第二十九章

 白い手が琴の上を走る。
 サラサラと音がさざめく。
 弾き手の想いを代弁するように、琴の音は魂がふるえるような切ない音を紡ぐ。
 ありきたりな楽曲。 
 誰もが一度は弾いてみるほど、基本的で面白みもない曲。
 けれども、音を耳にした者を虜にして止まない。
 その琴は確かに、名琴と呼ばれるもの。それだけではここまで素晴らしい音は出まい。
 琴と弾き手の二つがあってこその、至高の音色。
 楽に疎い者でも、ハッとするほどの音。
 その音を紡ぐのは、年頃の美しい少女。
 王家の小姐と言えば、誰もが知るところの琴の名手だ。
 今年十四を数える北よりの美貌。
 サラリと流れ金の髪は淡く、かぼそく、冬の月の光のような色。
 冥い瞳は冬の海。
 白く透き通った肌に、すらりと伸びた細い手足。
 息をしているとは思えないほど、整った容貌。
 チョウリョウの民が好む美とはかけ離れていているが、その美を認めないわけにいかないほどの優麗さ。
 リョウジは最後の音を手離した。
 琴の高い音が、空間を渡り、やがてかき消される。
 その音の切なさに、リョウジは瞳を伏せた。
 雑念が混じっている。
 そう、音が言っていた。
 心に引っかかっているものが、音の中に増幅されて表現されてしまう。
 音は自分の心を赤裸々に示す。
 時には見たくもないものを見せてくれる。
 白い面に、かげりが差す。
 気がかりなものがあるために、音は純粋さを失った。
 少女の柔らかな唇から、吐息が漏れた。
 悩んでいても詮もなきこと。
 今更、何もなかったかのようには振舞えない。
 知ってしまった想いは罪深き甘い果実のよう。
 ただ逢えないと言うだけで、重苦しい想いに囚われる。
 たった一人のために、少女の小さな世界は一変してしまった。
 リョウジは冥い瞳を開ける。
 ふと耳に入るのは足音。
 それから、胸をすくような甘い香り。
 少女の顔がパッと輝く。
「こんばんは」
 部屋の前で、男は声をかけた。
「ご機嫌いかがかな?」
 笑いを含んだ余裕な声。
 リョウジが待ち望んだものだった。
 ずっと……この一年もの間。
「ずいぶんとお久しぶりではありませんか?」
 言葉に不実をなじるような響きが織り交ぜられる。
 衝立の向こう、微かに笑う声。
「これは失礼。
 ただ誓って言えるのは、他の美女に目を奪われた訳ではないと言うことだ」
 意外にも声は真剣。
 騙されてしまいそうになる。
「言い訳なんて聞きたくありません」
 リョウジは言い放った。
「それは少しばかり、心が狭い。
 良い女というのは、男の言い訳を聞いてあげるものだよ」
「私はまだ子どもだからわかりません」
「では、子どもには気を使わなくてもかまわないな」
 男はそう言うと、部屋に立ち入った。
 相変わらず、奇抜な格好をしている。
 それが不思議と似合っているのだから、たちが悪い。
 勧められもしないのに、ずうずうしくリョウジの隣に腰を下ろす。
 ハンチョウと言う男は、一年ぶりだというのに全く持って変わってはいなかった。
「全然、変わりがなさそうですね。
 安心しました。
 どこぞで行き倒れたかと思っていました」
 こんなことが言いたいわけではなかったのに、リョウジの口からは冷たい言葉があふれる。
 ハンチョウは苦笑する。
「ほんの少しばかり、大きな仕事中なんだ」
「まあ。
 一応、仕事をなさっていたんですね。
 てっきり、無頼の徒かと思っていました」
「残念ながら、非力でね。
 そんな危ない輩と馴れ合うことはできない」
「こんな時代に剣を持たずに旅をする者などおりません」
 リョウジは言った。
 流れの商人が剣を持たないことはありえない。
 剣を持たない者は、剣を持つ必要性がない者。
 誰かに守られる立場にある者。
「なるほど。
 確かに……」
 ハンチョウは困ったように笑う。
 どうやって丸め込めばいいのか、思案している瞳だ。
 子ども扱いされたようで、気に障る。
「どこの誰ともわかりませんが、一応は養父の友人。
 娘の私は、歓迎せざるを得ませんが」
「だが、仕事でしばらくここに来れなかったのは本当だ。
 次、何時来れるのかもわからない」
 ハンチョウは言った。
「ええ、信じましょう。
 私は世間知らずの箱入り娘ですから。
 殿方の言うことに疑いも持たずに、月日を数えるのです」
 青く冥い双眸が、ハンチョウを見据える。
 リョウジは幼い自分が嫌だった。
 どうせ、自分など物の数にも入っていないのかと思うと、悲しいやら、憎たらしいやら。
 きっと、リョウジの想いなど風の前の花。
「こんな話をするためにここに来たんじゃない」
 ハンチョウは誑惑的な笑みを浮かべる。
 リョウジの心臓がドキッと飛び跳ねる。
 青みの強い、しかし自分とは違う瞳が見つめる。
 時が止まった。
 リョウジは上手く息ができなかった。
 瞳を逸らすこともできず、指の一つも動かせなかった。
 顔を伏せればいいだけ、それだけができなかった。
 何もかもがリョウジの言うことを聞かない。
 心臓の律動はちぐはぐで、頬がほてるのがはっきりとわかった。
 絡まった糸のように乱れていく。
 何か言わなければ、と思うものの何も言うことができない。
 このままではいけない。
 本能が危険を告げている。
 何が、どうしていけないのか、可憐な少女にはわからなかったが、いけないことだということは知っている。
 それなのに、リョウジは何もできずにそこにいた。
 紅一つ塗られていない唇が、言葉を紡ごうとして、本人すら何を言おうとしたかわからずに、音を発することなく閉じられた。
 胸苦しい想いに、ただ泣きたくなるばかりだ。
 そう、とても……苦しいのだ。
 男の手が伸びてきて、金の光をそっと梳く。
 それは本当に、はしたないことだというのに、リョウジは抵抗できなかった。
 もう十四になった。年が明ければ嫁いでもおかしくはない、そんな歳になった。
 こんな夜更けに、異性と二人きりになり……。
 いけないことなのだ。
 それなのに、リョウジは喜んでいる自分を見つけた。
「リョウジ」
 名を呼ばれ、全身が粟立つ。
 自分の名前とは思えないぐらい、美しい音。
 甘く張りのある声に、酔う。
 髪を梳いていた男の手が少女の頬にふれる。
 冷たい指先が心地よかった。
 少女はようやく言うべき言葉を見つけた。
 ずっと、そう、口にしていなかった音の並び。
 逢えなかった分だけ、発することのなかった言の葉。
「ハンチョウ様」
 もしも自分が琴であるなら、想いの全てを表すことができたのに。
 リョウジは胸がしめつけられる想いを味わう。
 ハンチョウの顔が近づいてきて、リョウジは自然に瞳を伏せた。
 ほんの一瞬き。
 空を流れる星が地に呑まれる間よりも、儚い間。
 ふれあった。
 ゆっくりと冥い瞳が開かれ、男を見る。
 男の余裕の笑顔になにやら気恥ずかしくなって、リョウジは顔を伏せた。
 さっきはできなかったというのに、体は簡単に言うことを聞いてくれた。
 恥ずかしさが増す。
 ……とんでもないことをしてしまったのだ。
 ふと冷静になる。……なってしまった。
 誰にも言うことができない……。
 知られたら、一体……どうなるのだろう。
 大事になることはわかっている……。
 どうすればいいのだろう……。
 誰にも言ってはいけないことは、わかる。
 でも、その後は?
 俗世から切り離されて、大切に育てられた少女は途惑う。
 誰にも教わっていないのだ。
 こういう場合どうすればいいのか。
 少女の顔色が失せる。
 その様子を見ていた男は、少女の体を抱き寄せた。
 細い体は男の腕の中にすっぽりと納まってしまう。
「ちゃんと、視てるように」
 ハンチョウは笑いながら言う。
「?」
 リョウジの困惑など気にせず、ハンチョウはリョウジの左の手の平に文字を書く。
「これで一字だ」
 複雑な文字を書きつける。
 続いて、もう一つ。
 どちらの字にも、鳥を意味する旁が入っていた。
「音は教えられないが、真字だけは教えておこう」
 ハンチョウは言った。
 リョウジは目を瞬かせる。
「これが私の支払える代価だ。
 いつかはこの名で呼んで欲しい」
 甘い言葉が耳元でささやかれる。
 名を教えられた、そのことにリョウジはようやく気がついた。
 意味がわかり、少女はコクンとうなずいた。
 頬を染める初々しい恋人に、男はもう一度くちづけを贈った。


 密やかに一つの恋が結ばれた。
 時は、まだ群雄割拠。
 明日(あす)の勝利者は、まだ決まっていない。
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