第四十章

 花嫁行列は国境に向かう。
 それはのろのろとした進みであったが、確実に。
 今日という日に間に合うために。

 建平二年 十一月 十六日

 よく晴れた日だった。
 去り行く秋に相応しく、どこまでも深い青空が広がっていた。
 雲一つなく、風が心地よく吹く。
 木々は南の地に遅い秋の到来を告げ、祝すように紅の錦をまとっていた。
 花嫁行列が足を止めた。
 国境まであとわずかであった。
 ここから先は、儀礼に則って人は馬車から降りる。
 花嫁であるホウチョウは自らの足で国境を越えなければならない。
 それが、他国に嫁ぐということだ。
 あくまで本人の意思で向かうことを示さなければならない。
「姫、お気をつけてください」
 先に馬車から降りたメイワが手を差し出す。
 その手に白い手が重ねられる。
 緋色の衣からのぞく手は、本当に白く小さい。
 その手に飾りのようについた爪にも、今日は紅色に染められている。
 ホウチョウは馬車から降りた。
 シャラン、と。
 金の歩揺が切ない音を奏でる。
 メイワは乱れた薄絹をかけなおす。
 今日の日差しは秋にしては強く、姫の身体にとって毒にしかならない。
「変なところはない?」
 紅い衣に身を包んだ花嫁は訊く。
「いいえ」
 メイワは紅ばかりの中、ただ一つ異なる色を見つめ返事をした。
 紅い花嫁衣裳は、うら若き乙女には良く似合っていた。
 ただ、それ以上に彼女の美しさを引き立てたのは、耳墜。
 極上の翡翠を割って造った、無駄のない素材そのものの美を有する。
 赤瑪瑙と美称される瞳を引き立て、赤みの強い茶色の髪に映える。
「とても、お美しいですわ」
 メイワは微笑んだ。
 ホウチョウは、ぎこちなく微笑んだ。
 つないだ手から、痛々しいほどの緊張が伝わってくる。
「まいりましょう」
 メイワは陽が沈む方角に向き直る。
 そこにはギョクカンの王が立っていた。
 勢力を誇示するように多くの随従に囲まれて、老いた男がいた。
 五本爪の竜が漆黒の衣に縫い付けられていた。
 それをまとうのはギョクカンで皇帝と名乗る男、ただ一人。
 洗練された衣をまとうのに、生来の蛮野(ばんや)は隠せないものらしい。
 悪漢、という感が拭えない。
 メイワは息を呑んだ。
 あんな男の元へと行かなければいけない。
 ホウチョウの手が強く、メイワを掴む。
 そんなに掴んでは、その細い指が壊れてしまうのではないかと思えるほどに。
 メイワは一歩踏み出した。
 ホウチョウは大人しくついてくる。
 主の顔をうかがえば、紙のように白く、生気を失っていた。
 赤瑪瑙の瞳には、怯えが走っている。
 メイワは天に祈った。
 この結婚がどんな大事なものかはわかっているつもりだ。
 それでも、祈ってしまった。
 ギョクカンには行きたくない。
 姫をあんな男に、手渡したくない。
 誰でもいいから、助けて欲しい――! と。

 天は願いを果たした。

 漆黒の旋風(かぜ)が駆け抜ける。
 花嫁行列を分断するように。
 まるでチョウリョウの宝が、この国から離れることを許さないように。
 突然のことに、混乱に陥る人の群れ。
 メイワは振り返り、細い姫の身体を抱き寄せる。
 どんなことがあっても、守らなければならない、かけがえのない存在。
 漆黒の旋風は、約五十騎からなる群れ。
 皆、漆黒の外套を羽織り、手には様々な得物が握られていた。
 それは、剣であり、槍であり、あるいは見たこともない武器であった。
「山賊だっー!」
 誰かがすぐ側で叫んだ。
 人々は蜘蛛の子を散らしたように逃げる。
 すぐ近くにいたギョクカンの兵たちが、国境を渡りチョウリョウに入る。
 花嫁を守るためだ。
 勇ましい姿に安堵したのも束の間、漆黒の衣をまとう集団の頭目だろうか。仮面の男が手を上げる。
 それを合図に、矢が飛来する。
 ギョクカンの兵だけを、矢は的確に射抜いていく。
 一方的な殺戮が始まった。
 山賊たちは強かった。
 先ほどの矢で浮き足立っていた兵を、一糸乱れぬ連携で追い詰めていく。
 強固な組織は事前に打ち合わせでもしてあったのか、号令一つなく、全ては予測の範囲内だと言わんばかりに無言で馬を走らせる。
 メイワは呆然と事の成り行きを見ていた。
 逃げようにも、どこへ逃げれば安全なのか見当がつかなかった。人々は四方八方に逃げ惑い、結局どこにも逃げ延びることはできない。
 腕の中の姫に、この凄惨な風景を見せないようにと庇うので精一杯だった。
 尚武の国とはいえ、メイワ自身戦乱とは縁遠かった。
 人の上げる怒号も、断末魔の声も。
 初めて経験するものばかりだった。
 侍女の中には早々に意識を手離した者も少なくなかったが、メイワは踏ん張っていた。
 守る者がある者の強さだ。
「――」
 メイワは耳元で呟きを聞いた。
 それは紛れもなく、ホウチョウが発したものだった。
 いぶかしみ、メイワは姫を見た。
 しかし、赤瑪瑙の瞳はメイワを見ていなかった。
 もっと、遠くのものに、吸い寄せられるように、一点だけを見つめていた。
 恐慌状態に陥っているわけではない、ホウチョウの瞳はキラキラと輝き、精彩に富んでいた。
 メイワの脳裏に嫌な予感が掠(かす)める。
 するり
 メイワの腕をすり抜けて、胡蝶は走り出した。
「姫!」
 メイワは叫び、その体を留めようと手を伸ばす。
 けれども、メイワの指先は薄絹を掴んだだけで、ホウチョウ自身には届かなかった。
 戦場を胡蝶がヒラリヒラリと舞う。
 刃を避け、人の隙間を縫って。
 死と隣り合わせの空間だというのに、それを見るものに忘れさせてしまうほど。
 その舞は美しかった。
 ヒラリヒラリ、と。
「姫っー!!」
 ありったけの声でメイワは叫んだ。
 追いかけても、追いつけない。
 メイワも必死なのに、走る少女に追いつけない。
 やがて、胡蝶は羽を休める。
 ただ、一つの花の前で。
 仮面の男が手を伸ばし、ホウチョウも手を伸ばす。
 難なく、紅い衣裳をまとった花嫁は、漆黒の旋風に連れ浚(さら)われた。
 メイワは見ていた。
 見てるだけしかできなかった。
 仮面の男は、馬を駆けさせ、ここから離れていった。
 メイワは地面にへたりと座り込んだ。
 その手には紅く染められた薄絹。
 職務に忠実な侍女の瞳に涙が浮かび、その頬を一滴……伝わった。



 山賊は首尾よく成果を挙げたようだった。
 メイワたち侍女は一人も欠けることなく、山賊たちの隠れ家と思われる場所に連れてこられた。
 外見は粗末であったが、内面は驚くほど豪華で、どこかの貴族の別邸を思わせる上等な屋敷であった。
 侍女たちは無邪気に再会を喜んだ。
 不思議なことに、女や高価な玉以外に、男たちまでもが捕まっていた。
 花嫁行列で失われた物があるとするなら、馬車と細々とした日用品、それと花嫁自身だけだ。
 メイワは腑に落ちなかった。
 山賊は普通、男は役に立たないために殺す、らしい。
 それ以外にも幾つかの謎があった。
 その中でも、特に気になるのは山賊たちの発音だ。
 流れ者らしい多様な訛りの中、都の人間としか思えない高貴な発音が混じっている。
 貴人も山賊に身を落とすような乱世……。とは、考えられなかった。
 メイワにはどうしても確認したいことがある。
 何度か深呼吸をし、メイワは立ち上がった。
 他の侍女が何事かと見上げる。
「私は姫の安否を聞いてまいります」
 メイワは微笑んだ。
「そんな、危険だわ」
「大人しくしていた方が身のためよ」
 侍女たちは口々に、メイワを踏みとどまらせるような言葉を言ったが、メイワは頑として聞かなかった。
「行ってきます」
 メイワは朗らかに笑う。

 メイワは部屋の前にいた見張りに、代表の人と話したいと交渉した。
 メイワのしつこさに呆れながら、見張りの男は承諾した。
 拍子抜けするほど簡単にメイワは副頭目に会えることになった。
 案内役の男の背を見ながら、メイワは驚いていた。
 メイワは何の枷すらなく、自由に歩いていたのだ。
 逃亡する心配をしていないのだろうか。それとも、自信があるのだろうか。
 何となく後者のような気はする。
 しばらく歩き、広い室内に通された。
 鮮やかな布に囲まれ、青年二人がくつろいでいた。
 一方はチョウリョウの民らしいがっしりとした体格の青年で、もう一方は粗野な感じが漂うものの魅力的な大柄な男だった。
 その側に明るい緑の瞳をした少年が給仕をしていた。
 案内役の男は、拱手すると無言で退がった。
 メイワはさらに驚いた。
 やはり、ただの山賊ではない。
 庶民は拱手などしない。
 拱手するには長い袖が必要なのだ。長い袖を着れるような身分の者しか、できないのだ。
 それは政の中枢に位置する者だけの、礼。
「話があるとか?」
 大柄な男は口の端だけ歪めて笑った。
 男には風格、あるいは絶大の自信があった。
 メイワは怯えあがる心に叱咤を打つ。
「姫はどこですか?」
 メイワは男を見据えた。
「そのうち、会わせてやるよ。
 きっと、その頃にはずいぶんと可愛がられた後だろうけどな」
 北よりの訛りのある発音が下卑た笑いを上げる。
「姫に絶対会わせていただけるんですね」
 メイワは萎縮しそうになる精神を奮い起こし問う。
 男はようやくメイワを見た。
 黒とも思えた色の瞳は深みある青で、灯台の下、意地悪く煌いていた。
 メイワは逃げたくなるのを必死でこらえ、睨み返した。
「どうする?」
 男は傍らで杯を干していた青年に問う。
「もしかして、彼女がメイワ殿なんじゃないんですか?」
 青年はニコニコと言う。
 自分の名前が出て、ドキリッとした。
「冴えない女だって聞いてたぞ」
「……失礼ですけど、パッとしない容貌ですよ」
 青年はあっさりメイワの気にしていることを言った。
「お前の目、腐ってる」
「腐ってるのは、あなたです。
 チョウリョウ美人の範疇から、完璧ズレてるじゃありませんか。
 髪も、目も、肌も全部白すぎます。
 貧弱だし、もっと女性はふっくらしてないと、鶏がらじゃあるまいし」
 青年はズケズケと言った。
 異性に、面と向かってそこまで言われると、やはり傷つく。
 メイワは自分のさえない容貌に、いたたまれない気分を味わう。
 遠く都を離れ、主君とも離れ離れになり……、不運を嘆きたくなる。
「こういうのは楚々とした美人って言うんだ。
 お前には、この華奢で、繊細な美しさがわからないのか?」
 男は言い返した。
「あのー。
 名前、訊いてみたらどうですか?」
 少年が口を挟む。
 二人は話が脱線してしまったことに気がついたようだった。
「何てお名前ですか?」
 青年が訊いた。
「メイワと申します」
 歯切れ悪くメイワは名乗る。
「姫付きの奥侍女の?」
 青年は重ねて問う。
「はい」
 メイワはうなずく。
 青年二人は顔を見合わせる。
「私が行きます」
 やがて、鳶色の瞳の青年が言った。
「だな。
 それが良い。
 上に会ったら、伝えといてくれ。
 ふざけんな、って」
 男は笑った。
「腕、折られても知りませんよ」
「そこまで後先見えない馬鹿じゃない」
「言いつけますよ」
「やってみろよ。
 倍返ししてやる」
 そこで、二人は失笑する。
「さて、メイワ殿には大変恐縮ですが、強行軍です。
 明日の朝までには、姫に会わせると確約します」
 青年は人の良さそうな微笑を浮かべる。
「だから、私と一緒に来てください」
 その言葉には、メイワはうなずくしかなかった。


 ほどなくして、強行軍と言った理由がわかった。
 漆黒の外套をまとった青年に抱きかかえられ、道なき道を走る。
 空には十六夜の月。
 たった一騎、夜の山道を駆け抜けていく。
 メイワは振り落とされないように、しがみついているので精一杯だった。
 天にかかる月にメイワは祈った。
 大切な姫との再会を。
 それが叶えられるのは、東の果てが白み始める頃のこと。
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