第十一章

 チョウリョウの唯一の姫、ホウチョウは自由な振る舞いが許されていた。
 彼女が許されていなかったのは武芸ぐらいなものだが、それとて次兄のホウスウの計らいで剣舞を習うことが許された。
 父も、歳の離れた兄たちも、明るく無邪気な姫を甘やかすばかり。
 けれども、彼女には未だ許されていないことがあった。
 それはホウチョウ自身も知らないことだった。



 堅苦しい儀礼の講義が終わると同時に、ホウチョウは部屋を飛び出した。姫としての自覚を儀礼の師は、少女の背に説教したが、効果はほとんどなかったことだろう。
 ホウチョウは次兄の部屋へと急ぐ。
 ほとんど、日課と言っても良い行動であった。
 次兄の部屋の外には、行列ができていた。
 書類を抱えた高官たちの脇をすり抜けて、胡蝶の君は兄の部屋に滑り込む。
 お目当ての人物を見つけ、少女は顔をほころばせた。
「おはよう、雛兄、シャオ」
「おはようございます」
 ホウスウの机の脇で竹簡の整理をしていた小柄な少年が、控えめに微笑んだ。
 シ・ソウヨウという名を持つ少年は空気のように曖昧な存在となりつつあった。
「もう少し、大人しく入ってこれないものか……。
 走るな、とは言わない。
 ドタバタと音を立てるな」
 ホウスウは顔を上げ、妹姫を見た。
「せめて胡蝶の名に相応しく、軽やかに」
 どこか冷え冷えとした青みの強い茶色の瞳に見据えられて、ホウチョウは唇を尖らせる。
 歳の近い兄が苦手だった。
 学者肌で、虫も殺せぬような穏やかな微笑を浮かべる兄であるが、何かするのではないかという得体の知れない深さがあるのだ。
 何のことはない、ホウチョウは腹芸や計略が不得手なのだ。
 それらに親しむ兄が、どうしても理解しがたい。
 それだけのことだった。
「兄様ったら、ほんとに書類が好きなのね。
 最近、ずっとこもりっきり」
 ホウチョウは呆れたように言った。
 兄の机には多くの竹簡があった。
 外の様子から行くと、これらはまだまだ追加されるのだ。
「父上が不在であられるからな」
 手を休めることなくホウスウは言った。
 書類が次々に決裁されていく。
「父様がいても変わらないような気がするんだけど。
 いっそのこと、父様の部屋で仕事したら?」
 ホウチョウは言った。
「施政宮で執務を執るのは、チョウリョウの長だけだ。
 私は代理人だ。
 父上と兄上が遠征に行かれたので、私がしているだけだ」
 野心がないことをホウスウはキッパリと告げる。
「でも、この書類、今すぐに決裁しなくてもいいような気がするけど。
 父様が帰ってこられてからでも、十分間に合うような……」
 ホウチョウは積んであった竹簡を一つ取り、開く。
 政はよくわからないが、厩の屋根の修繕は今日決めなくても困る人は少ないような気がする。
 実のところ、ホウチョウの言っていることはもっともなことだった。
 シユウは息子たちの長所を生かす道を選んだのだ。
 長子には戦場、次子には内政。
 ホウスウがギョクカンの地でオウ・ユを得、鳳の君と呼ばれるようになってからのことだ。
「政に口を出すために、ここへ来たのか?」
 ホウスウは訊いた。
「いいえ。シャオに逢うためよ。
 シャオはわたしのお土産だったのに、いつの間にか兄様のものになっているんだもん」
 ホウチョウはすねる。
「私のものにした覚えはないが……。
 ソウヨウ、お前は誰のものなんだ?」
 ホウスウは傍らにいた少年に声をかける。
「私は姫のものです」
 ソウヨウは照れもせず、即答した。
「でも、わたしと一緒にいることよりも、雛兄と一緒にいることの方が多いわ」
 ホウチョウは不満そうに言う。
 やがて鳳となると称される青年は、呆れたように二人の子どもを見やる。
 純粋で愚かしい。
 青年は苦笑した。
「私はソウヨウに教育を与えているだけだよ。
 大人になったときに役に立つようにと」
「兄様の役に立つようにでしょっ!」
 ホウチョウは辛辣に言う。
 大好きで、大切なお友だちが独り占めされているようで悔しいのだ。
「全く、誰に似たのやら……。
 ソウヨウ」
 ホウスウは、兄妹ゲンカに気にも止めずに働いていた少年に声をかける。
「はい」
 ソウヨウは手を休める。
「十六夜の護衛を頼む」
「かしこまりました」
 少年は深々と頭を上げる。
「連れて行っていいの?」
 少女の顔がパッと輝く。
「ああ、かまわない」
「ありがとう、雛兄。
 シャオ、行こう!」
 ホウチョウは少年の手を引く。
「うん」
 ソウヨウはうなずいた。


 二人の子どもは、奥庭へとやってきた。
 奥庭は、ホウチョウのお気に入りだ。
 シユウが妻子の庭と決めてしまったので、滅多に人がやってこない。
 父と長兄が不在で、次兄が仕事中ともなれば、ホウチョウだけのものと言っても過言ではなかった。
「ねー、シャオ知ってる?
 はなそうびの花が咲いたのよ」
 得意げに少女は言った。
「もう、秋ですね」
 少年は穏やかに微笑んだ。
 ホウチョウが指し示すあたりには、秋咲きの薔薇が咲き染めていた。
 赤みの強い橙色の花は、落ちていく夕日のようだった。
「綺麗ですね」
 鮮やかすぎる花の色に圧倒されながら、ソウヨウは言った。
「でしょ?
 この色のはなそうびは、チョウリョウでもここだけしかないのよ!」
 ホウチョウの白い指先が、花弁をそっとなぞる。
「どうしてだか、わかる?」
「いいえ」
 ソウヨウは困ったように笑う。
「父様が母様を攫ってきた時、一緒にこの花も持ってきたんですって」
「さらう?」
「そうよ。
 父様は母様を一目で好きになってしまったんですって。
 でも、母様には親が決めた婚約者がいたの。
 父様はどうしても我慢ができなくなって、ある日、母様を盗んできてしまったの。
 もちろん、母様の実家は大騒ぎ。
 あわや、戦ってところまで来ちゃったんですって」
 ホウチョウはニコニコと笑う。
 少女にとって両親の馴れ初めは、面白おかしい恋の話にしかすぎない。
「すごいですね」
 ソウヨウはポツリと言った。
「その当時、母様ってば絶世の美女とまで言われていたらしいし、全然不思議じゃないんだろうけど。
 そんなに思われる、てスゴイよね!」
 ホウチョウは言った。
「わたしにもそんな人が現れるのかなぁ?
 メイワはそんな夢物語のようなことはないって言うのよ。
 でも、どうせ嫁ぐなら、少しでも想ってくれる人がいいじゃない?
 父様みたいに、とまでは言わないけど。
 恋に落ちるのは、運命なんだから」
 赤茶の瞳は橙色の薔薇を見つめる。
 遠い地から運ばれてきた花は、この地に根付いて見事に咲いている。
「きっと……」
 ソウヨウは呟いた。
 少女は少年を見る。
 少しばかり風変わりな色の瞳が、ホウチョウを見ていた。
 ホウチョウは、控えめな呟きの続きを待つ。
 二人の間を橙色の風が駆け抜ける。
 咲き初めの花を散らす、乱暴な風に少女は思わず目をつぶる。
 数瞬して、風は止む。
 そっと瞳を開くと、飛び込んでくるのは橙色の花弁。
 ゆっくりと、二人の間を埋めるように降って来る。
「うわぁ」
 感嘆の声を上げた。
 花びらが舞い幻想的な風景。
 まるで夢のように美しい。
 大きな瞳をさらに大きくして、少女は喜ぶ。
「姫」
「?」
「花びらが……」
 不意にソウヨウは手を伸ばす。
 ぎこちなく赤茶色の髪にふれる。
 ホウチョウは何だかくすぐったくて、クスクスと笑ってしまう。
「取れました」
 ソウヨウが花びらを示す。
「ありがとう、シャオ」
 ホウチョウは微笑んだ。
「どういたしまして」
 少年ははにかんだ。
 それがあまりに彼らしかったので、ホウチョウは笑ってしまう。
「そこにいるのは、誰?」
 透き通った声。
 二人の子どもは振り返った。
 そこに立っていたのは、美しい女性。
 ごく淡い茶色の髪を結いもせず垂らしたままで、衣装も寝着の上に単を肩に引っ掛けただけという、だらしなく見えてもおかしくはないはずの格好だが、不思議とそれが自然に見えてしまう。
 人間と言うよりも、仙人か天女のような雰囲気をまとっていた。
 昏く滄い双眸が、二人の子どもを交互に見やる。
「花盗人?」
 女性はソウヨウに尋ねる。
「え……?」
 ソウヨウは途惑う。
 女性はそれにかまわず、少年に近づく。
「花を摘みに来たのね」
 爪紅が施された指先が少年の頬をなでる。
「でも、それは……いけないことよ。
 早く帰りなさい。
 見逃してあげるから」
「母様、シャオは盗人じゃないわよ!
 わたしの大切なお友達なんだから」
 二人の間にホウチョウは割って入る。
「……私の可愛い花薔薇」
 美女は、ホウチョウを見て微笑んだ。
「いつの間に、こんなに大きくなったの?」
 歌うように呟いた。
 それから、優しく娘の頭を撫でた。
「あまりあなたは似てないわね。
 どちらかといえば、私に似ているけれど……。
 まるで、この花が生んだみたい。
 あなたは本当に花薔薇ね」
 シユウの妻、ランは満足そうに言った。
「母様こそ、はなそうびのようよ」
「そう?
 そうかしら?」
 ランは小首をかしげる。
 しばらくして、そうかもしれないとうなずいて
「呼んでいるから、もう帰るわね」
 と、呟いて立ち去った。
「うん、また後でね」
 ホウチョウは手を振った。
「今のが、母様。
 美人でしょっ?」
 少女は少年に向き直る。
「姫の方が綺麗です」
 ソウヨウはサラッと言った。
 ホウチョウはびっくりした。
 あんなに美しい母を見た後だというのに、自分の方が綺麗だという少年の考えに驚く。
 でも、誇らしいような、くすぐったいような喜びが胸の内から湧き上がってくる。
「ありがとう、シャオ!」
 ホウチョウは満面の笑みを浮かべた。
 ソウヨウは目を細めて、微笑んだ。



 チョウリョウの姫には未だ一つ許されざることがある。
 それは彼女自身も知らないこと。
 決して許されることではない、ということを知らない。
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