第百八章

 ソウヨウは自室に戻るや否や、怒鳴られた。
 相手はシュウエイだ。
「何て、馬鹿なことをしてくれたんだ!
 貴方は立場をわかっていませんね!」
 相変わらず、耳が早い。
 よほど優秀な間者を雇っているのだろう。
 伊達にシャンの姓を名乗るわけではない、というところだろうか。
「私は、夏官長です」
 ソウヨウは胸を張って答えた。
「ええ、そうでしょうとも。
 誰もそんなことを訊いていません。
 貴方は今、微妙な立場にいるんですよ。
 その地位から引きずり落とそうとしている人間がどれぐらいいるか知っていますか?」
「あなたもその一人ですか?」
 聞きたくもない正論だったので、ソウヨウは思わず茶化してしまう。
 自分がいかに不安定な立場にいるかは知っている。
 公主の婿としては、ふさわしくないことぐらいわかっている。
 勅命だからこそ、二人の縁談は通ったようなものだ。
「馬鹿なこと言わないでください!
 二十代の将軍だって、破格の出世なんですから。
 これ以上の地位は望みません」
 心底、迷惑そうにシュウエイは言った。
 律儀な青年である。
「おや、ずいぶんと謙虚ですね」
 おもしろくない、とソウヨウはつぶやく。
 そこへ、モウキンが走ってきた。
「大司馬、ご無事ですか?
 お怪我はありませんか?」
 モウキンは自分よりも背が高くなった上官を見上げた。
「いえ。
 剣は交えませんでしたから」
 ソウヨウはにっこりと微笑んだ。
「それは良かった」
 壮年の副官は安堵のためいきをついた。
「モウキン殿はやっぱり優しいんですね。
 シュウエイなんて、心配してくれませんでしたよ」
 ソウヨウは告げ口をする。
「当たり前でしょう!
 どう考えたって、貴方が悪い!」
「それで、大司馬。
 謎は解けたんですか?」
 モウキンは話の筋を戻そうと、尋ねた。
 どうやら、海月太守の寝所に忍び込んだ件は、ずいぶんと速やかに伝達されたようだ。
 整理された情報網は褒めるべき場所なのだろうが、見張られているようで嫌だった。
 が、そんなことはおくびも出さないように努めた。
 シュウエイにまた怒られるのは、あまり嬉しくない。
「いいえ。
 全然。
 太守は『海月』のためだと言いました。
 でも、それだけにはどうしても私には思えないんです」
 ソウヨウはかいつまんで話した。
 シュウエイはげんなりとした。
「大司馬はそれでわからなかったんですか?」
 モウキンは優しく訊いた。
「ええ」
「推測でしか過ぎませんが、沖達殿が大事になされているのは海姫様なのでは?
 海姫様が『海月』、そのものなんでしょう。
 大司馬にとって、公主が至上の存在のように」
 ソウヨウの答えに呆れることなく、忠実なる副官は幼子に言い含めるような口調で言う。
「愛してるんですか?」
 ソウヨウは怪訝な顔をした。
 とてもそのようには見えなかったし、思えなかった。
 海月太守は必要とあれば、どんな演技でもやってのける人物だ。
「男女の情愛と言うよりは、親子のような絆でしょう。
 どんな苦しみも悲しみも遠ざけてやりたい。
 どんな願いも叶えてやりたい。
 愛娘のような存在なのでは?」
「そういうものですか?」
 モウキンに言われると、そういうものなのかという気がしてくるから、不思議だ。
「大司馬も公主の願いは無下にはできないでしょうが。
 沖達殿も海姫様の願いを無視できないのでしょう」
 モウキンは穏やかに言った。
 その感覚は、理解できる。
「……。
 海姫の願いは『海月』の民の安寧ですか……」
 ソウヨウはつぶやいた。
 それなら、納得できる。
 どうしてあの海月太守が動いたのか。
「あの方はとても素直な方ですね。
 汚れなく、この世界が美しいものだと信じている」
「ええ、そうですね。
 それなら、理由に足りますね」
 謎はゆっくりと解け始めた。



 明けて翌日。
 回廊の途中で、ソウヨウは海姫を呼び止めた。
 昨夜のことはまるで夢だったかのように、少女は笑顔で応じた。
「一つだけ訊いてもいいですか?」
 ソウヨウは言った。
「一つで良いの?」
「沖達殿と同じことをおっしゃるんですね」
「ボクもね、言うんだ。
 一つ、訊いても良いって言うんだ。
 でもね。
 絶対、一つですまないんだよ。
 だから、沖達にいつも言われちゃうの。
 一つで良いんですか? って」
 海姫はニコニコと笑った。
「そうなんですか」
「で、白厳。
 何が訊きたいの?」
「政(まつりごと)にとって何が必要ですか?」
「そんなことを、女のボクに訊くの?」
 大きな瞳をさらに大きくする。
「ええ」
「仁を欠くことなく。
 クニのために民がいるわけではなく、民のためにクニがあるのだから。
 民のために、常に考え、己の足りなさを省みるように」
 海姫はスラスラと答えた。
 賢君と呼ばれる為政者のように、当たり前なことだというふうに。
「礼然の一説ですね」
「沖達の口癖だよ。
 だから、ボク丸暗記しちゃったんだ」
 成人前の少女らしく、愛らしい笑顔を浮かべる。
「では仁とは?」
「人を思いやること」
 お手本どおりの答え。
 それを微塵も疑っていない力強い答えは、迷い多き者にとっては救いになるだろう。
「そうですか。
 あなたはとても人に優しいんですね」
「当たり前だよ。
 人に優しくするのは簡単じゃないか。
 人に辛く当たることのほうが大変だよ。
 厳しく処断することなんて、ボクには絶対ムリ」
 大真面目に少女は言う。
 世界は美しい、それを疑っていない者、それを信じている者らしい答えだった。
 こんな時代に生を受け、生き抜いた者だというのに、その心はどこもねじくれてはいないのだ。
「……。
 何故、あなたは女性なんでしょうね。
 もし、男に生まれていれば、一角の人物になれたでしょうに」
 少女の言う政を敷くことができれば、世は善で満たされ、全になるだろう。
 為政者になるために、生を受けたとしか思えない魂の輝きがあった。
「それは、間違いだよ。
 ボクの言葉は沖達の受け売りだもん。
 すごいのはボクじゃなくて、沖達だよ」
 海姫は笑った。
 その謙虚さが清々しかった。
 清らかな人間の傍にいる人間は、清らかでなければならない。
 その魂を汚さないために、努力し続けなければならない。
 ようやく、謎は解けた。
「そうですか。
 引き止めてすみません。
 永年の悩みが解決しました」
 ソウヨウは微笑んだ。
「?」
 海姫はきょとんとする。
 ソウヨウは拱手すると、立ち去った。



「ねえ、シャオ」
 書房に戻る途中、声をかけられた。
 ソウヨウは振り返った。
「さっき、華月と何の話をしていたの?」
 十六夜公主は今日も麗しく。
 この時期の太陽にも勝る笑顔だ。
 ソウヨウは自分の婚約者に見蕩れた。
「政の基本です」
 ソウヨウは正直に答えた。
「あら、そう」
 ホウチョウはあっさり納得した。
 悋気と呼ぶにはあまりに可愛らしいものである。
 ふと、興味を覚えて、ソウヨウはホウチョウに質問した。
「姫は政にとって何が必要だと思いますか?」
「政の基本は、金勘定よ」
 ホウチョウは断言した。
「どんなことをするのにも、お金がかかるわ。
 それが大きな事業であれば、あるほど。
 でも、富というのは有限でしょう?
 だから、上手くやりくりしないと、切羽詰っちゃうわ。
 そして、肝心なことができなくなっちゃうのよ。
 政に必要なのは、金銭感覚ね」
 実に現実的な話を愛らしい声が告げる。
 政の理想論を聞いた後だけに、その落差は激しい。
 しかし、それがとても彼女らしくて、ソウヨウは思わず微笑んでしまうのだ。
「そうですね」
 ソウヨウは同意した。
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