第三十八章

 書斎でソウヨウは気難しい顔をしていた。
 彼にしては、という注釈がつく。
 書卓の上には竹簡が広げられている。
 雑用係を押しつけられたユウシがお茶を運んできた。
「将軍。お茶です」
 硝子の杯を書卓の上に乗せる。
 薄ら氷のようなその杯は、沈んだ色の茶で満たされていた。
「ありがとうございます」
 ソウヨウは顔を上げ、にこりと笑った。
「伯俊殿からですか?」
 甘い香りで焚き染められた書簡の差出人をユウシは訊いた。
「まさか。
 シュウエイがこんな綺麗な字を書くわけないじゃないですか」
 ソウヨウは竹簡をユウシに見せる。
 竹簡は流麗な文字で、小難しい表現が並んでいた。
 初見で意味が取れないような洗練された文体だった。
 シュウエイの文字であるはずがない。
 何をやらせても卒なくこなす男の最大の欠点は、漢文の才がないことだった。半端でなく悪筆な上に、文才がない。
 シュウエイからの報告書を、ソウヨウは意地悪く解読が必要だと公言するほどだ。
「鳳様からです。
 火急の用があるから、本城に来るようにと書いてあるんです」
 ソウヨウは説明する。
「珍しいですね」
「そうですね」
 曖昧な色の瞳が眇(すが)められる。
 お呼び出しは、この城を賜って以来、初めてのことだった。
 ソウヨウは都に五年も足を運んでいない。
 色墓に戻ったとき、年端いかなかった少年も、もう十七になった。
 それだけの月日が流れたのだ。
「よっぽど、大切な用があるんですね。
 この時期に呼ぶなんて」
 ユウシはニコニコと言った。
 そう、この時期だ。
 稲の刈り入れがすみ、晩稲(おくて)もそろそろという時期だ。
 ギョクカンとの睨み合いも膠着(こうちゃく)状態で、束の間の平安。
 そんな時期だからこそ、本城への帰還命令も出せる。
 皇帝陛下が最前線に渡るわけにもいかない。
 だが、腑に落ちない。
「そうですね」
 ソウヨウはためいきをついた。
 人の心を推し量るのは得手ではない。
 こうして書簡を眺めていても、わかることなど高が知れている。
「モウキン殿を呼んで来ていただけませんか。
 留守の間のことなど決めておかなければなりませんから」
 ソウヨウはにっこりと笑った。


 簡単な説明の後
「後はお願いします」
 歳若き城主は言った。
「すぐに行かれるのですか?」
 モウキンは問うた。
「ええ、急いできて欲しいとのことですから」
 ソウヨウは腰に剣を吊るすための帯を締める。
「お一人で?」
「ついて来られる人なんていないでしょう?」
 あっさりとソウヨウは言った。
「そうですが……」
 モウキンは渋る。
「本城まで二日の距離です。
 往復で四日ぐらい何となるでしょう?」
 そう言いながら、ソウヨウは剣帯に剣を吊るす。
「何にもありませんよ。大丈夫です」
 ソウヨウはモウキンを見た。
「何か?」
 文句を言いたげな副官に問う。
「できたら、誰か供に連れて行ってください」
「嫌です。
 足手まといにしかなりません」
 ソウヨウは断言した。
 モウキンはためいきをついた。
 往復に七日かかる距離を、四日で済ますというのだから、並みの乗り手では足手まといにしかならない。
 ありとあらゆる武術に秀でている少年は、馬術の腕も素晴らしい。どんな馬でも乗りこなし、馬の能力を極限まで引き出す。
 その代わり、愛着も執着も持たないものだから、馬を乗りつぶしてくれる。
 四日とは、中継地点ごとに馬を代えて、昼夜を問わずに駆け抜けての数字である。
「伯俊は、どうですか?」
 モウキンは提案した。馬操術で定評のある青年の名前を出す。
「彼には他に仕事があります。
 それに、最近気が立っているようなんです。
 道中、喧嘩ですめばいいですが、殺し合いになったら目も当てられません」
 ソウヨウは手早く樫の木色の髪を襟元で括る。
「そうですか。
 仕方がありませんな」
 モウキンは松葉色の外套をまだ細い肩に滑らせる。
「行って来ます。
 あなたの判断に任せますから。
 何があっても、文句は言いません」
 ソウヨウは言った。
「何もないことを祈ってます」
 モウキンは複雑な表情を浮かべた。



 皇帝の居城。
 ソウヨウが着くと、内宮の先。奥宮の、一部の部屋に通された。
 朱塗りの柱が目に毒々しいほど鮮やかで、甘く粉っぽい香りが空間を満たしていた。
 床は白く磨きたてられ、塵一つ舞ってはいなかった。
 ここが何と呼ばれる場所か、ソウヨウは知っていた。
 この城に九つから十二までいたが、ここに足を踏み入れたのは初めてだった。
 しかし、ここがどんな場所か想像がついた。
 道案内役の下官は立ち止まり、深々と頭を上げると、先に進むように示す。
 ソウヨウは一人、進む。
 そう言えば、剣を佩いたままだ。
 普通、佩剣は禁じられているはずだ。
 この場所では、特に。
 一体、どういうつもりなのだろうか。
 ソウヨウは立ち止まった。
 院子に面した部屋。
 窓は開け放たれており、室内は去り行く秋の気配で染め上げられていた。
 若い男は物憂げに外を眺めていた。
 この国でただ一人の、偉大なる皇帝陛下。
 ソウヨウは裾を捌き、膝をつき、頭を垂れ、その手をつく。
「来たか。
 ずいぶんと早かったな。
 もう少し、かかると思っていた」
 ホウスウは皮肉げに笑う。
「礼は良い。
 立ち上がると良い」
 言われて、ソウヨウは立ち上がる。
 灰色にも見える淡い茶色の瞳が、かすかに驚いたように見えた。
「月日と言うのは、時に目に見える形で流れていくものなのだな。
 ずいぶんと背が伸びたな。
 これでは十六夜もシャオという愛称では呼べないだろう」
 ホウスウは言った。
 チョウリョウの民にしては大柄な方であるホウスウから見れば、まだまだ背が低く見えるが、同世代の少年たちと比べたらソウヨウは背が高い方である。
 ここ数ヶ月、ソウヨウは急激に様変わりをしたのだ。
 背も伸び、若干筋肉もつき、声も変わった。
 それに合わせて周りの者が、あれやこれやと装束や身の回りのものを整えたものだから、ソウヨウはどこに出しても恥ずかしくはない、若き軍師という姿だ。
「一つ、お前に言わなければならないことがある。
 十六夜は、嫁に出した。
 ……ギョクカンの王の下へ、な」
 ホウスウは微かに笑いながら言った。
 ソウヨウは礼儀も忘れて、マジマジとホウスウの顔を見た。
 何故?
 その想いが胸に渦巻く。
 どうして、今ここで言うのだろうか。
 途惑いと、憎悪と、後悔と、雑多な感情がグルグルと模様を描く。
「人払いはすんでいる。
 言いたいことがあるなら、素直に言え。
 咎めたりはしない」
 妙に落ち着いて、張りのある深い声が耳障りだった。
 『失琴絲(琴が恥じて糸を切る)』と讃えられる声が苛立ちを募らせる。
「そんなことを言うためにわざわざ呼んだのですか?」
 ソウヨウの声には明らかに怒りが含まれていた。
 いつかは、どこかに姫が嫁ぐことはわかっていた。
 それが自分ではないことは知っていた。
 だが、よりによってギョクカンの王とは。
 最悪の選択だ。
「そうだ」
 ホウスウはうなずいた。
 ソウヨウは目の前の男が皇帝でなければ、他ならぬ十六夜姫の兄でなければ、弑したことであろう。
 これ以上ないほどの恨みがソウヨウに剣を握らせようとしていた。
 ほんの一時。
 あと数瞬遅ければ、ソウヨウは剣の柄に手を置いていた。
「今から、軍を整えて、我が妹を奪還せよ。
 成功の暁には、シ・ソウヨウを列将軍に任じる」
 威厳のある声が命令した。
「?」
 ソウヨウは意味を取りかねた。
 感情が高ぶっていたため、それを理解するのにだいぶ時間がかかった。
「賭けをしたのだ。
 運命相手に分の悪い。
 賽(サイコロ)はどうやら、二人の味方らしい。
 私の負けだ」
 ホウスウは静かに言った。
 ソウヨウはホウスウを見上げる。
「ギョクカンとの和平は取り止めだ。
 お前が間に合ってしまったからな。
 今からなら、十六夜が国境を越える前に追いつく。
 この国の宝を、価値のわからない野蛮人に手渡さなくても良い。
 その代わり、必ず勝ってこい。
 まだ、意味がわからないのか?
 ギョクカンを滅ぼしてこい。
 ギョクカンの王に十六夜を渡したくないならな」
 ホウスウは疲れたように笑った。
「かしこまりました」
 ソウヨウは拱手した。
「ここで、戦勝報告を楽しみに待っている」
 ホウスウは言った。



 建平二年 十一月。
 チョウリョウはギョクカン相手に最後の戦いを始める。
 後の世に色墓の戦いと呼ばれるそれである。
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