第二十八章

「本当にそこでいいんですか?」
 少年は親切に尋ねた。
 訊かれた相手はうーんとうなって、考え込む。
 しばらく悩んで、
「はい」
 と、うなずいた。
「じゃあ、私の勝ちですね」
 少年はニコニコと笑いながら、盤に白い石を置く。
「あ!」
 相手をしていた青年は声を漏らした。
 盤に白い石が綺麗に五つ一直線に並んでいた。
「棋が本当に苦手なんですね。
 このところ連勝です。
 黒の方が有利なんですよ」
 少年は機嫌良く白い石を壺に戻す。
 青年は気弱に笑う。
「こう言うのは、伯俊(はくしゅん)殿の方が得意ですから。
 次のお相手は伯俊殿に」
「ああ、シュウエイですか。
 彼は姑息だから、嫌いです。
 始めるとなかなか勝負がつかないんです」
 少年は言い切った。
「姑息って……」
 青年は絶句する。
「もっと、強くならないと駄目ですよ。
 目先のことに囚われずに、次の次ぐらいまでは読まないと。
 大局を見据えていかないと。
 こういうのは無駄に打ってはいけないのです」
 少年は言う。
 青年はうなずきながら、黒の石を壺に戻す。
「さあ、お先にどうぞ」
 少年に促され、青年は定石通りに打つ。
 パチンッと盤が気持ちの良い音を立てる。
 少年は青年が思っても見ないところに白を打つ。
 まさに縦横無尽で奔放な手である。
 一見無駄になると思える手を打つこともあるが、それが後々利いてくる。
 青年は首をひねる。
 定石通りに打っても、先ほどのように負けるだけだ。
 だが、相手の方が一枚も二枚も上手なのだ。
 青年が考え込んでいると、盤に影が落ちる。
 誰かが、陽を遮ったのだ。
 ゴホンとわざとらしい咳払いに、二人は顔を上げる。
「絲将軍、お楽しみ中のところ申し訳ございません」
 ことさら慇懃に壮年の男は言った。
「ずいぶんと戦況も変化してきたので、指揮を取っていただけると嬉しいのですが」
 副官のモウキンは言った。
 そして、己の息子を睨んだ。
 青年はぎくりと首をすくめる。
 少年は首を動かして、丘の下を見やる。
「まだ、大丈夫ですよ」
 にっこりと笑って言った。
 丘の下は、敵味方の兵が入り混じり、剣を交えている。
「そうですね。
 カクエキの軍が崩れたら、考えます」
 のんきにソウヨウは言った。
 そう、ここはギョクカンとの国境沿い。
 少年は今回の大将でシ・ソウヨウ。十六歳になったばかりの歳若き将軍だ。
 相手をしていた青年はフェン・ユウシ。絲将軍旗下弓兵第三部隊隊長である。父に良く似てがっしりと体格の良い好青年だ。馬鹿がつくほどのお人好しと同僚には言われている。弓兵だが、将軍の護衛につくことが多い。
 思いっきり戦場なのだが、二人は日向で棋を打っていた。
 眼下では命の奪い合いをしているというのに、のんきすぎる光景だ。
「崩れかかっているから、声をおかけしたんです」
 副官は言った。
「崩れかかっている?」
 ソウヨウが怪訝な顔をする。
 ユウシもどっこいどっこいな表情を浮かべた。
「今、伝令がきました」
「……カクシュとアグンが突出したんですね」
 ソウヨウは確認した。
「はい」
 モウキンは重々しくうなずく。
 少年の瞳に剣呑な光が浮かぶ。
 周囲の気温がスッと下がった。
「あれほど持ち場を離れないように言ったのに。
 人の話を聴けない駒はいりません」
 ソウヨウは感情が欠落した声で言った。
 ユウシは上官をどきまぎと見る。
「全く使えませんね」
 ソウヨウは言った。
「その通りです」
 モウキンは答える。
「仕方がありません。
 少し、兵を動かしましょう。
 勝てる戦いで、大きな損害を出したくはありませんから」
 ソウヨウは立ち上がった。
 薄ら寒いほどの冷気が緩む。
 ただ、怒っているのはヒシヒシと伝わってくる。
「御意」
 モウキンは拱手した。


 それから、二刻後。
 スィ・カクシュとスィ・アグンの両名が出した損害は、少ないとは言い難いものとなった。
 二人が突出した穴を埋める羽目になった、第一歩兵隊は壊滅に近かった。それでも、一歩も退かずに踏ん張ったのは隊長であるヤン・カクエキの気性が部下にも伝染していたためだろう。
 しかし、退き時を誤らないのが『風呼のヤン』である。
「かなぐり捨てて、全員退けーっ!
 命があっての物種だからなっ!!」
 どすの利いた声が戦場に響く。
 それを聞いた部下たちは敵に背を向けて、全力で逃げ出した。
 剣を振るいながら、カクエキはその姿に安心する。
 命令が行き渡るというのは、気持ちが良いものだ。
 さて、自分も退くかと突破口を探していると、それが目に入った。
 兵ではなく、雑用として従軍したとしか、誰が見ても思えない年端いかない子供に、剣が襲い掛かる。
 一人でも多く血祭りに上げたいという輩は戦場には多い。
 そういうヤツは見境なしに襲う。
 しかし、剣は少年に振り下ろされることはなった。
 銀の煌きが一閃すると、敵兵は地面に崩れ落ちた。
 少年はその勢いに乗って、周囲の敵兵を屠っていく。
 百数える間に、辺りの兵士は屍となり、残りは一目散に逃げ出した。
「一応、礼を言っておくぜ」
 カクエキは少年に声をかけた。
「隊長!」
 嬉しそうにユ・シデンは笑った。
「突破口ができたからな。
 将軍には悪いが、尻尾巻いて逃げ出そうや」
 カクエキは言った。
「隊長ならば、これぐらい何とかなるんじゃないんですか?
 微力ながら、私もお手伝いいたしますし」
 一騎当千とはいわないが、当百の少年は言った。
「ああ、ダメだ。
 こういうときは、一旦退いて、立て直した方が良い」
 カクエキは言った。
 シデンは不満そうにカクエキを見上げる。
「効率の問題ってヤツだ。
 そのほうが将軍も喜ぶ」
「兄上も?」
「ああ」
 カクエキはうなずいた。
「じゃあ、退きます」
 素直にシデンは言った。
 本当に従兄であるソウヨウを敬愛しているようだった。
 カクエキは苦笑する。
「じゃあ、本陣まで一気に走り抜けるぞ。
 ついて来い!!」
「はい、隊長!」
 シデンは元気良く返事をした。


「強襲ですね」
 のんびりとソウヨウは言った。
 幸いなことにそれを耳にした者はいなかった。
 みんなそれどころではなかったのだ。
 本陣がギョクカン軍の奇襲にあっている。
 現在進行形だったが、ソウヨウはいたって自己中心的である。
 ごく側で剣が振るわれる。
 大将のところまで敵が来たら、その作戦は失敗だ。
 それは、敗北を意味する。
「負けるのは嫌なんですよね」
 何せ、城を出立する前に城主から直々にお声がけがあったのだ。
 必ず、勝ってくるように、と。
 敵が間近まで迫ってきていたが、ソウヨウには余裕があった。
「絲将軍!
 お逃げください!!」
 モウキンが叫んだ。
 この場合、士気に関わるため『お退きください』と言うべきところだ。
 だが、彼の目から見てボーっと佇んでいる上官が、あまりにも心臓によろしくなかった。
 それほどまでに状況は切迫していた。
 ソウヨウは己の剣を鮮やかに彩る朱色のリボンを見た。
 抜くか、どうか迷う。
 約束を破るのは心苦しい。
 だが、命令違反もいただけない。
 そんなことを考えていた。
「将軍!」
 ユウシの悲鳴にも似た声がする。
 人の気配に振り返れば、敵兵。
 矛が振り下ろされる。
 が、敵兵はソウヨウにふれることはなかった。
「カクエキ、ツー。
 無事だったんですね」
 ソウヨウは敵兵を倒した男と従弟を見た。
「何、こんなトコでつ立ってんですか!
 逃げるか、戦うかしてください!!」
 カクエキは怒鳴った。
「ちょっと、困ってたんです。
 とりあえず、ここの敵一掃してもらえませんか?」
 ソウヨウは言った。
「ふざけんなっ!」
 そう怒鳴りながら、それでも命令通りにカクエキは敵兵を倒していく。
「この調子なら、すぐですね」
 ソウヨウは愉しそうに呟く。
 そして、安全な場所まで退いて、お片づけがすむまで待っていた。


 それから一刻もしないうちに、夕闇が迫る。
 シャン・シュウエイは本陣のあった場所を見て顔をしかめた。
「遅参して申し訳ございません」
 シュウエイはソウヨウに拱手した。
「いえ、よく抑えていてくれました。
 おかげで、こちらに来た敵も少ない数でした」
 ソウヨウは部下を労う。
「はあ?
 あれが少ないですか?
 五十は下りませんよ」
 カクエキが言った。
 疲労困憊のため、地べたに座り込んでいる。
 そのすぐ傍では、シデンが健やかな寝息を立てていた。
「一騎当千の称号までは遠いですねぇ。
 がんばってください」
 ソウヨウはカクエキに言った。
 カクエキは天を仰いだ。
「カクシュとアグンはどうでしたか?」
 ソウヨウは副官に訊いた。
「残念ながら無事です」
 モウキンは苦笑いを浮かべた。
「……そうですか」
 ソウヨウは言った。
 鈍いユウシでさえ、上官の考えたことがわかった。
「明日は勝ちましょう。
 ちょっと、損害が大きすぎますけれど。
 まだ、勝てるでしょう」
 ソウヨウは言った。
 いつも通りの薄ぼんやりとした笑顔に、一同胸をなでおろした。
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