第四十三章

 生きた心地がしないまま迎えた朝。
 メイワが連れられてきたのは、南城であった。
 対ギョクカンの最前線の砦。
 皇帝の信頼篤き将軍が城主を務める、南の要だ。
 馬足は緩むことなく、堅固な城の門をくぐった。
 青年はそのまま、院子を抜け、外宮の最深部まで馬を走らせる。
 それはとても異例なことで、メイワは驚愕した。
 ごく一般的に、乗馬したまま門をくぐるのは禁じられている。
 あと数歩で、室内に入るというところで、馬は止まった。
 青年は先に降りると、メイワを見上げて笑った。
「大丈夫ですか?」
 差し出された手を掴んで、メイワは馬から降りる。
「ここは、南城ですよね」
 メイワは青年を仰ぐ。
「はい。
 どうぞ、こちらに」
 誠実に見える鳶色の瞳がうなずく。
 院子から、回廊に登る。
 すると、まだ夜が明けきらぬというのに、下男がまろぶように走ってきて、青年に額づく。
「将軍は、どちらに?」
 青年が問う。
「奥にいらっしゃいます」
 平伏したまま、下男は答えた。
「ありがとうございます」
 青年は下男に、わざわざ礼を言う。
 メイワは青年に得体の知れないものを感じた。
 一体、どういう身分なのだろうか。
「さあ、行きましょう」
 そう言われれば、ついていくしかない。
 案内もなしに、青年は複雑な宮の中を迷うことなく進む。
 やがて、こざっぱりとして、気持ちの良い建物にたどり着く。
 小さな建物だが、そこに到るまでの道が素晴らしい。
 美しい草花がまるで絵画のように植えられており、道は色石がびっしりと隙間なく敷きこまれている。
 一かな無駄なものはなく、計算された美が存在していた。
 メイワは、ただただ感動した。
 これを造った人も素晴らしいが、維持していくのも並大抵の努力ではない。
「メイワ!」
 明るい声に呼ばれ、メイワは驚いて振り返る。
 鮮やかに咲く花薔薇。
 秋が深いので、色はみな紅がかっている。
 そこに立つのは、間違いなく百花の女王。
 赤みの強い髪に白い花薔薇を挿し、自身も雪のような白と柔らかな薔薇色の衣を取り合わせてまとっていた。
「姫!」
 想像していたよりも元気な姿に、メイワの涙腺が緩む。
 ホウチョウは裳裾を揺らし、メイワに走りより、腕を投げ出して抱きついた。
 その子どもっぽいしぐさに、メイワは思わず笑む。
「ご無事で……」
 言葉が詰まって上手く出てこなかった。
 一日で色々なことがありすぎて、メイワの心はくたくたになっていたのだ。
 それでも、大切な姫に再会できて、メイワは歓喜していた。
「メイワのことが心配だったの。
 すぐに来るって、シャオが言っていたんだけど、それでも」
 ホウチョウは嬉しそうに涙ぐむ。
 メイワは遠慮がちに道の向こうで佇む若者を見つける。
 海老色と青褐の衣を品良く身にまとい、柔和な微笑を浮かべていた。
 樫の木色の頭髪と、何よりも曖昧な色の瞳に見覚えがあった。
 視線に気がついたのか、若者は慇懃に拱手する。
「シャオ!」
 ふと若者の存在を思い出し、ホウチョウは微笑む。
「はい、姫」
 若者は、幸せそうに返事をした。
 低すぎず、清涼感があり、良く通る声でいながら、甘さがあった。
 裾をさばき歩いてくるさまは、宮廷でもなかなか見られないほど典雅であった。
「あまり手段を選んでいる暇がなかったとは言え、いささか乱暴な方法を取り、申し訳ございませんでした」
 南城の白厳の君は、にこりと微笑み言った。
「いえ、こうして姫と再会できましたし、かまいませんわ」
 メイワは言った。
 一連の事柄は、計略の奇才の策の内。
 わかってしまえば呆気ない。
「メイワ殿には多大なご心労をおかけしたかと思うと。
 宮殿のようにとはいきませんが、ごゆるりとお休みください。
 すぐさま、陛下の元へ帰して差し上げたいのですが、あまり情勢が芳しくないものですから」
 そう言いながら、自信にあふれていた。
 ギョクカンに負ける気が全くないのだろう。
「どうぞ、あちらをお使いください。
 必要なものは、取り揃えましたが、なにぶん男所帯。気が回る者が少なく、足りない物があれば、遠慮なさらずお申し付けください」
 若者は建物を指し示す。
 小さいながら宮を一つとは、破格の扱いにメイワは息を呑む。
「本来ならば、申し開きの一つでもするのですが……」
 そう言って、曖昧な色の瞳は青年を見る。
 青年は拱手する。
「ごくろうでした」
 城主は労いの言葉をかける。
「風呼殿から、言い付かってきました」
 そう言うと、青年は破顔した。
「?
 何でしょう」
 鷹揚にソウヨウは微笑む。
「ふざけんな!
 だ、そうです」
「元気が有り余っているようですね。
 仕方がありません。
 カクエキには、一人で頑張っていただきましょう。
 ユウシには、他の策を授けます。
 適任が他にもいたんですが、うっかり腕を折ってくれたので、しばらく使い物になりません」
 ためいき混じりに若き将軍は言った。
 事情を知らないメイワは、采配する姿に一角の武将を見出したのだが、事情をよく知るユウシは苦笑を浮かべた。
「シャオ、もう行ってしまうの?」
 メイワにぺたりと張り付いていたホウチョウが不安げに問う。
 ソウヨウを包む空気がふわりと和む。
「すぐに、戻ってきます」
 子どもをあやすように、ソウヨウはかがんで視線を合わす。
 ごねると思っていた少女は、大人しくコクンとうなずいた。
「いってらっしゃい」
 ホウチョウは微笑んだ。
「はい」
 ソウヨウは本当に嬉しそうに笑った。
 二人の武将は、拱手をすると足早に立ち去った。
 それを見て、メイワは戦いが始まったばかりだということを思い出した。
「とても、キレイなお部屋なのよ」
 ホウチョウはメイワの手を掴むと歩き出した。
「それはよろしゅうございましたわね」
 メイワは笑顔をどうにか浮かべた。

 部屋に入り、先ほどの若者の言葉が謙遜であったことを思い知らされる。
 キレイどころではない。
 贅を尽くした室内。それも、都のように金をかけたことをひけらかさない、良質な贅沢だ。
 見る目のある者にしかわからない、こだわりのある品々。
 卓の上に生けられた花一つとっても、素晴らしい。
 玻璃の小さな杯に、たった一輪白い花薔薇。
 咲き初めのその花は、この部屋の主となったホウチョウに大変良く似合う。
 つまりはそういう部屋なのだ。
 ホウチョウがここにいて、初めて完成する美。
 ここまで計算され、構築された美を、メイワは初めて見た。
「ね、キレイでしょう?」
 ホウチョウは笑う。
 メイワは言葉なく、それにうなずいた。
「失礼いたします」
 隣の部屋に控えていたのだろうか、糊の利いたお仕着せの服を身につけた侍女が盆を抱えてきた。
「どうぞ」
 卓の上に、小さな皿を幾つか並べる。
 海の幸に、山の幸、滋養のあるものが見た目にも可愛らしく、少しずつ盛られていた。
 小さな碗には粥が盛られ、茶碗には甘い香りがする茶が注がれる。
 箸を二膳置くと、侍女は頭を垂れ、退がる。
「美味しそう」
 ホウチョウの瞳がキラキラ輝く。
 メイワは湯気の立つ食べ物を見て、自分が長いこと物を食べていないことに気がついた。
 胃がきゅーっとしまり、存在を訴える。
 ホウチョウはいそいそと卓につき、箸を手に取った。
 立ち尽くしているメイワに気がつき
「メイワはお腹がすいていないの?」
 きょとんと訊いた。
「私はいただくわけにはいきません」
 メイワは言った。
 侍女が主とともに食事をするのは、礼儀に反する。
 身分の違う者は同じ卓にはついてはいけないのだ。
「でも、お箸は二膳あるわ。
 多分、メイワの分も含めて、こんなにお皿があるんだと思うんだけど。
 私、一人じゃ食べきらないし」
 ホウチョウは言った。
「ですが」
「せっかくのご飯が冷めちゃうわよ。
 礼儀にうるさい女官長はいないんだから、ちょっとぐらい平気よ。
 それに、メイワは奥侍女でしょ。
 その辺の侍女とは身分が違うんだし、私が許すと言ってるんだから、大丈夫よ」
 ホウチョウは箸を持ったまま言う。
 その主の様子を見て、メイワは諦めた。
 ここで押し問答をしても無駄だ。
 メイワが何か口にするまで、ホウチョウは何も食べないだろう。
 正直、お腹はすいているのだから、この際礼儀は無視する。
 自分自身に言い訳しながら、メイワは卓につく。
「では、ご相伴いたします」
 メイワは箸を取り、その趣味の良さに感嘆した。
「本当に趣味の良い方が、ここを整えたのですね」
 並べられた皿を見ても、その上に載る料理を見ても、宮廷で目にする物と変わりがない。
 いや、それよりも、良質で、洗練されていた。
 ……ここはチョウリョウの最前線の砦なのよね。
 常に戦火に晒されているとは思えない、贅の極みだ。
 そして、心配り。
 卓に並べられたものは、疲労回復の薬膳。
 味はそれとは感じさせないほど、美味だった。
 食の細い姫が、いつもよりも箸をつけているのを見て、メイワは複雑な気分になった。

 半刻ほどかけ、ゆっくりと食事を取った。
 皿を下げたのとは別の侍女が黒塗りの箱を静々と運んできた。
 中を検めてみると、女物の衣裳と装身具の一揃え。
「伯俊様から、メイワ様に贈り物でございます」
 持ってきた侍女が告げた。
 聞き慣れない名前に、メイワは困惑する。
「伯俊様?」
 メイワは聞き返す。
「はい。
 こちらを整えた方でございます。
 公主様並びにそれを仕える方々が快適に過ごせるようにと、城主様から直々に家令役を申し付かった方です」
 侍女は説明した。
「はぁ」
 メイワは室内を見渡し、趣味の良い、立派な壮年の男性を思い浮かべた。
「湯殿の準備も整っております。
 いつまでも妙齢の女性が、埃にまみれているのは哀れだ、とのことでございます」
 侍女の言葉に、メイワは実直で古風な人物だと心の中でつけたした。
「私なら、一人でも平気よ」
 食後のお茶をくぴくぴと飲みながら、ホウチョウが言った。
「すぐ側に、私たちも控えております」
 給仕をしていた侍女も言う。
「ぜひ。
 そうでなければ、伯俊様から私たちがお叱りを受けてしまいます」
 そこまで言われると、断りようがなくメイワは申し出を受けることになった。

 なし崩しに、贅沢をしているような気がする。
 メイワは思った。
 湯殿には、色とりどりの花びらが浮かび、温かな芳香が漂っていた。
 シキョ城に登って、はや十二年。
 ここまで、贅沢をしたことがなかった。
 実家にいた頃ならまだしも、一介の侍女の待遇ではない。
 お礼も兼ねて、伯俊という人物に会い、待遇を改めてもらわなければ。
 メイワは堅く決意した。
 その決意は、入浴後、衣を身につける段になり、増したことは言うまでもない。
 用意された衣を見て、メイワは眩暈を感じた。
 極上の絹だった。
 それこそ、公主が着るような、特級品だった。
 色は薄紅と勿忘草。
 自分が着るときには絶対選ばないような、明るく柔らかな取り合わせ。
 一言で言えば、いい歳して恥ずかしくて着れない。
 童女と呼ばれる時分の頃なら、誰でも似合うであろう。
 そんな組み合わせだった。
 しかし、これしか着るものがないので、着るしかない。
 メイワが先ほどまで着ていた服は、とっくのとうに片付けられてしまっている。
 しぶしぶ、最高級の手触りの衣に袖を通す。
 浅ましいもので、頬が緩む。
 着飾ることは、女性であれば嫌な気がしないものだ。
 一揃えの装身具は、身につけるのがためらわれる。
 質もさることながら、名工の腕による物だと一目でわかる。
 簪は銀で薄紅珊瑚が桃の花を模していた。
 桃の花は碧桃で、花びら一枚一枚が繊細に重ねあわされていた。
 淡水の小粒の真珠がそれを飾り立てる。
 耳墜はそれを受けて大粒の真珠を宿した薄紅珊瑚の花。
 メイワはためいきをついた。
 チョウリョウは海から程遠い。
 そのため、海洋のものは値千金とも、金の目方の十倍の取引がなされるとも言われる。
 真珠も珊瑚も、小指の爪ほどの大きさで、玉の簪が揃えられる。
 それを惜しみもなく使った装飾品に、感嘆するばかりだ。
 いつまでも出てこないメイワにいぶかしんだ侍女がやってきて、メイワを着付けてしまう。
 メイワが礼を言いたいから、伯俊様に会わせて欲しいと頼むと、すぐさま案内された。
 取次ぎをすっ飛ばすのが、ここの礼儀らしい。
 宮廷では絶対ありえないことだ。

「駄目だ。
 これ以上は出せない」
「そこを何とか。
 こっちだって、生活がかかってるんですよ」
「高すぎる」
「充分、負けさせていただきましたよ」
「これなら、流れの商人から買った方が安い」
「まさか。
 これが適正ってもんです」
「それじゃあ、この話はなかったな」
「そんなぁ」
 廊下には若い男と、年配の男の声が響いていた。
 出入りの商人とこの城の仕入れ担当の者の交渉の声だろうか。
 威勢が良すぎて、筒抜けだ。
 メイワが目を瞬かせていると、先を行く侍女がクスクスと笑い声を漏らす。
「この城ではよく見る光景です。
 これから、毎日のように見られますよ」
 侍女は立ち止まり、声を潜めて教えてくれた。
「毎日、その……値切ってらっしゃるの?」
 メイワは訊いた。
「ええ。
 ここは最前線ということもあって、他よりも二割から三割ほど物価が高くなってしまうんです」
「それは大変ですね」
 メイワは同情した。
 台所を預かるようなことはなかったが、他よりも物の値が高いのは、大変なことだと思われた。
「そこはそれ。
 交渉上手な方がいらっしゃいますから」
「みたいですね」
 メイワはうなずいた。
 若い男はどうやら、最初の言い値の半分まで負けさせてしまったようだ。
 それでも、なお交渉が続いているのだから、いくらまで値を下げるつもりなのだろうか。
「あの方は三分の一まで値切ってしまうのですよ」
 侍女は得意げに話す。
「まあ、そんなに?」
 メイワは驚く。
「少し、聞いてみますか?
 多分、私たちが来たら、交渉は打ち切ってしまうでしょうから」
 侍女に訊かれ、興味もあったのでメイワはうなずいた。
 それから、ほんの少しの時間。
 手早く茶を一杯飲み干すぐらいほどの時間。
 値は確かに三分の一まで下がり、交渉は終わった。
 その手際の良さに驚きながら、だからこそこれほどの贅沢ができるのかとうなずけた。
「では行きましょうか」
 侍女とともに廊下を進む。
 角を曲がると、広間と呼ぶには手狭な空間。
 そこには雑多な品物が所狭しと積まれていた。
 布や、食料といったものから、武器まで。
 その部屋の中央に若い男が立っていた。
 梔子色と紫紺という難しい色を難なく着こなし、それが気張っていない華のある男性だった。
 長めの黒髪が背に無造作に垂らされていて、女性ではないのに艶めいて見えた。
 背も高く、すらりとした体躯で、惜しむべきところがあるとすれば、その右腕を布で吊っているところだ。
 十人女性がいたら、十人とも見蕩れてしまう容貌の美丈夫だった。
 メイワも例外なく、目を奪われた。
「伯俊様、メイワ様をお連れしました」
 侍女の言葉に、メイワは自分の思い違いに恥じた。
 まだ二十を越えたかどうかという歳だったなんて。
 ずいぶんと失礼なことを……。
 メイワはうつむいた。
「ずいぶんと、その、良くしていただきありがとうございます。
 姫も気に入っておりまして、私もその趣味の良さに感服するばかりでございます。
 一先ず、お礼を言いに参りました」
 メイワは丁寧に礼をした。
「それで、大変心苦しいのですが。
 私のように、身分がよろしくない者が、ひとたび贅沢を覚えますと堕落いたしかねますので。
 私を他の侍女の方と同じように扱っていただきたいと、僭越ながらお願いをしに参りました。
 伯俊様のご好意は大変嬉しく思うのですが、なにぶん貧しい質ですから、身に余るばかりで」
 そこまで言って、相手の反応がおかしかったのでメイワは顔を上げた。
 普通、何かしらの言葉がかかるはずだが、無言で、それはメイワの話を聞いてる風でもなかったので、つい顔を上げてしまった。
 綺麗な茶色の瞳と出会う。
 その輝きが純粋であったため、メイワの心臓が飛び跳ねた。
「伯俊様、何かおっしゃらないと。
 メイワ様が困っていらっしゃいます」
 侍女が気を利かして、男をせっつく。
「美しい……」
 伯俊は呟いた。
「え?」
 聞き間違いかと思って、メイワは訊き返してしまった。
「良く……お似合いだ」
 間違いなく伯俊はそう言った。
 メイワは困った。
 今日、何度目になるかわからないが。
 困ってしまった。
 案内役の侍女もこの展開には呆気に取られていた。
 が、それではこの城で侍女は務まらない。
「メイワ様。
 ちょっと伯俊様、使い物にならなくなってしまったので、今日のところはありがたく受け取ってください」
 この城の主にも似た強引な発言で、侍女はこの場を納めた。
 メイワは困惑しながらうなずいた。

 メイワ自身の部屋だという、かなり広い部屋に通される。
 寝台を見た途端に、睡魔に襲われる。
 無自覚に頑張りすぎていたらしい。
 侍女の勧めもあって、今日一日は好意に甘えてしまうことにした。
 色々ありすぎて、疲れていたのだ。
 メイワは瞳を閉じると、夢も見ない深い眠りに誘われた。
 長い夜は、すっかり明けていた。
並木空のバインダーへ > 前へ > 「鳥夢」目次へ > 続きへ