第二十六章

「鍛えてやる」
 多忙な兄が言い出した。
 弟はげんなりした。
 戦場から戦場に渡る生活をしている男は、己の居城に戻ってきても落ち着きがない。
 何をそんなに急ぐ必要があるのか。
 性急に物事を片付けていく。
「ご遠慮申し上げます」
 ホウスウは言った。
「最近、運動不足なんだ」
 真面目な顔でコウレツは言った。
「それはよろしいじゃありませんか」
 大将が剣を振り回すほどの乱戦になってしまったら、その戦は負けたようなもの。
 陣の真ん中で、ぼんやりしているぐらいでちょうどいい。
 ……ソウヨウの場合は、やる気がなさ過ぎだが。
 ホウスウは南城に置いてきた少年を思い出した。
「なかなか本気を出せるような相手がいなくてな。
 相手になってくれ」
 コウレツは言った。
「嫌です。
 私は兄上ほど剣が達者ではないのですよ。
 相手が欲しいのなら、千里をお貸しいたします」
 ホウスウは提案した。
「千里と言うと、ギョウエイの行千里か」
「はい」
「物足りないな。
 やはり、お前がいい」
 戦神は笑みを刷く。
「千里を物足りないとおっしゃるのは兄上ぐらいですよ」
 ためいき混じりにホウスウは言った。
 ホウスウの配下の中でも、一、二を争う手練れだ。
「外に行くぞ」
「わかりました」
 ホウスウはわざとらしく拱手をした。


 院子。
 施政宮側の院子だけあって、廊下を渡る百官の姿がちらほら見える。
 ここを選んだのは、単にここが一番近かったからだ。
 兄弟は剣の鞘を払う。
 剣の師は同じではあるが、実戦で磨かれるうちにずいぶんと型は変化した。
「本当にやるんですか?」
 この期に及んでホウスウは訊いた。
「くどいぞ」
 コウレツは笑った。
「気が進まないんですよね」
 分が悪い勝負はしない主義だ。
 ソウヨウほどではないが、ホウスウの剣も飾りだ、鈍らだと影でささやかれることは日常だ。
 戦場に出るのに愛剣を置いて行きかけて、副官含め配下の心臓を止めかけたのは数限りなくある。つい最近もやって、くどくどと千里に注意されたばかりだ。
「何、そのうちその気になるさ」
 コウレツは笑う。
 長剣が構える。
 寸分の隙もない構えだ。
「来る気がないなら、こちらから行くぞ」
 言うが早いか、コウレツは長剣を振り下ろす。
 ホウスウはためいきをついて、右に一歩動く。
 長剣はホウスウのすぐ横の空間を切り裂く。
 銀の煌きは向きを変え、ホウスウを狙う。
 後ろに二歩下がる。
 それで、剣先は届かない。
 鋭い音を立て、ホウスウの目の前を長剣は横切った。
 コウレツは地面を蹴り、一気に間合いを詰める。
 同じ瞬間、いや僅かばかりホウスウの方が早く動いた。
 細身の青年は兄の隣をすり抜ける。
 完全に兄の背を取る。
 コウレツは惚れ惚れとするような身体能力で、体の向きを変える。
「そこまでやる気がないなら、いっそ潔いな」
 戦神は愉しそうに哂い、剣を振り下ろした。
 それを易々と弟は避ける。
「お褒めに預かり恐縮です」
 喰えない弟は息も乱さずに言った。
「さて、どうしたものかな?」
 コウレツは剣を構え直す。
 二人の距離は、始める前と変わっていない。
 コウレツの長剣の刃渡りと一歩分の距離。
 ホウスウに決して届かない距離だ。
 これを詰めなければ、どうにもならない。
 ホウスウは動く気はないだろうし、剣を使う気があるのかすらわからない。
 鞘を払ったものの、ホウスウの剣はただ手に持たれているだけだ。
 構えを取る気すらない。
「打ってきてくれると楽なんだが」
 コウレツは苦笑した。
「どうして、相手の間合いに入っていかなければいけないんですか。
 みすみす、負けるようなことはしたくありません。
 私とて、矜持はあるんですよ」
 ホウスウは言った。
 逆に言えば、この距離にいれば負けないと言うことだ。
 絶対領域
 ホウスウの特技の一つだ。
 恐ろしく目が良い男は、確実に相手の剣が届かない距離を瞬時に見切る。
 限界がないわけでもないが、今のところ生き延びている。
「仕方がない。
 本気で行くか」
 コウレツは呟いた。
 その言葉に、ホウスウはためいきをついた。
 戦神と称えられる当代切っての武将相手に、どこまで持つか。
 三合目まで立っていられたら、自分を褒めてやろうと思った。
 ホウスウのごく側の空間を剣が斬る。
 剣筋が変わる。
 コウレツの剣の鋭さが増す。
 剣圧で皮膚が切れると思うほどに。
 先ほどまでの剣が子どものお遊戯に見える。
 間合いはあっという間に詰められた。
 キン!
 鋼と鋼が打ち合って、悲鳴を上げる。
 競っても無駄なことはわかっているから、ホウスウは無理やり剣を受け流す。
 重い。
 剣にかかる力に、ホウスウの顔が歪む。
 相手の体制に崩れているうちに、ホウスウは剣を見舞う。
 剣が届くことは期待していない、時間稼ぎだ。
 コウレツの癖の強い暗褐色の髪を数筋断つ。
 にやりと、兄は哂った。
「足元がお留守だ」
「!」
 足を払われて、コウレツは無様にしりもちをついた。
 カシャン
 目の前に長剣の切っ先を突きつけられる。
「久々に恐怖を味わえた」
 コウレツは剣を鞘に納めた。
 その顔には満足げな笑顔が浮かんでいる。
「気分転換にお役立てて光栄です」
 ホウスウは言った。
 命の取り合いは苦手だ。
 大部隊を動かすことには楽しみを見出せるが、自分で剣を持って戦うのは嫌いだ。
「お前ぐらい強いのがいると、面白いんだがな。
 なかなかいない」
 チョウリョウの長は弟の剣を褒める。
 実際、ホウスウの剣術は素晴らしいものがある。ただ、コウレツの弟というのが不幸なのだ。どうしたって、コウレツに比べたら見劣りしてしまう。
「油断していると、父上のようになりますよ」
 ホウスウは忠告した。
「戦場で散るのは武人の本懐だろう?」
「遺される者のことをお考え下さい」
 弟は自分勝手な兄を責める。
「俺の持ってるもんは全部お前にくれてやるさ。
 好きにすると良い」
「不吉な」
 ホウスウは呟く。
 コウレツは座り込んでいる弟を片手で立たせてやる。
「チョウリョウの次の長はお前だ」
 チョウリョウらしい色の瞳が言った。
「何を言い出すのですか?
 跡を継ぐのは、これから生まれてくるであろう兄上の子どもです」
「上手な方がやればいいだろう?
 俺は戦は得意だが、治めるのは苦手だ。
 この大陸を制覇したら、長の座はくれてやる。
 まあ、もし俺の子が出来が良ければ、お前の後継者にしても良いが。
 出来が良くなければ、馬鹿なことを考えるなよ」
 コウレツは言った。
「お受けできません」
 ホウスウは断った。
 コウレツは不思議な笑みを浮かべた。
 ホウスウの胸中に不安がにじんだ。
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