第十二章

 薄く広がった妙に白い雲が空を覆っている。
 空を見上げてから、ここしばらく晴天を見ていないことに、彼は気がついた。
 陽がないために、ことさら寒々しく感じる。
 窓の外は、白と黒と灰色でまとめられ、寂しいばかりだ。
 この様子ではさぞや奥庭の景色も様変わりしてしまったことだろう。
 歳のわりに小柄な少年は先を急ぐ。
 ほんの一月、彼はシキョ城から離れていた。
 故郷シキボで、正式に長になるための儀式を行うためだ。
 九歳のときに父が死に、事実上での長ではあったが、それではこれから先、何かと不都合が起きるやも知れぬということでだ。
 彼は成人し、絲の長となって、再びシキョ城に戻ってきたのだ。
 大人たちの駆け引きの結果であろう。
 絲は人質としてソウヨウを差し出していた。
 長となった今、シキョ城に戻るということは、絲一族の絶対の服従の証。
 誇り高き一族も、とうとう膝を屈したのだ。
 そんなことはソウヨウにとっては、どうでもいいことだった。
 ほんの少しばかりできることが増えた。
 それだけだ。
 喜びよりも、屈辱だという怒りよりも、勝ったのはごくごく単純な想い。
 久しぶりに会った伯父や従兄たちよりも、懐かしく想ったのは別の人。
 奥庭は彼の予想を裏切った。
 景色はちっとも寂しくはなかったのだ。
 冬枯れした木々たちの中、鮮やかな花薔薇が立っていた。
 極上の衣には賑々しく玉が縫い取られ、キラキラしかった。
 それにも増して輝かしいのは、十六の月。
「お帰りなさい、シャオ」
 胡蝶の君は笑った。
「ただいま戻りました」
 ソウヨウは言った。
 そう帰る場所は故郷ではない。
 ここ、なのだ。
「ねえ、雪が降りそうだと思わない?」
 ホウチョウは言った。
 ソウヨウは空を見上げる。
「そうですね」
 うなずいた。
「今年は少し早いみたい。
 いつもは、年が改まってからだし……。
 たくさん、降るかしら?」
「さあ、どうでしょうか。
 冬初めての雪は積もらないことが多いですから。
 どうなるか」
「シャオでも、よくわからないの?」
「申し訳ございません」
 ソウヨウはペコッと頭を下げた。
「雛兄も、わからないって言ってたし」
 ホウチョウは呟く。
「鳳様も?」
「うん」
「そうですか。
 では、本当に天のみぞ知るですね」
 ソウヨウは言った。
 シユウの次子ホウスウは内向きの仕事に向いている。
 芸術を愛し、天文にも通じる。
 あまりの才に、ギョクカンのオウ・ユなど主である王を見限って、チョウリョウに来てしまったぐらいだ。
「シャオはどっちだと思う?」
 少女は少年の顔を覗き込む。
 ソウヨウはドキッとする。
 一つ年上の少女は、本当にまだ幼くて、無防備で困ってしまう。
「雪が降ればいいなと思います」
 ソウヨウは答えた。
「あら、どうして?」
「雪が降ったら、姫は嬉しいでしょう?」
「もちろんよ。
 雪ってめったに降らないもの」
「だから、雪が降ったらいいなと思っています」
「わたしが嬉しいから?」
 不思議そうにホウチョウは訊き返す。
「はい。
 姫の喜びは私の喜び。
 あなたが嬉しいと、私まで嬉しくなるんです」
「それって、シャオ自身は一人じゃ嬉しくも何ともないってこと?」
 ホウチョウは考え込む。
「そんなことはありませんよ」
 否定の言葉を口にする。
 瑪瑙にも似た艶のある赤茶色の瞳がじっと彼を見た。
「シャオ。
 あなたは一人でも嬉しいとか、楽しいとか思うことがあるの?」
 問われて、困惑した。
 シ・ソウヨウの人生において、楽しいことや嬉しいことは、この少女の思い出の中にしか存在せず、これから先もそうであろうということが容易に想像できた。
 一人でいるときに感じる事柄といったら、苦痛ばかりである。
 真っ直ぐに見つめる視線は、全てを見透かすような気がして、彼は目を逸らした。
「ありますよ」
 ソウヨウは言った。
「……。
 そう、ならいいんだけど。
 雪、降るといいね」
 明るい少女の声に、いくばくか慰められる。
「はい」
 そうなるといいな、とほのかに思いながらうなずく。
「雪が積もったら、大っきな雪だるま、作るのよ。
 南天の実のお目めのウサギさんも。
 あと、雪投げして遊ぶんだから!」
 ニコニコとホウチョウは断言した。
「はい」
「だからね、シャオ。
 わたしの傍に、ずっといなきゃいけないのよ」
「?」
「いつ、雪が降るかわからないでしょっ?
 雪が降ったら、すぐ遊ぶんだから、それまで一緒なのよ。
 それに、降ったら一緒に遊ぶでしょっ?
 だから、その後もずっと一緒よ」
 とんでもない論理で、とんでもないことを言ってのける。
 彼女が物知らずだから、わがままに育てられたから、そんなことをひっくるめても、彼女の温かさが心地よかった。
「はい」
 ソウヨウはうなずく。
 そうなれば、どんなにいいか、と思いながら。


 その日は、いっそう冷え込む日だった。
 空に広がる雲は、ますます明るく白く。
 息が凍る、そんな日だった。
 それがもたらされたのは……そんな日だった。
 あと数日で新年も迎えるという祝いの雰囲気の中、フェイ・コウレツは長き戦いの末、帰途に着いた。
 戦は勝った。
 チョウリョウは新たな領土を得て、優秀な武将を獲得した。
 ただし、飛一族はシユウという長を失ったのだ。
 戦の勝利は確定したときのこと、飛来した矢に射抜かれ、シユウは命を落とした。
 凱旋は後味の悪いものとなった。


 ソウヨウはホウスウに付き従って回廊を渡っていた。
 こんなときぐらい、十六夜姫の傍にいてあげたいと思うのだが、命令では逆らうわけにはいかない。
 書簡を彼女は読んでくれただろうか。
 少しは慰めになっただろうか。
 情の深い彼女のこと、今頃涙の海ができているのかもしれない。
 ソウヨウの胸の内はホウチョウへの心配で、いっぱいになっていた。
 ホウスウが唐突に足を止めた。
 少年も立ち止まり、青年の様子を伺う。
 この地方にしては独特な色をした瞳は、重く大きな扉に注がれている。
「これから先、何があっても黙っている自信はあるか?」
 ホウスウは扉を見つめたまま、静かに訊いた。
「命令とあれば」
 ソウヨウはスパッと答えた。
「愚問であったな。
 ついてこい」
 ホウスウは少年を見て苦笑した。
 扉の先は豪奢な牢獄であった。
 窓と言う窓には、鉄製の蔦が這っている。
 調度類がみな贅沢な造りになっている分、それは異質であった。
 室内には一人の男がいた。
 フェイ・コウレツ。
 シユウの長子であり、武烈の君と謳われる当代きっての将。
 父亡き後、このチョウリョウをまとめていかなければならない人物だ。
 その人は、足かせをはめられ、椅子に座っていた。
 その足枷には、逃走を防止するためだろうか、かなりの大きさの鉄球がついてる。
 コウレツは父によく似た瞳で、弟をにらみつける。
 弟の方は大して気を止めてはいないが。
「ソウヨウ。
 お茶の淹れ方は知っているな。
 三人分、お茶を淹れてくるんだ。
 あちらの扉の向こうに、道具がそろっているはずだ」
 ホウスウは椅子に腰掛けると言った。
 ソウヨウは一礼すると、言われたとおり扉の向こうに向かう。
 お茶を淹れる程度のことしかできない簡単な造りの厨房には、物々しく武装した女性が控えていた。
 女性はソウヨウを一瞥すると、また扉のほうを凝視する。
 ソウヨウはゆるりと考えを巡らせる。
 逃亡、の危険。と言うことだろうか。
 何となく、ホウスウが強引な手段に出ざるを得なかった事情が飲み込める。
 久遠を待つ鳳の雛は、権力やしがらみを潔癖なほどに嫌う。
 それが、最大限の権力を行使する。
 兄に烈火のごとく燃え尽きては困る、ということだ。
 あの方は、人の子として父の死を悲しむことができたのだろうか。
「……」
 ソウヨウは、ほっこりと湯気が立つ湯飲みをお盆に載せ、部屋に戻る。
 コウレツの前に一つ、ホウスウの前に一つ、お茶を置く。
 残った一つに困っていると、空いている椅子に座るようにと、ホウスウに言われた。
 どうやら、自分の分であったらしい。
 ソウヨウは腰をかけた。
「さて、兄上。
 頭は冷えましたか?」
 ホウスウは静かに訊いた。
 まるで今日の天気の話しでもするかのように、気軽にいつも通り。
「どういうつもりだ? 鵬雛」
 うなるようにコウレツは言った。
 弟の名を呼んだあたりで、怒っていることがヒシヒシと伝わってくる。
「ああ、それのことですか?
 外してはあげませんよ。
 そんなことをしたら、兄上は飛び出していかれるでしょう?」
 ホウスウは穏やかに微笑む。
「このクニが欲しいのか?
 だったら、くれてやる!」
 コウレツは怒鳴った。
 獅子の咆哮。
 ソウヨウはビクッと身をすくめる。
「いいえ」
 穏やかにホウスウは言った。
 お茶を一口飲んで、
「このお茶美味しいですよ。
 兄上、お飲みにならないのですか?」
 と、続ける。
 いたって、のんびりとしたものだ。
「一体、何を考えているんだ!」
「兄上にはいささか窮屈な思いをしていただいているかもしれませんが、私の思いついた最良の策なのです」
 申し訳なさそうにホウスウは言った。
 ソウヨウは、ぼんやりと「策士だ」と青年を見た。
 青年は最良の策とは言ったが、最善の策だとは言わなかった。
「これが最良の策?
 誰が見たって監禁しているようにしか見えないぞ!」
「それはそうでしょう。
 監禁しているのですから」
 ホウスウは穏やかに言う。
「お前と話していると疲れる!
 目的は何だ!」
 コウレツは卓を叩いた。
 ガシャンと茶器が音を立てる。
 湯飲みからほんの少し零れたお茶。
 それが卓にシミのように、広がり、にじんでいく。
 ソウヨウは一連の事柄を眺めていた。
 武烈の君の苛立ちがヒシヒシと伝わってくる。
「今しばらく兄上を留めておきたいだけです」
「それでお前には何の得がある?」
 わからないモノを見るように、兄は弟を見た。
「父を亡くして、すぐ兄を亡くす。
 優秀な指導者を続けて失えるほど、この地は安定していません。
 兄上は父上の弔い合戦をなさるおつもりでしょう?
 ですが、それほどの兵力を今のチョウリョウは、持ち合わせてはいないのです。
 無理に戦を仕掛けるのは、愚にもつきません。
 兄上にはご自重いただきたい」
 淡々とホウスウは語る。
「お前には血も涙もないのか?
 父が殺されたのだぞ?
 仇を討つのが子としての義務だ!」
「兄上の気持ちはわかりますが」
「親父が死んだっていうのに、どうして冷静なんだ!」
 コウレツな言葉にホウスウは複雑な微笑を浮かべた。
 誰か一人、冷静な人間がいなければならない。
 動乱の時代、舵の取り方を誤れば、船はあっという間に沈む。
 鳳の名を持つ青年は、それを良く知っていた。
「いいですか、兄上。
 仇を討つのは子としての義務です。
 ですが父上の残した財を次の世代に残すのも、子としての役目です。
 一回の愚かしい戦いで先祖伝来の地を焼け野原になさるおつもりですか?
 今は英気を養うときです。
 仇を討つのは年が改まり、水が温んできてからです」
 ホウスウは言った。
 声の調子は、詩でも吟ずるかのように滑らかで、感情に流されることなく、流暢なものだった。
 コウレツはがっくりと肩を落とした。
「負けるのか?」
 弱気な確認の問い。
「今、戦を仕掛ければ九割ほどの確率で」
「そうか……」
 コウレツはお茶を飲んだ。
「冷静だな、鳳は」
 呟くような声でコウレツは言った。
「この方が何かと便利でしょう?」
 ホウスウは得意げに微笑んだ。
「そうかも知れないな……。
 まあいい、父の葬儀までここにいるとするか。
 頭で理解しても、納得はできていないからな」
 コウレツは苦笑いをした。
「そうですか。
 わかりました。
 兄上は神託で精進潔斎なさっていることにしておきます。
 仕事は、こちらにお持ちいたします」
「いや、任せる。
 政はあまり好きではない」
「私が野心を持ってしまったら、いかがなさるおつもりですか?」
「お前だったら上手にやるだろう?
 そして、この地はますます豊かになる。
 いいことだ」
 明るくコウレツは言い切った。
「この地の長は兄上だけですよ。
 重要なものだけ、お持ちします。
 それでは失礼いたします」
 ホウスウは立ち上がる。
 ソウヨウもそれに習う。
「そう言えば、どうしてそれを連れてきたんだ?」
 コウレツはこの部屋に入って、初めてソウヨウを見た。
「本気で逃げようとする兄上を止める自信はありませんでしたので。
 念のため、ですよ。
 できるだけ手は打っておかないと」
「だったら、もっと屈強な男でも良かったんじゃないのか?」
「彼には知る権利がありました。
 私たちの選ぶ道の」
 ホウスウは笑った。
「そう言えば、そうだったな」
 コウレツも笑った。
 ホウスウとソウヨウは退出した。
 ソウヨウは回廊で青年を見上げた。
 怜悧な横顔は、重苦しい影がつきまとっている。
 ……悲しい、のだろうか。
 ホウスウはソウヨウの視線に気がついて、軽く微笑んだ。
「仇が討てなくて残念だったな」
 鳳の君は言った。
「フェイ・シユウは運悪く流れ矢で死んでしまったよ」
 何でもないことのように、言った。
「仇を討とうと思ったことはありません」
 ソウヨウははっきりと本心を言った。
 そう遠からずに、勇猛果敢な男は死んだであろう。
 少年が手を下さずとも。
 自滅か、裏切りか、私怨で。
 男は激しすぎたのだ。
「父の死は歴史の流れ。
 そういう運命だったのです」
 世界の変化についていけなかったモノは、淘汰されていく。
 ソウヨウはたいした感情もなく、答えた。
「周囲が思っているよりも、ずっと冷静で大人だな。
 良かったら、十六夜を見舞ってくれ。
 塞ぎこんでいるらしい」
「かしこまりました」
 ソウヨウは一礼した。


 昔言った、幼い自分の一言はまだ生き続けているらしい。
 分別もなく、愚かだった強がり。
 殺されるのであらば、一矢報いたいと言った言葉だった。
 命乞いするほどの可愛らしさは、九歳の時にはすでに失われていたのだ。
 今は、どうなのだろうか?
 もし、今の自分があそこにいたら、生きたいと思うのだろうか。
 ソウヨウはふと考え、あまりの馬鹿馬鹿しさに苦笑した。
 過去を変えることは誰にもできない。
 起こってしまったことは、もう元には戻せないのだ。


 ソウヨウは胡蝶の君の寝室に通された。
 ごゆっくり、と侍女は扉を閉めて出て行ってしまった。
 邪なことなどありもしないのに、少年の心拍数は上がる。
 絶大な信頼は嬉しくもあるが、同時に重荷でもある。
 紗の幕が下ろされた寝台に、やや距離を置いて、少年は声をかける。
「姫、ご加減はどうですか?」
 紗が揺れた。
 泣き濡れたメノウの瞳が、ソウヨウを捕らえて放さなかった。
 普段の元気はどこへ消えてしまったのだろうか。
 雨に打たれて、しおれてしまう花のように。
 今にも消えてしまうのではないか、あまりにも儚い姿。
 一瞬が永遠にも感じられた。
 ソウヨウの中に用意されていた言葉は、仕舞いこまれてしまった。
「シャオ……」
 小さな声。
 少女はおずおずと右手を伸ばす。
 ソウヨウは歩を進め、その手を取った。
 小さく白い手はかすかに震えながら、少年の手をぎゅっと掴んだ。
 まるで、生きていることを確かめるように。
 大きな瞳から雫が零れた。
「どうして戦うの?」
 薄紅色の唇から、紡がれた。
 そのささやきは甘く、咎めるようだった。
「大切なものを守るためです」
 ソウヨウは穏やかに言う。
「……雛兄と同じことを言うのね。
 でも、大切なものを守るために、己の命を失っては意味がないんじゃない?」
 ホウチョウはソウヨウの心の中を探るように、その瞳を向ける。
「意味はあります」
 緑がかった茶色の瞳を伏せる。
「どんな?」
「命を失ってもいいと思えるほどのものに出会い、その思いに殉じることができた。
 幸せ、です」
 ソウヨウはホウチョウを見つめた。
「……シャオは、大切なものを守るために……死ぬの?」
「それを守ることができたなら、死んでもかまわない。
 そう思っています」
 少年は言い切った。
「いやよ。
 シャオ、そんな簡単に命を捨てないで。
 ずっと、ここいなきゃ、ダメなんだから」
 ホウチョウは、少年に抱きつき、泣き始めた。
 涙がポタポタとつないだままの手に落ちる。
 温かい。
 ソウヨウはじんわりと胸の内で感じた。
 少女が流す涙も、その言葉も、少女自身も、とても温かいのだ。
 ためらいがちに、少年は少女の背中に腕を回す。
 大切な宝物を守るように、ソウヨウはそっと抱きしめた。
「簡単に……命を捨てないで……」
 ホウチョウは繰り返し言う。
「はい」
 その時が来たら、きっと自分の命なんてどうでもよくなってしまうだろう。
 予感と言うよりも、実感があった。
 どんなことをしても守りたいものが、できたのだ。
 それは、とても幸せなことだと思う。
「約束よ」
「はい」
 ソウヨウは微笑んだ。
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