第三十四章

 戦場に少年は立っていた。
 ようやく成長期が来たのか、ここ数ヶ月で少年の背は、ずいぶんと伸びた。それでもまだ同世代の少年たちよりも、拳一つ分ほど低い。伸びた背丈に見合うだけの筋肉はなく、脆弱な印象が増しただけのようだった。
 今日も鎧をまとうことなく、粗末な織りの墨茶色の衣に、刺繍一つない茶緑の帯を締め、相変わらず世捨て人のような姿だ。
 中途半端に伸びかけた樫の木色の髪が風に揺れる。
 腰に帯びた小振りな剣だけが辛うじて、ここが戦場だということ示す。
 柄には緑柱石、翠玉がはめ込まれて、鞘は漆黒。
 剣には装飾のように、朱色の布が巻かれている。
 柄も鞘も気にせずにぐるぐる巻きにしているので、簡単には剣を抜くことができない。
 一体どういうつもりなのか、人々に疑問を抱かせる状態であった。
 そもそもシ・ソウヨウという名の少年が剣を抜くことは稀である。
 幸運にもそれを目にでき、なおかつ生還した者は、あまりに多くを語らなかった。
 それ故に、軍略の才とあいまって、まことしやかな噂が流れる。
 曰く、刀身を見た者は二度と帰ってこれない。
 噂の当人は全く気にせず、いたってのんびりしている。
 白厳の君は、ここが戦場だということも忘れて、大あくびを一つ。
「蒼穹 未だ果てを知らず
 山の彼方 標も無し
 将(まさ)に……」
 ソウヨウは首をかしげる。
 良い文句が思いつかない。
「将(しょう)は平らげんと欲す」
 側に控えていたモウキンが真面目に言った。
「それでは意味がおかしくなります」
 ソウヨウは壮年の男性を見上げる。
「将軍の心情を推し量ってみたのですが。
 お気に召しませんでしたか?」
 しれっと男は答える。
「私は山の向こうなんて欲しくありません。
 欲しているのは鳳様です」
 ソウヨウはムッとして答える。
 山の向こうはギョクカン。
 大陸で唯一残った敵国。
 ギョクカンさえ平定してしまえば、この大陸の覇権はチョウリョウのものになる。
 戦いのない世が実現するのだ。
 それは悲願ですらある。
 父と兄を戦で失ったホウスウのたった一つの欲だ。
「将軍は、何が欲しいのですか?」
「とりあえず、山の向こうではありません」
 子どもらしい澄んだ声が断言した。
「失言だったようですな」
 モウキンは苦笑した。
「野心なんて持たない方が長生きできますよ」
「長生きしたいのですか?」
 副官は驚いた。
「口に出したことは責任を取らないといけません。
 破るために約束を交わすわけじゃないんですから」
 ソウヨウは辛そうな、幸せそうな表情を浮かべた。
 生きることに投げやりだった頃。
 死は常に身近にあって、惜しむほどの価値を見出せなかった頃。
 命乞いすることすら馬鹿らしくて、口に出した言葉。
『行く末を見る』
 あと一人の生を見守れば終わる。
 そして、生きていれば少しは良いことがあるかもしれないと思い始めた頃。
『命を捨てないで』
 自分のために流された涙。
 こんな、何一つ持たない、出来損ないの人形にも、注がれた慈愛。
 約束したのだ。
「一夜分、欠けた月、ですか?」
 モウキンは問うた。
「約束したんです」
 ソウヨウは答えた。
 壮年の男は複雑な表情を浮かべた。
 可哀そうなものを見たときに、同情したときに浮かべるそれと同一のものだ。
 何が言いたいのか、ソウヨウは明確にわかった。
 ある程度の良識を持ち合わせた大人たちは、みな同じような言葉を口にする。
『身の程をわきまえた方がいい』
 そう言うのだ。
 どんなに焦がれても、手に入れることはできない。
 後見を持たない少年とは身分が違う。
 たとえ、幼馴染みだとしても。
「地上にいて月を眺めるくらいは、許していただけるでしょう?」
 ソウヨウは、はにかんだ。
「そうですな。
 月光は平等ですから」
 モウキンは苦笑いをした。
 光の加減でどちらにも、緑とも茶ともつかない瞳が戦場を見やる。
 剣と剣がぶつかり、槍と槍が交わる。
「決着がつきそうですね」
 眼下には二つの軍勢。
 一つは自軍。
 もう一つはギョクカン軍。
 互いに譲らず、均衡を保っているかのように見える。
 モウキンは怪訝な顔をした。
「どんなに硬い金剛石であっても、必ず砕くことはできるんですよ。
 物には点があるんです」
 まだまだ幼さが目につく将軍は言った。
「点、ですか?」
「ええ。
 後一刻もしないうちに、敵はあの谷を抜けるでしょう。
 先陣はギョク・キンレイ。
 谷は狭いですから、当然隊列は伸びる。
 その上、視界が良くありません。
 後戻りができないほどに、深く誘いこんで、落石で退路を断ちましょう。
 岩の方はすでに用意できてますし。
 誘いこむのは、シュウエイの部隊が良いでしょう。
 敵を挑発するのが得意ですし、彼の機動力であれば離脱は容易でしょう。
 混乱した敵に、無慈悲な雨が降ることでしょう」
 わかりやすくソウヨウは説明した。
「雨……」
「はい。
 崖の上で炎の矢を放ちましょう。
 そして、再び落石を。
 そろそろ痛い目にあっていただきましょうか」
 何でもないことのように少年は戦術を編んでいく。
 その顔には薄っすらと笑みが浮かんでいる。
「了解しました」
 モウキンは立礼して、命令を伝達するために退がる。
「諦めの悪そうな人でした。
 懲りてくれるでしょうか」
 ソウヨウはキンレイを思い出し、呟く。
 死ぬまで性格が変わらなさそうな人物だった。
「どうして、武に通じる人たちは、ああも野蛮なんでしょうか。
 力ずくで手に入るモノなど、高が知れていると言うのに」
 ソウヨウはおっとりと微笑んだ。
 欲しいモノはある。
 諦めきれないモノがある。
 それは力ずくでは壊れてしまう硝子細工。
 遠くで見ているだけしかできない。
 ふれたら、雪のようにすっと溶けてしまう。
 だから、欲しがらない。
 少年は空を見上げた。
 逢いたい、と。
 空を仰いだ。
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