第六章

 シユウが治める地、チョウリョウ。
 その唯一の姫は、十六夜姫と呼ばれ、胡蝶の君と呼ばれる。
 母譲りの美しい容姿のためでもあるが、二つ名の由来はそれだけではない。


 春。
 花に誘われて、ヒラリヒラリと蝶が舞う。
 シキョ城の内宮の、さらにその奥。
 後宮のすぐ傍の奥庭。
 限られた者だけしか立ち入る事のできない、空間。
 シユウが妻子の庭。
 蝶は陽光に誘われて、ヒラリヒラリと楽しげに。
 その舞には、羽衣、扇もなく、楽すらなく。
 あるのは、刃。
 小さな白い手は、細身のすっきりとした刃を握っていた。
 乱れることなく、剣は宙を切る。
 この見事な舞の観客は二人。
 後は物言わぬ草木たちだけ。
 やがて蝶の舞いは静かに終わった。
 剣を鞘に納めると、少女は顔を上げた。
 ニコッと笑う。
 それが、区切り。
「烈兄、シャオ!」
 ホウチョウは大好きな二人の下に駆け寄る。
「おはよう!」
「ああ、おはよう」
 武烈の君と称されるシユウの長子、コウレツは妹の頭をなでる。
 ホウチョウの笑顔はますます輝かしいものとなる。
 少女はこの兄が大好きなのだ。
「おはようございます」
 小柄な少年は丁寧に答える。
「また、腕を上げたな!
 芸術ってもんだな、あれは」
 コウレツは上機嫌に言う。
「んー、まだまだよ。
 雛兄にこの前、それではせいぜい蛾だって言われたばかりだもん」
 次兄の厳しい評価を思い出し、ホウチョウは落ち込む。
「何?
 全く、アイツは口を開けば余計なことしか言わねぇな」
 コウレツは不快そうに歪ませる。
「雛兄が言うからにはまだ蛾なんだわ。
 こう言うことに関しての雛兄って間違っていないもの」
 ホウチョウは言った。
 シユウの長子は武に秀で、次子は文に秀でる。
 鳳の君と称されるホウスウは芸に関して、一流の目を持つ。
「だけど俺には十二分にキレイに見えた。
 さすがは、我が妹。
 胡蝶の名は伊達じゃねぇ、ってな」
 コウレツは十も離れた小妹を軽々と抱き上げた。
「ホントに?」
「嘘ついて、どうする?」
 よく似た茶色の瞳が見合う。
「烈兄、大好き!」
 少女は兄の首に腕を回して抱きつく。
 妹に甘いコウレツは嬉しそうに笑った。
「そう言えば」
 ホウチョウは大人しく控えているソウヨウを見て思う。
「ん?」
「烈兄とシャオが一緒なんて、珍しいね」
「ああ、稽古つけてやろうと思ってな。
 鳳のところから、かっぱらってきた」
 コウレツは悪気なく笑う。
「稽古って?」
「コレだ」
 コウレツは腰に帯びている剣を叩く。
「えー!」
「別に変じゃないだろう?
 こいつだって、もう十だ。
 同年代の奴らに比べたら、かなり小さいけどな」
「シャオ。
 あなた、剣なんて扱えるの?」
 ホウチョウは驚く。
「おいおい。
 いくらなんでも、ソウヨウに失礼だろ」
 コウレツは苦笑する。
「だって。
 今までシャオが剣を持っているとこ、見たことないわ!」
「じゃあ、これから見れるぞ。
 俺は楽しみなんだぜ。
 新しい弟ができたみてぇでよ」
 コウレツは妹を降ろす。
「安全なトコいろよ」
 兄に言われて、ホウチョウは建物の側まで下がる。
 すれ違いざまにソウヨウを見たら、いつものように困ったように笑っていた。
「さあ、始めようぜ」
 コウレツは楽しげに笑う。
「懐をお借りします」
 ソウヨウは頭を下げる。
 そして、腰に帯びていた剣をスラリッと引き抜いた。
 普通の剣に比べて、その剣は一回りは小さかった。
 ホウチョウが扱うそれよりも小振りで、小剣と言ってもおかしくはない大きさだった。
 それはつまり、少年はそれだけの重さしか持てないと言うことだった。
 剣の重量は、技術と同じ。
 重たければ重たいほど良いのかとは、一概には言えないがある程度の重量は必要だ。
 斬る、とは重たさで、相手を断つことだから。
「自分に相応しい得物ってのは見極めがたいが……。
 好感が持てるな」
 コウレツは長剣を引き抜く。
「ありがとうございます」
 ソウヨウは言った。
「まあ、死ぬ気で来な。
 遊んでやる」
「お願いします」
 ソウヨウはそう言うと剣を構える。
 そして、跳ねた。
 おそらく上から振りかぶるであろうと思われた剣筋は、違う軌跡を描いた。
 上段でも中段でもなく、銀のきらめきは下から上に跳ね上がった。
 コウレツは一歩後ろに下がり、それを避ける。
 小さな剣はひねりを利用して、左から右へ宙を斬る。
 コウレツは長剣でそれを流す。
 二人は十歩ほど離れて、間合いを取る。
「変わった剣を使うな。
 面白い」
 武烈の君は笑う。
 打ち合うこと五合。
 ソウヨウの手が地面につく。
「シャオ!」
 ホウチョウは、悲鳴にも似た叫びを上げる。
「まだ、やるか?」
 余裕の笑みで男は聞く。
 コウレツにとっては、ちょうどいい準備運動にしかなっていない。
「当然です」
 少年は剣を拾い、立ち上がる。
 呼吸が乱れ始めているというのに、軽く微笑んでいた。
 日頃、覇気がないと評される緑みが強い茶色の瞳には、諦めも焦燥も浮かんではいなかった。
「面白い。
 本当に、面白いな。
 お前は」
 コウレツは嬉しそうに言った。
 少年は剣を構え、走り出す。
 一瞬、屈んで跳ぶように見せかけ、コウレツの脇を薙ごうとする。
 コウレツは体をひねり、長剣を振り下ろす。
 ソウヨウは横に跳び、避ける。
 一歩踏み出して、がら空きになったコウレツの背に、小さな剣は襲いかかる。
「甘い!」
 鋭い剣撃が、宙を横切りする。
 ソウヨウは二歩、跳びずさる。
 事の成り行きを、ホウチョウはハラハラと見守っていた。
 弟分は予想を上回るほど強かった。
 くやしいことだが、少年は圧倒的だった。
 シユウの娘であり、剣舞の手ほどきを受けたホウチョウには、良くわかった。
 同世代と比べたとき、ソウヨウの剣は異質。
 すでに完成された型を持つ。
 天賦の才。
 そう言わしめるものがあった。
 けれども、兄の方が強い。
 年の差の分だけ、経験の差の分だけ、二人には実力の差があった。
 もし、この勝負が五年後であったら、勝敗は引っくり返っていたかもしれない。そう思わせるほどの、才能。
 戦神と呼ばれる、兄コウレツ。
 今年で二十一を数え、心身ともに充実していた。
 兄が勝つ。
 それは疑いようがない、必然。
 現にソウヨウは息を切らしているというのに、コウレツは楽しんでいた。
 ホウチョウの心配は、何かの拍子で兄が本気なってしまったら、と言うことだった。
 熱くなりやすい兄だけに、不安だった。
 刃をつぶしていない真剣。
 命すら危うい。
 ほんの一瞬の、判断の遅れであっても、銀の軌跡は軽々と彼岸まで運んでいってしまう。
 ホウチョウは祈るように組み合わせた指先に力を込める。
 早く終わってほしい。
 大きな瞳は不安げに揺れていた。
 何度目かの金属音。
 少年はドサッと、地面に落ちる。
「参りました」
 息も絶え絶えに言った。
 額に張り付いた樫色の髪を、無造作に払う。
「楽しかったぜ。
 また、やろう」
 コウレツは長剣を鞘に収める。
 少女は弾かれたように走り出した。
「シャオ!」
 名を呼ばれた少年は上体を起こす。
「大丈夫?」
 ホウチョウは絹の裳が汚れるのも気にせずに、ソウヨウの傍に座り込む。
「は、はい」
 ソウヨウはうなずく。
「本当に?」
「はい。
 武烈様が手加減なさってくださったので、この通り……。
 ちょっと、痣と擦り傷ができましたが、これぐらいなら鍛錬ではごく普通のことですし」
 少年は袖をまくって、腕を見せる。
 成長期特有の細い腕には、これといった外傷はない。
「本当に、大丈夫?」
 ホウチョウは不安げに訊く。
 息もできないくらいの不安が、少女の中で渦巻いていた。
 怖かった。
 剣の打ち合いを見るのは初めてではない。
 歳の離れた兄たちが剣を交わすところを、物心がつく前から見てきたのだ。
 何かの弾みで深い傷を負ってしまうことぐらい知っているし、その現場に立ち会ったことすらある。
 そのときでも、こんな気持ちにはならなかった。
 こうして少年の無事を確かめても、安心ができなかった。
「はい」
 ソウヨウはしっかりとうなずいた。
「いくらなんでも、本気にはならないぜ」
 コウレツは苦笑した。
「大丈夫です」
 ソウヨウは微笑んだ。
「よ、良かっ……た」
 大きな瞳に見る見ると涙が溢れた。
「良かった。……、よ、良かった……」
 ホウチョウは少年に抱きつくと、泣き出した。
 ようやく、ようやく、息ができる。
 身の内の不安は、涙としてとめどなく溢れ、開放されていく。
「シャ、オが、シャオ……が無、事で……!」
 ホウチョウは幼子のように大泣きしながら言った。
 少年は普段と違う少女に途惑いながら、おずおずとその背を優しくなでた。
「もう、いや。
 もう、やっちゃダメ!
 ……シャオは。
 わ、わたしのなんだから!
 もう、やっちゃダメなのぉー!
 ……剣、ダメー!」
 ホウチョウは全身で訴える。
 あんな怖い思いはしたくない。
 離れたら、またあんな気持ちになるような予感がして、ホウチョウはソウヨウの小さい体にしがみついた。
 ぎゅっと、くっついていても心臓は早鐘を打つ。
「約束して!」
「もう、こんなこと……しないって」
 理不尽な願いを、少女は口にした。
「はい、約束します」
 ソウヨウは優しくうなずいた。
「絶対よ!」
「はい、絶対です」
 ソウヨウは答えた。




 チョウリョウには剣舞を舞う胡蝶がいる。
 美しい容姿と舞の見事さ。
 けれども、彼の姫がそう呼ばれるのはその『心』。
 優しく、傷つきやすく、夢のように儚い。
 硝子細工のような心ゆえに、
 彼の姫は『胡蝶』と呼ばれる。
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