第十四章

 客人は決まって、月の明るい夜にやってくる。
 あんな人物を客とは呼びたくないのだが、養父の友人であればやはり客としか呼べない。
 リョウジはお盆に茶碗を一つ載せて、廊下を渡る。
 清かな夜風が抜ける。
 サラサラと結われていない金の髪が乱される。
 リョウジはまだ子どもと呼ばれる歳であるので、髪は背にまっすぐに垂らされているままだ。
 簡単に布か何かでまとめようとすると、召し使いたちが泣くのでそれもできない。
 下々のような下賎な髪形はお嬢様には似合わない、と。
 せっかくこんなに美しい髪なのだから、結び跡をつけるのは忍びない、と。
 そう言われると、なかなか思い切ったことはできない。
 リョウジはこの屋敷の『お嬢様』なのだ。
 たとえ、この屋敷の主と一滴も血の繋がりがなくても。
 ほんの数年前まで、人買いの檻で暮らしていたとしても。
 れっきとした、オウの家の小姐(お嬢様)なのだ。
 チョウリョウの長に覚えめでたき楽師のオウ・ユの家のお嬢様が、わざわざお茶を運ぶ相手は全くの得体の知れない人間だ。
 リョウジがこの屋敷に来る前から、通ってきていた養父の友人に対して失礼極まりのない言い方だが。
 はっきり言って、リョウジは悪趣味な人間だと思っていた。
 まず、格好が変だ。粋だと歳若い召し使いたちは言うけれど、あんなのは奇抜なだけでちっとも素敵じゃない。
 仕事もせず、ふらふらとしているのも情けない。
 この家に来ると決まって酒を飲み、詩を作るのも、頭がおかしいんじゃないかと思ってる。
 名前は、ハンチョウと名乗っているが本名かどうかも怪しい。
 リョウジのような子どもに名を呼ばれても気にしないところを見ると、字かもしれないが、だとしてもおかしい。
 『凡鳥(ただの鳥)』なんて、字怪しすぎる。
 第一、全然チョウリョウの民らしくないのだ。
 もっと北方の、ギョウエイやエイハンの辺りの色彩の髪と瞳。
 養父や自分と同じギョクカンの出と言うほうが、まだしっくりくる。
 できればリョウジは係わり合いを持ちたくない。
 しかし、養父の頼みともなれば、子として逆らうのはためらわれる。
 だから、リョウジは素直にお茶を運んでいるのだ。
「?」
 リョウジは冥(くら)い色の瞳をしばたかせた。
 この屋敷で最も上等な客室に、例の客人が不在なのだ。
 部屋の扉は開け放たれており、優美な几帳が目に入る。
 本来は衝立が置かれるのだが、客人の趣味で几帳が置かれている。
 霧のように淡い紗が、夜風で微かに揺れていた。
 客人がこの部屋にいるときは、決まって几帳に、帯と呼ぶのが似合う、幅が狭く細長い布がかかっているのだ。
 色は沈んだ孔雀藍(コンチュエラン)。
 その布が、なかったのだ。
 ともなれば、外出中と言うことだ。
 茶碗だけ室内において、自分の部屋に戻ってしまおうか。
 そんな考えが頭によぎる。
 リョウジは嘆息をついた。
 それでは養父の望みは果たされない。
 養父は、様子を伺ってほしいと言ったのだ。
 リョウジはお盆を持ったまま、再び歩き出した。
 いったい、どこに行ったのか。
 ほどなくして見つけた客人は、中庭に降りることのできる階の近くの床に、寝転がっていた。
 屋根のないそこに、まるで王者の寝台のように、優雅に横たわっていた。
 月明を受けて、男は一幅の掛け軸のような美しさにあった。
「リョウジ?」
 極上の琴が恥じて弦を切ってしまう。
 天上の楽の音とは、このこと。
 人間の声とは思えない、類稀なる麗しい声が童女の名を呼んだ。
 いくら子どもであったとして、女性の名をそう易々と呼んではいけないというのに、男はためらいなく名を呼ぶ。
 男に見とれてしまったことに、ハッと気がついてリョウジは慌てて目を逸らす。
 頬が染まるのがわかった。
「そんなところに寝ていると風邪を引きます」
 リョウジはやっとのことで言った。
「月を見ているんだよ」
 ハンチョウはクスクスと笑う。
 青みの強い瞳に温かな光が宿る。
「リョウジもおいで。
 よく月が見える」
「失礼します!」
 これ以上、ここにいてはいけない。
 心臓が早鐘を打つ。
「そう言わずに」
 逃げるよりも早く男の手が伸びて、リョウジは囚われてしまう。
 体が傾いだことにより、お盆が手から離れていく。
 割れる!
 冥い色の瞳をぎゅっとつぶる。
 数瞬
 いつまで経っても音がしないことに訝しみ、リョウジはそろそろと瞳を開ける。
 茶碗は割れてなかった。
 ハンチョウの左手が盆を持っていた。
 リョウジはほっとした。
 物に執着がない養父であるけれど、物が壊れたときはやはり悲しい顔をする。
 そんな顔は見たくはない。
「綺麗な月だろう?」
 男は得意げに言った。
 リョウジは空を見上げた。
 皓々と、月が中天に坐していた。
 他の星々を圧倒するような美しさで、息を呑んだ。
 奇麗だった。
 美しいを通り越して、身が震えるほど奇妙なほどの輝きで他者を圧倒していた。
 恐いほど、美しい。
 今宵の月は、この男と同じだった。
「リョウジは耳だけではなく、目も良いようだ」
 男のささやきが耳に滑り落ちた。
 リョウジはビクッとして、男を見上げた。
 何故?
 幼い少女の胸は、恐怖であふれかえりそうになっていた。
 養父しか知らないはずの、名を。
 どうして、真字を知っているの?

 王・良耳

 養父の娘になったときに与えられた名前は、誰も知らないはずだった。
 誰にも知られないはずだった。
 危険だ。
 これ以上、傍にいてはいけない。
 この美しい男は、鬼神なのだ。
 人ではないから、こんなにも美しいのだ。
「失礼します!」
 リョウジは男の手を振り払うと、走った。
 早く安全なところに行きたい。
 恐怖に駆られた童女は、男から遠ざかることだけを考えて、廊下を走った。
 はしたないと怒られてもかまわない。
 髪が絡むのも、裳が乱れるのも、気にならなかった。
 とにかく、走った。
 また捕まったら、どうなってしまうかわからない。
「どうしたのです? わが娘よ」
 温かな声と、腕に止められた。
 潤んだ瞳が養父を見上げた。
 リョウジのそれとよく似た色の瞳が、優しげに見つめる。
「お養父様」
 リョウジはそれだけを言った。
 言葉が後を続かない。
 オウ・ユは娘の髪を優しく梳く。
「また、何か意地悪されたようですね」
 困ったものだ。と、オウ・ユはためいきをつく。
 いつもの意地悪とは違う。
 そう言いたかったのだが、まだ胸に残る恐怖がそれを止めた。
「ハンチョウのことは、気にしなくてもいいですからね。
 彼がここで何を言おうと、全部忘れてしまいなさい。
 どうせ、一夜の夢なのですから。
 朝になれば、全部消えてしまう。
 そんな類のものです。
 おやすみなさい」
 オウ・ユは歌うように言った。
 リョウジはうなずくことはできなかった。
 この恐怖は心にきっちり刻み込まれてしまった。
 春の宵夢のように、消えてはくれない。
 もう二度と、月が明るい夜など来なければいいのに。
 リョウジは思った。
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