拳分だけ沈む。
「それで?」
 先を促すと、ツンッと顔を背ける。
「だから、とっても悩んだんです。
 でも、今から思えばそれがくだらなさすぎます」
 苛立っているのだろう。
 ヒエンの声はかなり尖っている。
「一体、何を悩んでいたんだ?」
「あなたのせいです」
 黄玉石の瞳がシュウエイを捕らえる。
「私の?」
「一番最初に名乗ってくだされば、私は悩む必要性がなかったんです」
 ヒエンは言った。
 それで、シュウエイは何となく当たりがついた。
 こそばゆいほどの喜びが湧き上がってくる。
「償いとして、私は何をすればいいのかな?」
 シュウエイは新妻を自分の胸に抱き寄せる。
「もう!」
 それを咎める者がいるとしたら、目の前の女性だけだ。
 ここは閨の中。
 蜜月のとき。
 新郎新婦は一週間は寝室を出てこないものだ。最低でも三日三晩は、親が 死なない限りは外には出ない。この期間を『お篭(こも)り』と呼び習わす 。
 それを経て、二人は正式に夫婦になったと世間に認められるのだった。
 もちろん、四六時中一緒にいるのだから、ケンカすることもあるが、おお むねチョウリョウの民はこの習慣を好み、子弟に押し付ける。
 シュウエイは柔らかな伽羅色の髪を手櫛で梳く。
 細い髪は自分のそれとは異なり、微かな癖を持つ。
 ヒエンの髪は女性にしては短い方だから、少し物足りない。
 もう少し長くても良い、とぼんやりとシュウエイは思った。
 伸ばさないからにはそれなりの理由があるのだろうが、勿体ない。
「自分に自信がなかったんだ。
 貴方があんまりにも綺麗になりすぎていたから」
 シュウエイはささやいた。
「綺麗だなんて……」
 自分の容姿に絶対的に自信がない女性は、言い訳だと取る。
「本当だ。
 貴方に見つめられるだけで、胸の鼓動は高くなり。
 その声を聴くだけで至福。
 ついつい貴方に見蕩れて、言葉を紡ぐことを忘れてしまっていた」
「嘘ばかり」
「今もそうだ」
 シュウエイはヒエンの手を取ると自分の首筋に導く。
 びっくりしたらしく、細い手がピクッと震える。
 ヒエンはすっと手を引っ込める。
「こんなにドキドキしていては体が持ちませんね」
 感心したように呟く。
「これでも、ずいぶん慣れたんだ」
 シュウエイは苦笑した。
「でも、やっぱり納得できません」
 ヒエンは言う。
 話が元に戻るところを見ると、かなり重要な話なのだろう。
「どうすれば許してくれる?」
「……。
 一生、許せないかもしれません」
 ヒエンは一生懸命考えた末に言った。
 ……一生。
 それはずいぶんと重い罪だ。
「じゃあ、一生かかって償うよ」
 シュウエイは微笑んだ。
 ヒエンも失笑した。



 二人はめでたく結ばれ、幸せに暮らした。
 ずっと……。
 それは碧桃が結んだ恋。
 鳥陵で受け継がれていく話。
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