第三十五章

 チョウリョウはギョクカンに勝ちすぎた。
 稀代の天才は自軍の損害を軽微にとどめ、敵軍の矜持を折ってしまった。
 二国の間の均衡が崩れ、張り詰められた緊張だけが残された。
 睨み合いはそう続かず、二国は和平することとなった。
 その証として……。



 その若い男は充分すぎるほど苦しんだ。
 彼にとって、決断とは常に後味の悪いものだった。
 最良で最善を選べた験しがなかったのだ。
 吟味しても、必ず後悔した。
 このときも、そうであった。



 皇帝の妹姫は、ギョクカンに嫁ぐことが決まった。
 ギョクカンの王の後妻として。
 それは、人質になるという意味だった。



 その日、珍しく兄が訪れた。
 朝議の終わり、その足で来たのだろうか。
 威儀が正された服装の兄は、妹に命令をした。
「十六夜。
 嫁ぎ先が決まった」
 チョウリョウの民にしては淡い色彩の瞳がホウチョウを見た。
「そう」
 ホウチョウは、取り乱さなかったし、泣き崩れもしなかった。
 いつかは、こんな日が来ることを予感していたからだ。
 ホウチョウにとって、結婚は兄が決めることで、自由意志でできるものではなかった。
 だから、抵抗感は全くなかった。
「相手はギョクカンの王だ」
 ホウスウは歯切れ悪く告げた。
 並みの娘であれば、涙一つ見せたのであろう。
 父親よりも老いた男で、粗野と好色で名の知れた悪漢だ。しかも、ギョクカンの王の末子はホウチョウよりも年上だった。
 そんなところに嫁げと言われたのにも関わらず、ホウチョウは平静であった。
 大切に、大切に、箱に入れて育てられた娘は、結婚というものに対する理解が少なかった。
 躾がきちんと行き届いた侍女たちは、余計なことを一切吹き込まない。自然に、外では常識になっているような諸国の噂とも縁遠くなる。
 だから、ホウチョウはのんびりとしていた。
 彼女にとって、結婚は現実的なものを何一つとして、伴っていなかったのだ。
 兄はそんな妹を不憫だと思った。
 できることなら、国内の然るべき若者を婿に取らせようと思っていたのだ。
 手中の珠とはよく言ったもので、胡蝶の君は外に出せるような娘ではない。
 母親と同じで、夢を食べていなければ生きていけないのだ。
 歳を重ねるごとに、ホウチョウは母によく似てきた。
 病弱な体質も、思いつめる性格も、繊細すぎる心も、夢見るような美しい眼差しも。
 世俗のことなど囚われずに、いつまでも無垢で清らかな魂は、シキョ城の絹で作り上げられた最奥で育まれてきたものだ。
「大切な役目だ。
 頼む」
 ホウスウはようやく言った。
「はい」
 ホウチョウはうなずいた。
 何も知らずに。



 花嫁行列は南に粛々と進む。
 幾つもの馬車が首飾りのように連なって、華々しく進んでいく。
 美しい山野、広がる大空、渡る鳥。
 初めて見るものばかりで、花嫁になる娘の瞳がキラキラと輝く。
「なんて美しく、気高い山なのかしら。
 あの峰の鮮烈さ。
 とってもキレイね」
 ホウチョウは馬車の窓から見える峰々にうっとりとする。
 その言葉に同乗しているメイワがクスクスと笑う。
 朝から晩まで、姫ときたら景色を褒めちぎっているのだ。
 どんな景色も、初めて外出する娘にとっては宝石のごとき美しさなのである。
「公主にそう言ってもらえて、あの山もいたく感激していることでしょう」
 馬車のすぐ傍を歩く随従が言った。
 三十代半ばの陽によく焼けた男で、わずか半日でホウチョウの良きお友達になった幸運な人物だ。
 ホウチョウは自分の身分に頓着せずに、気安く下々の者に声をかける。
 声をかけられた方は、天高き尊いご身分であるところの公主様に話しかけられ、有頂天となり、その無邪気な振る舞いに魅了される。
 この花嫁行列に加わった古参な下官は少なく、侍女もメイワ以外は総とっかえという構成であるのだが、都を出発して一夜明ける頃には固い結束が出来上がっていた。
 誰も彼もがホウチョウに魅了されてしまったのだ。
「あの山は何という名前なの?」
 ホウチョウはニコニコと訊く。
「バサラ山と言います。
 この国で一番大きな山ですよ」
 随従が答える。
 花嫁行列の歩みは遅い。
 護衛の男が歩きながら話せる速度だ。
「まあ、そうなの。
 あの山の天辺まで行ったら、天界まではすぐかしら?」
「私は登ったことはありませんが、あの山頂は天の上にあるって話があります。
 ほら、雲を突き破っているでしょう?」
「そうね。
 ステキな話ね。
 登ってみたいわ」
「公主様には無理ですよ。
 頑丈な男でも、中腹ントコで諦めて帰ってくるんですから。
 大昔に、願掛けして登りきった男がいるって話があるだけで」
「その人はどんな願掛けをして山に入ったのかしら?」
「ああ、それはですね」
 随従は得意顔になって話す。
 ホウチョウも興味津々だ。
 メイワは心の中でためいきをついた。
 姫が楽しそうにしていればしているほど、不安が胸に広がっていく。
 そう遠くない未来。
 耐えられるとは思えない。
 その柔らかな心が、結婚を受け入れられるようには思えなかった。
「メイワ?」
 いつの間にか赤瑪瑙の輝きを持つ瞳が、覗き込んでいた。
 ホウチョウの顔が曇る。
「もしかして、後悔してる?
 ついてきたこと」
「いえ、そんなことはありません」
 メイワはにっこりと笑った。
「でも、もう二度とチョウリョウには戻れないのよ。
 今からでも、全然遅くないし、まだ間に合うわ。
 メイワは、帰ってもいいのよ」
 ホウチョウは言った。
 その言葉は心から言っていることは確かだが、同時に強がりだということを古参の侍女はよく知っていた。
「私がいないと、着替え一つ満足にできない方が何をおっしゃるんですか」
「でも。
 メイワには約束があったじゃない」
「良いんです。
 私は姫を忘れて、幸せにはなれません。
 命令されたわけではなく、私は自分の意思でここにいるんですから」
 メイワはニコニコと言った。
「……ごめんなさい」
 ホウチョウは瞳を潤ませた。
「良いんですよ。
 私の代わりに、もっと見目の良い妹があの家に嫁ぐでしょうから。
 薹(とう)が立ったこんな醜女よりも、先方はお喜びになるでしょう」
 メイワは朗らかに言った。
「……ごめんなさい」
 赤瑪瑙の瞳からハラハラと涙がこぼれる。
「お泣きにならないでください。
 私は自分の意思でここにいるんですから。
 姫のせいではありませんよ」
 穏やかに、メイワは言った。
 それでも、少女は泣き止まなかった。



 花嫁行列は粛々と進む。
 国境まで、あとわずか。
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