第四十六章

 チョウリョウの南の大地は、春を迎えた。
 新しい年の、新しい春。
 全ての始まりに相応しく、戦場にも華やかな春が来た。
 それを最も喜んだのは、胡蝶の君。
 蝶に花は欠かせない。
 春は長い眠りから目覚めて、花々が咲く季節。


 短い冬が明け、新春の花が咲きそろう院子を初々しい恋人たちは歩く。
 昼すぎの、柔らかな光の中を、のんびりと。
 ソウヨウは、傍らで笑う乙女を盗み見して、唇に笑みを刷く。
「もうすっかり春ね。
 梅に、蝋梅(ろうばい)、水仙に、寒桜、それと椿」
 ホウチョウは、咲く花を数える。
 その声は喜びであふれている。
 耳で柔らかに響く。
 それがソウヨウにとって、とても嬉しい。
「年明けて、こんなに花が咲くなんて。
 碧桃(へきとう)もすぐ咲くかしら?」
「ええ。
 都よりも、早く咲くでしょうね。
 碧桃に、何か思い入れが?」
 ソウヨウは問う。
 碧桃は春が盛りの花。
 その前に木蓮、連翹(れんぎょう)、辛夷(こぶし)、菫、桜が花開く。
 肌寒さが一掃される頃、ようやく碧桃は咲く。
 いくら、シキボが暖かいとはいえ、まだ一月は先の話だ。
「私じゃなくて、メイワが好きなの。
 だから、一番に教えてあげたいじゃない?」
 ホウチョウはニコニコと言う。
「ああ、なるほど」
「碧桃は、どこの辺りにあるの?
 この院子にはないみたいだけれど」
 ホウチョウは尋ねる。
「さあ?」
 ソウヨウは小首をかしげた。
 自分の城とはいえ、あまり花に詳しくないのだ。
 花が開けばその名前を思い出すのだが、蕾が固い時期に幹を見て、名を思い出すのは至難の業。
 南城は、皇帝陛下の趣味もあって、五年前に大掛かりな造園をしている。
 複数ある院子のどこに、それが咲いているのか。
 全くわからなかった。
 だが、輝くばかりの笑顔を曇らせるのは、忍びなく。
 ソウヨウは必死に考え、春先の恒例になっている事柄を思い出した。
「私にはどこに碧桃が咲いているかわかりませんが、どれが碧桃か判断する方法を知っています。
 姫にもすぐわかる方法ですよ」
「まあ。
 どんな方法なの?」
 ホウチョウは興味津々に訊いた。
「シュウエイを知っていますよね」
「ええ。
 背の高い、スラリとした男性でしょう。
 とっても、趣味の良い方だって、みんなが話してる」
「ええ、馬鹿なことをして腕を怪我した人物です」
 ホウチョウ自身が褒めたわけではないとわかっているが、彼女の唇が褒め言葉を紡いだことが許せず、ソウヨウは少々きつい物言いをした。
「馬鹿なこと?」
 ホウチョウはきょとんとした。
「その話は、後でまた。
 シュウエイが花をつけていない木の下で、ぼんやり立っていたら、それが碧桃です」
「伯俊も、メイワと同じように碧桃が好きなのかしら?」
「さあ?
 花自体はかなり好きみたいですが。
 城の全部の花瓶は、彼の管轄ですから。
 何でも、ここに来たばかりの頃、部屋に活けてあった花の枝振りが気に入らないと、あの鳳様に食ってかかったそうですよ」
 ソウヨウはクスクスと笑う。
「お兄様に?」
 ホウチョウは驚く。
「ええ。
 それで、シュウエイはこの城の花を許可なく、摘んで良いことになったんです。
 私が城主を務めるようになってからは、城中の花瓶の花は、みんなシュウエイが管理してます」
「毎日、花摘みをしてるのかしら?」
 ホウチョウの言葉に、ソウヨウは失笑した。
 彼が毎日花摘みをしていたら、カクエキ辺りが指を指して大笑いするだろう。
 それを想像するだけでおかしい。
「まさか。
 シュウエイが指導した女官が花を摘んでいるんですよ。
 彼だって、たまには戦場に行きますから」
「……伯俊って武将だったの?」
 ホウチョウは目を瞬かせる。
「そうですよ」
「知らなかったわ。
 てっきり、文官かと思っていたわ。
 だって、剣を持っていないんですもの」
「今は、怪我をしていますからね」
 怪我をさせた張本人はニコニコと言う。
「そう言われればそうね。
 じゃあ、伯俊が見上げている木が碧桃なのね」
「最初の一輪がほころんだら、一枝差し上げましょう」
「いいわ。
 メイワが好きなんだもの。
 どこに咲くか、教えてあげるだけで良いの。
 あ、でも。
 その枝を、もしメイワが欲しいと言ったら、折ってもかまわない?」
 ホウチョウは不安そうに、ソウヨウを見上げた。
「ええ、もちろんです」
 ソウヨウはうなずいた。
「ありがとう、シャオ!」
 ホウチョウはソウヨウに抱きついた。
 ソウヨウの心臓がドキッとする。
 院子の花とは違う、甘い香りが鼻腔をくすぐる。
 数枚の衣を通してもわかる、柔らかな感触。
 自分とは違う、体温。
 そんなものがないまぜとなり、ソウヨウを刺激する。
 心の片隅にかすかに残る良心に叱咤して、ソウヨウは抱きしめ返したいという欲求に、ぎりぎりの攻防を繰り返す。
 新年明けて、十八になった。
 妻を娶り、子どもの一人でもいてもおかしくはない歳になったのだ。
 いつまでも、幼い振る舞いは許されない。
 童心にかえりました、なんて言い訳にもならない。
 そんなことはわかっている。
 けれども、この甘い誘惑に打ち勝つのは、なかなか骨の折れる作業であった。
 明るい髪の色は、彼のものとは違い、サラサラとして、さわったらとても柔らかそうに見えた。
 さわりたい、という欲求が高まってくる。
 ソウヨウは無理やり目を逸らした。
 目に入らなければ、少しは変わるかと思ったのだ。
 結果は、果々しくなかった。
「シャオ?」
 ごく傍で、澄んだ声が呼ぶ。
 子どもの頃とは、何もかもが違うというのに。
 その声は変わらず、彼を呼ぶのだ。
 もう子どもではないのだから、こんな人目につきやすい場所で、軽はずみな行いをしてはいけない。
 それは彼女の名誉を傷つける行為だ。
 だが、しかし。
 遠い昔、そうであったように、理性は感情に打ち砕かれてしまった。
 ソウヨウはぎゅっと華奢な体を抱きしめた。
 花薔薇の花束のようだ、と思った。
 甘い香りに理性が溶けていくのを感じた。
 細い肩は一瞬震えたが、それだけで、何の抵抗も見せなかった。
 すとんと、体に重荷が加わる。
 それはとても心地が良く、自然だった。
 ソウヨウは満ち足りたためいきをついた。
 幸せだと思った。
 これが夢じゃなくて良かった、と。


 季節は春を迎えた。
 それは蝶が花を求める季節。
 鳥が恋の歌をさえずる季節。
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