第四十九章

 この城に来て以来、笑顔が絶えることなかった乙女の顔が曇っていた。
 日に日に輝いていく季節。
 花が咲き、鳥が歌う季節なのに、ホウチョウは沈んでいた。
 彼女が愛する日差しを浴びに、外に出ず、室内でぼんやりとしていた。
 かつて、シキョ城でそうしていたように、玻璃の窓の側まで椅子を引いてきて、そこで人形のように大人しく座っている。
 刺繍をするでもなく、書を読むのでもない。
 ただ、座っていた。
 極上の赤瑪瑙の瞳が、泣き出しそうな光を湛えていた。
 その姿に、侍女たちも心を痛めていた。
 メイワもまた、ためいきを零す。
「姫、お茶です」
 窓の外ばかり気にする乙女に、メイワは茶碗を差し出す。
 やっと、ホウチョウはこちらを向いた。
 瞳はすがりつくような、怯えるような色。
 膝の上にきちんと置かれている指先が、かすかに震えていた。
「どうぞ」
 メイワは穏やかに笑う。
「メイワ……」
 何か言いたげであった唇は、名を呼んだきり、閉ざされる。
 迷って、結局……言葉にならない。
「どうかなさったんですか?」
 メイワは優しく問う。
「変じゃない?
 最近、このお城」
 その声は震えていた。
 泣き出す直前か、叫ぶ寸前のように。
「嫌な感じがする」
 ホウチョウは呟いた。
 床に目線を落とす。
 予感がする。
 それも、良くない予感だ。
 それに、ホウチョウは怯えているのだ。
 本当に僅かな差異を暴きだし、真実を見つけ出してしまったのだ。
 ピンと張った空気、慌しい足音。
 それらが、彼女を追い詰める。
 ホウチョウはぎゅっと瞳をつぶった。
 そうしていれば、何もわからずにすむというように。
 吸い込んだ息を吐き出すことができない。
 それがたちまち、悲鳴になることがわかっているからだ。
 ホウチョウは不安に耐える。
 身を硬くして、時間が通り過ぎていくのを待っていた。
 それにも、限界がある。
 彼女は人一倍、感受性に富んでいるのだ。
 不安で心がいっぱいになり、決壊しようとしたときだった。

「姫」

 暖かな春のような空気だった。
 清涼感のあるハキハキとした声が降ってきた。
 ホウチョウの魂が喜びの音楽を奏でる。
 息がすっと吐き出せた。
 赤瑪瑙の瞳が、そろそろと声の主を探す。
「ご加減が優れないとか」
 ホウチョウの目線に合わせるように、ソウヨウはひざまずいた。
「大丈夫ですか?」
 緑とも茶色ともつかない綺麗な瞳が、穏やかなにホウチョウを見つめていた。
「シャオ」
 ホウチョウは腕を伸ばし、抱きついた。
 傍にいてくれることが嬉しくて、ここにいることが嬉しくて、彼女は青年の首に腕を回す。
 驚きながら、ソウヨウは受け止める。
 床に座り込む形で、抱きしめる。
「姫、もう大丈夫ですよ」
 耳元で優しいささやき。
 それでも、胸騒ぎは消えない。
 離れてしまったら、二度と逢えないような気がして、ホウチョウはぴったりとソウヨウにくっつく。
 ソウヨウは泣く子どもをあやすように、その背を撫でる。
「シャオ。
 ずっと、一緒よ。
 勝手に、どっかに行ったりしないでね」
 ホウチョウは呟いた。
「はい、姫」
 ソウヨウはうなずいた。
 約束しても、安心できない。
 ホウチョウの本能は、その約束がすぐに反故にされることを知っているからだ。
 ほんのりと爪紅が施された指先が、銅緑色の衣をきゅっと掴む。
 今ここに彼がいる安堵感と、近い未来に離れ離れになる予感で、ホウチョウの心は嵐のように揺さぶられていた。
「どこにも行かないで」
 ホウチョウはささやいた。
 それは、切なく、甘い響きを伴っていた。
「はい、もちろんです」
 ソウヨウは答えた。
 ホウチョウは腕の力を緩めて、ソウヨウの顔を見る。
「どっかに行っても、必ず帰ってきてね」
 お願いをする。
「必ず、姫のところに帰ってきます」
 ソウヨウは真剣な面持ちでうなずいた。
 今は、それで安心するしかない。
 これ以上の約束はできないし、未来のことは一部の人にしかわからないのだ。
 わかっているのと、納得できるまでの間には、深い隔たりがある。
 ホウチョウの心は、不安でふるえていた。
 瞳から、自然に涙が滑り落ちる。
「もっと、確かな約束ができればいいのに」
 淡く色づいた唇から、零れた言の葉。
「シャオと離れ離れにならないですむような。
 誰にも邪魔をされないような……約束ができればいいのに」
 ホウチョウはささやいた。
 偽らざる本音だ。
 泣き濡れた瞳が青年を射抜く。
 ソウヨウは赤面して、うつむいた。
「もし、離れ離れになったとしても。
 必ず、戻ってきます。
 ずっと、姫と一緒にいます」
 ソウヨウは下を向いたまま言う。
「約束よ」
 そんな約束をいくら交わしても、意味がないことは知っている。
「はい。
 約束です」
 ソウヨウは顔を上げた。
 言葉だけの約束をいくつ並べてみても、何の力も持たない。
 それでも、何もないよりはましだと、約束を増やしていく。
 そのことが、とても悲しかった。
 そんなことしかできない自分の無力さが、引き止めることのできないちっぽけな自分が、悲しかった。
 すべらかな白い頬に、涙が伝う。
「姫」
 ソウヨウの手がホウチョウの頬にふれる。
 自分とは違う、ひんやりとした手。
 ちっとも、嫌な感じがしない。
「泣かないでください」
 困ったようにソウヨウは笑う。
 そのお願いは聞けない。
 泣きたくないのに、悲しみがとめどなくあふれてきて、涙が止まらないのだ。
 ソウヨウは優しく頬を撫でる。
 飾りげのない翡翠の耳墜まで顔を寄せると、
「鳳蝶」
 深く甘くささやいた。
 そのささやきに乙女の心臓は早鐘を鳴らす。
 赤瑪瑙の瞳は見開かれる。
「涙、止まったようですね」
 ソウヨウはいつもと変わらぬ微笑を浮かべた。
「びっくりしたからだわ」
 ホウチョウは言った。
 不安も恐怖も一掃されてしまい、至福だけが心を占めていた。
「だって、シャオが……呼ぶなんて。
 初めてだから、驚いたの」
 呆然と、乙女は呟く。
「そうそう、口にして良いものではありませんからね」
「そうね。
 うん。
 あ、シャオも呼ばれると嬉しい?」
 思いついたことを言ってみる。
「さあ。
 けっこう、鳳様に呼び捨てにされてますからね。
 あまり、驚かないかもしれませんよ」
 ソウヨウは穏やかに言う。
「そうなの?
 じゃあ、もう一つの名前は?」
「それは、もう自分の名前のような気がしないんですよね。
 ソウヨウの方がしっくりと。
 あ」
 ソウヨウはしまったと言う顔をする。
「どうしたの? シャオ」
「迂闊でした。
 こちらの方は、教えていませんでした。
 手を貸していただけませんか?」
 ソウヨウの言葉に、ホウチョウは右手を出す。
 赤瑪瑙の瞳は不思議そうに青年を見る。
「よく視ていてくださいね」
 そう言うと、ソウヨウは手の平に一字書く。
 『蒼』あおい、という意味。
 続いて、もう一字。
 『鷹』タカを意味する字。
 『蒼鷹』で白いタカ。
「こちらの真字は教えていませんでした」
 ソウヨウは言った。
 ホウチョウはマジマジと右手の平を見る。
「蒼鷹」
 試しに呟いてみる。
「はい」
 きちんと返ってくる返事に、ホウチョウは顔をほころばせる。
 嬉しい。
 ホウチョウは大切なものを包むように、手を握る。
「名前が二つあると大変ね」
 いつものように明るく笑う。
「すっかり失念していました」
 ソウヨウはすまなそうに言った。
「ずいぶん前に、名前を教えあったような気がしていたけど。
 ちゃんと、していなかったのね」
「申し訳ございません」
 ソウヨウは頭下げる。
「ううん、いいの。
 もう、知っているから。
 大丈夫。
 気にしないでね」
 心が軽くなった。
 不安が嘘のようだった。
 これなら、耐えられそうな気がしてきた。
「それより、もうすぐ大きな戦いがあるんでしょう?」
「どうして、それを」
 綺麗な色の瞳がホウチョウを見る。
「何となく、そうかなって。
 だから、怖かったの。
 シャオがいなくなってしまうような気がして」
 ホウチョウは微笑んだまま言った。
「無事に戻ってきます」
 ソウヨウの言葉に
「うん」
 ホウチョウはうなずいた。
 そして、違和感を覚えて辺りを見渡す。
 ようやく、気がつく。
「メイワたちは?」
 無邪気に訊いた。
「……気を利かして、ずいぶん前に退がりました。
 ご用なら、呼びましょうか?」
「ううん、用はないんだけど。
 ちっとも、気がつかなかったわ」
 無垢な乙女はにこやかに微笑んだ。
 それにつられて、その恋人も微笑んだ。
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