第四十二章

 作戦は成功した。
 ……彼が思ったよりも。
 これからギョクカンと長きに渡り、競り合わなければならないが、最大の山場は乗り越えられた。
 ここからは、のんびりと負けない戦を続けて、相手の疲労を待つだけだ。隙を突いて反撃し、やがて、平らげてしまえば良い。
 ソウヨウは息を吐き出した。
 襟元で髪を束ねている山藍摺の布を解く。
 あまりにも呆気なさすぎて、彼自身途惑いを隠せないでいた。
「ご苦労様です」
 憮然とした表情で、シュウエイが左手で茶を書卓に乗せた。
 右手は布で吊っている。
「ああ、ありがとうございます」
 ソウヨウは白磁の碗に口をつけ、顔をしかめる。
 ……苦い。
「お疲れのようでしたので、薬酒を白湯で割ってきたのですが」
 シュウエイは澄まして答える。
「蜂蜜入れてきてください」
 涙目でソウヨウは言った。
 苦いものも、辛いものも、ソウヨウの口に合わない。
「子どもでも飲める苦さですよ」
「わかってます!」
 ソウヨウは部下の嫌がらせに、情けない顔で訴える。
 利き腕を折ったことを根に持っているらしい。
 自分でも少々軽率だとは思わなくもなかったが、あの時はそれが一番だと思っていたのだ。
「仕方がありませんね」
 シュウエイは茶碗を持つと、退出する。
 入れ替わりに、モウキンが来る。
「苛められましたか?」
 モウキンは苦笑する。
「苦い薬酒を持ってきてくれました」
 ソウヨウは拗ねる。
「体に良いんですよ」
「でも、苦いです」
「あれぐらいは、仕方がありません。
 白湯で割れば、ずいぶん飲みやすくなりますよ」
「それでも、苦かったです」
「それは将軍がまだまだ子どもの証拠ですね」
 モウキンは笑った。
 ソウヨウは唇を尖らせた。
「十六夜姫はぐっすりと眠っておられるようです。
 用意した侍女が暇だとぼやいていました」
 モウキンは報告する。
「ずっと、眠っているようですね」
 ソウヨウの顔が曇る。
 あの戦場で浚ったとき以来、眠り続けてそろそろ三刻。
 一度ぐらい、目を覚ましても良さそうなものだが。
「薬師は、異常はないと申しておりました」
 モウキンは言った。
「そうですか」
 ソウヨウは椅子に背を預ける。
「将軍こそ、お眠りになられたらどうですか?」
 モウキンは困ったように言った。
「眠れないんです。
 不安で」
 丸四日ほど、ソウヨウは眠っていなかった。馬上や椅子で細切れのように睡眠を取っているものの、疲労は残る。
 集中力や判断力を低下させるのは、わかっている。
 それでも、寝台に入って、目をつぶることなどできない。
「目が覚めて、これが夢だったら、耐えられそうにありません」
 緑とも茶ともつかない瞳は、不安をたたえていた。
「これは夢じゃありません。
 作戦は成功しました。
 十六夜姫はこのチョウリョウにいるのです」
 モウキンは言った。
 少年は気弱に首を振った。
「信じられません」
 その声は、震えていた。
 声だけなら、彼は泣いていた。
 不安と、押しつぶされそうな恐怖で。
「お会いになってみたらどうですか?」
 あまり勧めてはいけないことを、モウキンは勧めた。
 こんな夜に、それも眠っている無防備な乙女の寝室に、踏み込む。
 それは醜聞につながる行為だ。
 人の口には戸が立てられない。
 ソウヨウはマジマジとモウキンを見た。
「ですが……」
 ソウヨウは呟いた。
「大丈夫ですよ。
 それとも、何か含むところがあるんですか?
 チラッと顔を見てくるだけです」
 モウキンは笑い飛ばす。
「……。
 ああ、そうですね」
 ホッとしたようにソウヨウは言った。
 しばらくぼんやりした後、ソウヨウは立ち上がった。
「少し、顔を見てきます。
 もし帰りが遅かったら、迎えに来てください」
 ソウヨウはいつものように微笑んだ。
 部屋を出た足取りはしっかりしたものだった。



 とても簡単にソウヨウはホウチョウの寝室に入り込めた。
 考えてみれば、この城の城主はソウヨウで、ホウチョウはその賓客と言う扱いなのだ。
 ソウヨウは足音を立てないように気をつけて、紗の下がった寝台に近づく。
 寝顔が見られれば充分なのだ。
 そしたら、自分は書斎に戻るのだから。
 彼女の眠りを妨げないように、きっちり気配を殺して。
 ソウヨウは紗をそっと開ける。
 錦の布団にくるまれて、少女は横たわっている。
 赤茶色の髪が寝台に広がっている。それはずいぶん長さで彼女の膝まで届くのではないだろうか。
 ソウヨウがそんなことを思っていると、繊細な睫毛がわななき、赤瑪瑙の瞳が開いた。
 大きな瞳がソウヨウを捕らえた。
 ソウヨウは激しく動揺した。
 完全に気配は殺したはずだった。
 それなのに、何故彼女は気がついたのだろう。
 早く何か言い訳を口にして、ここから立ち去らなければならない。
 非常にこの状況はまずい。
 ホウチョウはすっと体を起こす。
 絹のように艶やかな髪がそれに従い、美しいうねりを描く。
 白い寝着の上にも、その細い首にも、赤みの強い髪がこぼれる。
 それがあまりにも美しかったから、ソウヨウは見とれた。
 彼が言い訳を考えるよりも先に、ホウチョウは微笑んで
「シャオ」
 と、変わらぬ声で呼んだ。
「はい、姫」
 条件反射のごとく、ソウヨウはニコニコと返事をした。
 してから、内心後悔の嵐だった。
 どうしよう!?
 軍略の奇才、チョウリョウの未来の英知と讃えられる頭脳は、混乱をきたした。
 南城の白厳の君は、まだまだ世慣れていない若者だったということだ。
 ホウチョウの手が伸びてきて、ソウヨウの頬を撫でる。
 しっとりとした、柔らかさに、ソウヨウは眩暈を覚えた。
「夢じゃないよね」
 切なげにホウチョウは呟く。
「はい、夢じゃありません」
 ソウヨウはホウチョウの手に、己のそれを重ねる。
 ホウチョウは本当に嬉しそうに笑った。
「良かった」
 清らかな乙女のささやきに、ソウヨウは完全にとろけてしまった。
 難しいことを考えることをやめてしまったのだ。
 それは、幼い頃と同じ、幸せなことだった。
 彼女の前では、どんなしがらみも溶けてしまう。
 幸福感にソウヨウは微笑んだ。
「私、ずっとシャオに逢いたかったの。
 逢ってたくさんお話をしたかったの」
 ホウチョウはささやく。
 その声をいつまでも聴いていたい、もっと聴きたい。
「はい」
 ソウヨウはうなずく。
「シャオがいなくて、ずっと。
 ……寂しかった」
 甘いささやき。
 胸を打つような、切なさ。
 過去を思い出したのか、伏せがちになった瞳が翳る。
 ソウヨウの胸がちくりと痛んだ。
 いつでも幸せに微笑んでいて欲しいと願う相手だけに、その表情を見るのは心苦しかった。
「もう、どこにも行っちゃダメよ。
 ずっと、一緒にいて」
 その願いは砂糖菓子のように甘かった。
「はい、姫」
 幼い頃そのままにソウヨウはうなずいた。
 ホウチョウはパッと顔を上げた。
「絶対よ」
「はい、絶対です」
「シャオが嫌だって思っても、ずっと一緒にいなきゃダメなのよ」
 ホウチョウは念を押す。
「はい。
 姫が飽きるまで一緒にいます」
 ソウヨウはニコニコ笑う。
「お兄様に反対されても?」
「はい、もちろんです。
 私は姫のものなんですから」
 幼い頃のやり取りそのままに、ソウヨウは言う。
 彼の精神は完全に子どもの頃、あのシキョ城にいた頃に戻っていた。
 だからといって、彼に非がないとは言えない。
「ずっと、一緒よ」
「はい」
「絶対よ」
 何度ソウヨウに返事をさせても、不安になるらしく再度ホウチョウは言う。
「絶対です」
 子どもの頃も、そうだった。
 約束をするときは、何度も念を押す。
 ソウヨウはうなずいた。
「じゃあ、約束の証」
 ホウチョウはソウヨウの肩に空いている方の手を置いた。
「?」
 そして……。
 ソウヨウは左頬に柔らかな感触を感じた。
 それはとても一瞬で、かすかであったが、……はっきりとしていた。
 ソウヨウは赤面した。
「ちゃんとしたのは、羽を交わすまではダメだってお母様が言ってたから」
 ホウチョウは無邪気に笑う。
 緑がかった茶色の瞳は動揺もあらわだった。
「それだけじゃ、お約束に足りない?」
 ホウチョウは小首をかしげる。
 慌てて、ソウヨウは首をぶんぶんと横に振る。
「約束ね」
 ホウチョウは嬉しそうに言った。
「はい」
 ソウヨウは赤面したままうなずいた。
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