第五十章

 シキボは早い春を迎えた。
 碧桃の花がほころんだ。
 メイワは院子にただ独り、立っていた。
 春らしい陽気とは対照的に、その表情は沈んでいた。
 彼女らしくなく、その顔には笑顔がなかった。
 誰も、ここにいないためだ。
 独りだからこそ、浮かべた表情だった。
 チョウリョウの民にしては薄すぎる、黄味よりの瞳が桃の花を見る。
 黄玉石のような瞳が、懐かしい過去を思い出す。
 桃の花の下。
 メイワにはたった一つの思い出がある。
 時折、美しい思い出を取り出しては、珠のように磨いていた。
 いつか、嫁ぐ日を夢見ながら。
 せっせと磨いて、心の中で一等大切な記憶にしていた。
 だけれど……。
 これでよかった、と思う反面、寂しかった。
 自分は間違っていない。
 でも、ちょっと辛い。
 姫についてきたことは、自分が選んだのだから、それでかまわない。
 妹を薦めたのも自分だ。
 だから、それで良い。
 後悔とは少し、違う。
 今の自分はどこか誇らしい。
 人様に胸を張れる。
 でも、だけど……。
 今だけは、一人だから……泣いてもいいかしら?
 夢が溶けて消えてしまったことを、悲しんでもいいかしら?
 黄玉石の瞳に涙が浮かんだ。
 綺麗な思い出のために、叶うことなく消えてしまった夢のために。
 白い珠が頬を伝う。
 それはやっぱり碧桃の下で。
「ないしょにしてね。誰にも教えないでね」
 樹に向って語りかける。
 きっと、すぐまた笑えるから。
 ほんの少しの間だけ、泣かしてね。
 こんなことで泣いてしまう自分は、侍女失格だ。
 叶わなかった夢に、寂しいだなんて。
「!」
 人の気配に気がついて、メイワは振り返る。
 そこには伯俊が立っていた。
「みっともないところをお見せして申し訳ございません」
 メイワは慌てて袖で涙を拭う。
 そして、笑顔を作る。
「失礼いたしました」
 メイワは立ち去ろうとする。
 泣いていたところを見られるなんて。
 誰もが通るような場所だというのに。
 メイワは恥ずかしかった。
 しかし、立ち去ることは叶わなかった。
 袖を掴まれたのだ。
「……離していただけませんか?」
 悲鳴にも似た震える声で頼む。
 脳裏に鮮やかに蘇る思い出。
 だから、余計苦しかった。
「泣いて……いたのか」
 冬葉色の瞳が見つめる。
「もう、大丈夫ですわ。
 ほんの少し、感傷気味で。
 お気遣いありがとうございます」
 駄目押しのようにメイワは微笑む。
 早く、独りになりたかった。
 でないと、また泣いてしまいそうだった。
 泣く自分は、さぞや醜いことだろう。
 そんな姿を、誰にも見られたくなかった。
「私では……力不足だろうか?」
 真摯な眼差し。
 その手を振り払って、逃げ出したい。そう、思っているのに。
 そんな瞳を向けられると、その思いがとてもいけないような気がしてくる。
 メイワは困って、うつむく。
 そうしていると、また涙があふれてきそうで。
 どうしたらいいのか、わからなくなる。
 逃げ出すこともできず、かといって当たり障りのない話をすることもできずに。
「独りで、泣かないで欲しい」
 伯俊の声が降ってくる。
 それが、泣き出したい気持ちに拍車をかける。
 こらえきれない感情の波に、黄玉石の瞳から涙が零れた。
 メイワは耐え切れずに、伯俊にすがりついた。
 東南渡りの極上の伽羅の香りに包まれる。
 ためらいがちに抱きしめられ、メイワは声上げて泣いた。
 ずっと、こうしたかったのかもしれない。
 思い出を過去にするために、メイワは泣いた。
 碧桃の花の下で。
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