第百七章

 真夜中の暗殺者。
 闇に紛れて、それは寝所に立ち入る。
 そよと風が吹くかのように、自然に。
 天蓋の薄い紗が揺れる。
 細い灯心がその者を照らし出す。
 緑色の瞳が鮮やかに夜に映えた。
 ソウヨウは白刃を眠る海月太守の首に突きつけた。
 瞬間。
 目が見開かれる。
 気配は消したはずだが……、気づかれたか。
 それでもかまわない。
 その方が事が早くすみそうだ。
 ソウヨウはそう思い直して、柄を握りなおす。
 首の主は、真っ直ぐにソウヨウを見つめる。
 驚いたようでも、怯えたようでもなく、睨みつけるわけでもなく、無感動に鉄色の瞳を向けていた。
「もう少し、驚いてくれても良いと思うんですが?」
 ソウヨウは抑揚の乏しい声で告げた。
「これでも、驚いていますよ。
 ただ、どうしてこうなったか、ある程度は推測できますが」
 太守は静かに言った。
 ただならぬ事態に、海姫も目を覚ました。
 悲鳴こそ上げなかったものの、漆黒の瞳がソウヨウをマジマジと見つめる。
「では、私がここに来た理由も良くおわかりですね」
 ソウヨウは白刃をわずかに首から離し、笑顔で訊いた。
「それには残念ながら、答えられませんね。
 なにぶん、可能性が多すぎます」
 太守はまるで他人事のように、動じない。
「理由は一つですよ。
 あなたが不快なんです」
 ソウヨウは、はっきりと言った。
「席を移しませんか?
 ここでするような話には思えません」
 太守は冷静に提案した。
 海姫は顔色を失い、婚約者の袖を掴んだ。
「沖達!」
「大丈夫ですよ」
 優しくその手をほどく。
「全然、大丈夫じゃないよ!」
「大丈夫です」
 太守は海姫の髪を愛惜しむように梳く。
「話はすぐつきますよ」
 言い聞かせるように、ささやいた。
 まるで今生の別れとなるかのように、海姫は太守にきつく抱きついた。


 場所を変えて、院子。
 今宵の月は惜しいことに半月。
「ここは大司馬府で、私が大司馬だということにようやく気がついたんです。
 ここで何が起きても、おかしくはないことに」
 ソウヨウは言った。
 先ほどの短剣はしまった。
 話をするのに、武器は必要ないからだ。
「ええ、そうですね」
 太守はうなずいた。
 言外の意味が汲み取れないほどの馬鹿ではないはずだろうに、その態度はいつも通りであった。
「さっき、私の行動が推測できたと言いましたよね」
「はい」
「どういった判断材料があったのですか?」
 ソウヨウは訊いた。
 自分が相手に油断しなかったように、相手もやはり油断していなかった、ということだろうか。
「南城の白厳の君といえば、計略の奇才。
 敵の裏を掻き、防衛戦も得意。
 忍耐があり、何を言われても柳に風。
 もしくは温厚で、心が広い。
 皇帝陛下の信篤き人物」
 太守はそこで一旦言葉を区切った。
 しばしの沈黙が流れる。
「ですが、皆さんは忘れてらっしゃる。
 その大司馬は未だ十八の少年で、シキボで『絲』を名乗ることを許されている唯一人の人物だということを」
 太守はソウヨウを見た。
「白黒をはっきりつけたがる。
 我慢がきかない。
 そう言われたことがありませんか?」
「ええ、ありますね。
 大伯(一番上の伯父)に、よく言われました」
 その指摘を受けたのは、初めてではない。
 だが、不快だった。
 ソウヨウは顔をしかめた。
「私は貴方の味方でも、敵でもありませんよ」
「それが一番困るんですよ」
「でしょうね。
 だと思いましたよ」
 太守は自嘲気味に笑う。
「そして、十六夜公主に危害を加える人物になるかもしれません。
 未来は約束できません」
「……」
 何から何まで、相手に読まれているような気がする。
 この場を支配しているのは、間違いなく海月太守である。
 たとえ、ここが大司馬府であっても。
「人は各々の正義を掲げ、それを貫くために生きているんです。
 大司馬にとっては、それは十六夜公主を全力で守ることなのでしょうが」
「ええ、そうですよ。
 私が知りたいのはあなたが何のために動いているのか、その理由ですよ。
 国のためなんて、大義名分は信じません。
 そういった信念をお持ちの方は、あなたとは明らかに違う」
 ソウヨウは話の腰を折る。
 話をすりかえられては困るのだ。
 ソウヨウが知りたいのは目の前の人物が『敵』か『味方』か、それだけなのだ。
 『敵』であるなら、屠るまでのこと。
「私の正義は『海月』ですよ。
 それを守るためにはどんな手段も選びません」
 太守は笑った。
 潔いまでの笑顔だった。
「何のためですか?」
 でも、それは原動力とはなりえない。
 直感的にソウヨウは知っているのだ。
「親の仇である鳥陵の皇帝に仕え、その親戚になろうとしている。
 色墓を滅ぼしたのは、鳥陵です。
 その鳥陵の姫を妻にする。
 他人から見たら、貴方は充分に不思議ですよ」
「私の父を殺したのは、伯父たちですよ。
 鳥陵ではありません。
 私は鳥陵を恨んでいません。
 幼い頃は、恨んでいたかもしれませんが、姫と出会って私は変わりました」
 勘違いされては困る。
 ソウヨウは鳥陵に恨みなどないのだ。
 愛する女性が慈しむ大地を恨む理由など、どこにもない。
 敵討ちなど、時代錯誤もはなはだしい。
 群雄割拠の時代に生れ落ちたのだ。
 そういうことなど、山のようにあることだろう。
「でしたら、私のこともわかっていただけませんか?
 海月は、鳥陵の皇帝が悪政を敷かない限り、裏切りませんよ。
 私たちは、今の暮らしが気に入っているのですから」
 その言葉は事実だろう。
 だが、真理ではない。
「それはあなたの理由でないでしょう?」
「どうあっても、信じていただけませんか……」
「飾りにまみれた言葉はいりません」
 ソウヨウはキッパリと言った。
「では、こうお考えください。
 私は後悔しているんです。
 運命は変えられないことを知っていながら、変えようとした日々を。
 偽りは破綻して、絆は断ち切られ、多くの生命は無駄に奪われました。
 その償いをしたかったんです。
 偽善です。
 自分自身に言い訳をするために、善人であろうとしているのです。
 もう二度とあのような後悔はしたくないのです」
「まだ、足りてませんよ」
 理由に足りない。
 何か、もう一つ足りていないのだ。
 それがわかれば、彼は『敵』となりえない。
 だから、知りたい。
 姫を守るために。
「人には人の考え方があるんですよ。
 納得していただけないなら、どうぞ。
 ただ、こんなところでむざむざと命を落とすつもりはありませんよ」
 太守は懐から扇を取り出した。
 美しい鉄扇がパタパタと開かれる。
 欠けた月の光を受け、鉄扇の銀の骨は凄みのある美しさで輝く。
 口が堅い。
 ソウヨウはためいきをついた。
 予想以上に強情者だ。
 人の心の機微に疎いソウヨウには、そろそろ限界だ。
 手練手管が得意な人間に後は任せよう。
「やめておきます。
 姫に嫌われそうですから」
 ソウヨウはおっとりと微笑んだ。
 収穫がなかったわけではない。
「今は敵でないことがわかりました。
 敵になったときに、お会いしましょう」
「それまでご健勝に」
 太守は口元だけに笑みをはいた。
「やっぱり、本音は言いませんか」
 ソウヨウは独り、ごちる。
「まあ、当然ですね。
 仕方がありません」
 ソウヨウはいつものようにおっとりと微笑んだ。
 その瞳の色は曖昧な茶とも緑ともつかぬものとなっていた。
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