第三十一章

 兄は、皇帝になった。
 チョウリョウは国になった。
 飛一族とは異なる色の瞳の先には、どんな未来が見えるのだろうか。
 青みの強い、その瞳には。
 父と大兄の遺志をついた兄と、初めて会う日。
 ようやく、個人的に会うことを許された。
 妹だというのに、ずいぶんと待たされた。
 身分はというのは不便なものだ。
 ほんの少し前まで、兄と会うのに許可は要らなかった。
 内宮を出て施政宮に行けば、大兄にすぐに会えた。
 次兄に会うのは、四年振りだろうか。
 南城に行って以来、会っていなかった。
 シキョ城に頻繁に帰ってきていた兄は、決してホウチョウに会うことはなかった。
 理由はわからない。
 ただ、会うと不都合なことがあったのだろう。
 案内されたのは施政宮ではなく、内宮の一部屋だった。
 扉の前まで来ると、案内をしてくれた下官は頭を垂れて、退がった。
 兄の、今も昔も変わらないところを発見し、ホウチョウは思わず笑みをこぼした。
「失礼いたします」
 ホウチョウは声をかけてから、入室する。
 几帳ではなく、衝立の向こう。
 玻璃の入った窓の側、兄は立っていた。
 極上の、これ以上ないくらい深い黒の衣と、キッパリとした青の衣を取り合わせて、錦の帯を締めた略装姿を見たのは初めてだった。
 なんだかんだと言って、楽な服装を好んだ兄であったので、着飾ることは少なかった。
 その姿を見て、皇帝になったのだと思った。
「元気そうで何よりだ、十六夜。
 風邪をこじらして寝こんでいたと聞いていたが」
 ホウスウの声が静かに室内に響く。
「おはよう、雛兄様。
 風邪はもう治ったわ」
「……変わったのは姿形だけか」
 ためいき混じりにホウスウは笑む。
「シャオは?」
「目的はそれか……。
 ソウヨウなら、シキボだ。
 ここに呼ぶ予定はない」
 ホウスウは視線を窓の外に転じる。
「シキボがシャオの故郷だから?」
「そうだ」
 ホウスウはうなずいた。
「シャオは、もう二度とここに来ないの?」
「ソウヨウは十六夜の玩具ではない。
 成人した男子だ。
 二度と会えないと思った方が良い。
 もう、会う機会があったとしても、シャオ(小っさい)ではないよ。
 お前の知るシャオはいない」
 ホウスウは淡々と言った。
「シャオは私のお土産よ。
 烈兄様が連れてきたのよ」
「十六夜。
 それは宴の戯言だ」
「私とシャオが会うと迷惑なんでしょ?」
 胡蝶と呼ばれる少女は、問うた。
 青みの強い、灰色にすら見える瞳がホウチョウを見た。
「話がどうして飛躍するのだ。
 シキョ城にいると十六夜と、シキボにいるソウヨウはどうしたって会い難いであろう?
 知っての通り、シキボはチョウリョウの要。
 火種の絶えない土地だ。
 まだ若いとはいえ、ソウヨウはそこの将軍だ。
 前線から離れられては困る。
 それに、そのような場所に妹を行かせるわけにはいかぬ。
 父上の子は、私とそなただけだ。
 兄上の遺した子も女児が一人。
 私が死んだ場合、チョウリョウを継ぐのはお前なのだ」
 ホウスウはためいきをつく。
「これ以上、家族は失いたくない」
 ポツリと呟いた。
 その嘆きは深く、部屋で反響した。
 亡き大兄と同じ色の瞳は、次兄を見た。
「嘘つき」
 淡く紅が塗られた唇から辛辣な言葉が漏れる。
 ホウスウは否定しなかった。
 ……否定しなかった。
「もう、いい。
 じゃあね、お兄様」
 ホウチョウは踵を返す。
 衝立のところで、振り返る。
 窓の側で、変わらずにたたずむ兄を見る。
 妹の言葉に全く心を動かされなかったようだ。
「全部、嘘で築き上げたら、いつかは本物になるかしら?」
 ホウチョウは謎かけのような言葉を呟く。
 青みの強い瞳が、微笑む。
 懐かしそうな、もう戻ることはできないと知っている過去を悼むような、悲しくなるくらい寂しい微笑だった。
「子どもというのは、大人が思う以上に早く大きくなるものだな」
 言った言葉はありきたりで、青年の思いを全然表していなかった。
 多分、きっと、誰にも語ることのできない想いがあることだけが、声の中で共振して増幅した。
 だから、ホウチョウにもわかった。
 兄が取り返しのつかない過ぎ去った記憶の中で、大切なモノを失って後悔していることに。
「私の記憶が正しければ、雛兄様は私の歳にはシキボにいたはず」
 そして、シャオを連れてきた。
「……そうだったな。
 間違いない」
 ホウスウは考え込むように、瞳を伏せた。
 一つためいきをついて、瞳を開ける。
「十六夜。
 どうして、ソウヨウに会いたがるのだ?」
「好きだからよ」
 ホウチョウはキッパリと答えた。
「どんなに変わっていても?」
「どれだけ変わっていても、好きってことに変わらないわ。
 空に太陽があって、それを好きなように。
 私はシャオが好きだから、会いたいの」
 満面の笑みを浮かべて、少女は言った。
「だったら、尚更会わせることはできないな。
 会わない方がお互いのためだ。
 ……。
 運命が呼び込まれることがない限り、会うことはできないだろう。
 その方が幸せだ」
 ホウスウは断言した。
「私はシャオと約束したんだから!
 一緒に雪を見るって」
 果たせずに終わる約束ばかり増えていく。
 だから、一つでも多く叶えたい。
 ……叶わずに終わるなんて、耐えられそうにないから。
 その可能性を思うと、胸が苦しくなる。
「私とシャオは絶対、再会する」
 この言葉が力になればいい。
 呪(まじな)いとなって、頸木(くびき)になればいい。
 ホウチョウは言い捨てると、部屋を飛び出した。


 ホウチョウは奥庭に向かった。
 自室に戻ることが我慢できなかったからだ。
 奥庭は秋咲きの花薔薇が今や盛りと咲いていた。
 父が持ち帰ったというその花は。
 父が亡くなっても変わらずに、咲き誇っている。
 大兄が亡くなっても、色褪せることはない。
 変わらないモノが確かにあった。
 悲しくなるぐらい季節は、規則正しく巡る。
「私の可愛い花薔薇」
 美しい呼びかけに、ホウチョウは振り返る。
 歳を経ても一つも損なわれることのない美を有する女性が立っていた。
 美しい人はゆったりと娘に近づいてくる。
 まるで薔薇の花の中を泳ぐように。
「悲しい顔。
 何か、あったの?」
 爪紅が施された指先が、白いすべらかな頬をたどる。
「お兄様がシャオと会わない方が良い、と言うのよ」
 ホウチョウは言った。
「シャオ……」
 ランは首を傾げる。
「昔、一緒に遊んでいた男の子よ」
「ああ、あの子」
 ようやく思い当たったのか、ランは呟いた。
「そうね。……ダメよ。
 花盗人(はなぬすびと)だから」
「シャオはお母様のお花を盗んでいないわよ」
「でも、これから盗るかも知れないわ」
「まだ、罪を犯していないのに、罪を問うの?」
 ホウチョウはきょとんとする。
「そうね」
 娘の言い分にも一理あると思ったのか、うなずく。
「では、彼が盗人になったときに代価をいただきましょう」
「代価?」
「その罪に見合うだけの、代価」
「それって盗んだことになるの?」
 ホウチョウは考え込む。
「私のものを持っていくのですもの。
 私は認めたくないけれど。
 仕方がないことであっても。
 だから、代価」
 ランは歌うようにささやく。
「シャオは花に興味があるとは思えないんだけど……」
「花盗人はわかるのよ。
 今まで、外れたことがないの。
 絶対、よ」
「よく、わからない」
 正直な感想を漏らすと、優しい手に撫でられた。
「私の可愛い花薔薇」
 ランは娘を抱きしめた。
 ホウチョウは嬉しくなって微笑んだ。
 美しい親子に薔薇の花たちが彩りを添える。
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