第三十九章

 満ちた月が天から滑り落ちようとした時分。
 夜を昼に継ぎ、馬を走らせ戻ってきた城主は、配下を叩き起こした。
 明日の昼に帰ると思っていた家臣たちは、装束を改め、慌てて集まった。
 最も気の毒だったのは、寝入ったばかりに起こされた副官のモウキンだ。
 卓についた群臣に良く通る声が告げる。
「今すぐ、出陣の準備を整えてください。
 作戦は用意が整った部隊ごとに、適宜出します。
 可及的速やかに。
 時は一刻を争います。
 夜が明ける前にはこの城を出ます。
 遅れる者がいるなら、切り捨ててください。
 拙速を第一にします」
 ソウヨウの言葉に、一同目が覚める。
「解散!」
 ソウヨウは命令した。
 群臣たちは、まろぶように部屋を出て行く。
 誰もが今回の作戦の趣旨を訊かない。
 命令されることに慣れてしまったためだ。
 部屋に残ったのは、お友だちと副官のモウキンだけだった。
 モウキンが地図を卓に広げる。
「今度は何ですか?」
 不機嫌さを隠しもせずに訊いたのはシュウエイだ。
 いつもはきっちり結ばれている髪も、急な呼び出しのためにただ垂らされている。
「十六夜姫の婚姻の話は知っていますか?」
 ソウヨウは言った。
 場がしんとする。
「なるほど。
 皆さん、心優しくていらっしゃる」
 少年の口元に微笑が浮かび上がる。
 見た者を震え上がらせるほど、獰猛(どうもう)で残忍な微笑だった。
「私の耳に入れないようにしてくださっていたと言うわけですか」
 清涼感のある声は、何故だかとてもいびつに捻(ね)じ曲がってしまったようで、場を凍らせるほどの迫力があった。
「感謝しなければなりませんね」
 人は言葉と正反対の意味を声音に宿らせることができる。
「まあ、過ぎてしまったことをとやかく言っても意味がありません。
 私は心が広いほうですから。
 その話を知っているなら、話が早いですね。
 破談にしても構わないことになりました、それ。
 なので、全軍を挙げてギョクカンを叩きます」
 ソウヨウは嬉しそうに笑った。
「皇帝陛下のご命令ですか?」
 カクエキが訊いた。
「ええ。
 成功の暁には大出世です。
 列将軍を拝命するらしいですよ。
 そしたら、皆さんを将軍にして差し上げますね」
 にっこりとソウヨウは笑う。
 将軍と呼ばれるのは右将軍からだ。同格に、前、後、左将軍がいる。その上官は車騎将軍。あるいは大将軍だ。
 大将軍は名誉職の感が強く、殉職した者に贈られるぐらいで、空位のことが少なくない。
 列将軍はその上、大司馬と呼ばれることもある四方の夷を討伐する、武官の最高位だ。
「この城の兵だけで、ギョクカンと渡り合うのですか?」
 モウキンは眉をひそめた。
「一番の目的は、姫の身柄を確保です。
 国境を越える前に、ね。
 越えてからだと少し厄介ですから」
 ソウヨウは言う。
「兵を差し向けるんですか?」
 ユウシは心配する。
 花嫁行列に大軍を差し向けたら、いかに尚武の国の姫とは言え、気を悪くするんじゃないかと思ったからだ。
「そこは、それ。
 カクエキの出番です」
「は?」
 カクエキは露骨に嫌そうな顔をした。
「昔取った杵柄、って奴です。
 頑張ってください」
 ソウヨウはニコニコと言った。
「……。
 おっしゃる意味が良くわかりませんが」
 カクエキは引きつった笑みを浮かべる。
「嫌だなぁ。
 ちょっとばっかり、山賊のふりしてくだされば良いんですよ」
 ソウヨウは言った。
 モウキンは気の毒そうにカクエキを見た。
「ふざけんなっ!
 風呼のヤンをケチな山賊と一緒にすんじゃねぇ!」
 カクエキはドンと卓を叩いた。
 ソウヨウはその大きな音に肩をすくめる。
「だって、一番適任なんです。
 ユウシも一緒ですから、寂しくないでしょう?
 みんなで楽しく山賊ごっこしましょう」
 にこやかに、ソウヨウは言った。
「なるほど。
 みんなで山賊のふりして、姫にこちらまで来ていただくんですね。
 ギョクカンに角が立たなくていいですね」
 名案だと言わんばかりに、ユウシは感激する。
「でしょう。
 こちらとしては兵が少ないですから、正面きって戦いたくはないんですよ。
 できるだけ時間を稼がないと。
 それに、こちら側に落ち度があると同盟にも支障をきたしますから」
 ソウヨウはテキパキと説明をする。
「カクエキ、率いる兵は五十で抑えてください。
 その代わり、ユウシとツーをその中に含めてかまいません」
「了解」
 納得のいかない顔でカクエキはうなずく。
「それと、山賊のふりするだけで、間違っても女性に不埒な真似や火事場泥棒みたいなことをしないようにお願いしますね。
 そう言った輩が出た場合、軍規に照らし合わせ処罰をお願いします」
 ソウヨウは念押しする。
「風朗が行くんだ。
 それはねぇな。
 面子はこっちで勝手に決めていいんだな」
「もちろんです。
 あ、私も行くんで、馬用意して置いてくださいね。
 姫だけでも先に、安全な場所に来てもらわないと」
「うん。
 承知した」
 カクエキは拱手した。
「残りの兵は?」
 モウキンが訊く。
「伏せます。
 ギョクカンが国境を侵犯したら、それを理由に叩きます。
 場所は、そうですね。
 この辺にしましょうか」
 ソウヨウは地図を指し示す。
「そこまで、逃げるふりして向かえばいいですね」
 ユウシが確認する。
「もちろんです。
 モウキン殿はこの城の留守を頼みます。
 シュウエイは補給の件もありますから、この城に残ってください」
「どうして、ですか?」
 シュウエイは訊いた。
「あなたは目立ちすぎます。
 山賊のふりはできないでしょう?」
「ぜひお連れください!」
 シュウエイは言った。
「翔朗(シャン家の若さま)は目立って仕方がありません。
 あなたの顔は国内外に知れ渡っているんです。
 チョウリョウの民らしいユウシや、ちょっと顔がいまいちなカクエキだったら、山賊に扮するのは難しくありませんが、それだけ派手な人間が山賊にいるわけないじゃないですか。
 第一、その東南渡りの、極上の伽羅の香りは入浴したぐらいじゃ落ちませんよ」
 ソウヨウは苛立ちながら説明した。
 同じ説明を二度するのが好きではないのだ。
 なので、わざわざソウヨウは噛み砕いて説明をした。
「将軍も同じぐらい目立つと思うんですが」
「私は姫の身柄を確保したら、戦場から離脱します。
 敵は私を追っては来れませんよ。
 カクエキが足止めするんですからね」
「ぜひ、お連れください」
 シュウエイはなおも食い下がった。
「くどいですよ。
 これは決定です」
 ソウヨウは立ち上がる。
 二人の様子に、ハラハラと周囲は見守った。
 作戦に異議を立てることを、シュウエイは今までしなかった。
 意見の相違があったとしても、必ず部下であるシュウエイが折れたのだ。
 ソウヨウは作戦上の異議を許さなかった。他の事では寛大なところを見せるのだが、これだけは許さなかった。
 細密に織られた策略を端まで成功させることをこだわった。
 完全勝利しか認めないのだ。
 痛みわけは、最悪の結果でしか過ぎない。
「今回だけ、ぜひ」
 シュウエイは言った。
 ソウヨウはためいきをついた。
「仕方がありませんね」
 その言葉に、三人は胸をなでおろした。
 どうやら、喧嘩にならずにすんだようだった。
 皆、そう思った。
 ソウヨウはシュウエイの元まで歩いて行くと、彼の右腕を取った。
 緑がかった茶色の瞳が哀れむように、微笑んだ。
 バキッ
 室内に、鳥肌が立つような鈍い音が響いた。
 シュウエイが右手を抱えて、床にうずくまった。
 ソウヨウに皆の視線が集まる。
 何をしたのか、あまりに明白だった。
 お気に入りの配下の利き腕を軽く……折ったのだ。
「残念です。
 それではご自慢の槍を持つこともできませんね」
 ソウヨウは綺麗な笑顔で言った。
 純粋で、無垢な、子どものような笑顔だった。
 シュウエイは気丈にも上官を睨んだ。
「さあ、ボーっとしてないで、急いでください。
 時間は少ないんですから」
 ソウヨウはおっとりと言った。
 満ちた月は中天からすっかり滑り落ちていた。
 夜明けまで、あと三刻もなかった。
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