第五十三章

 戦いが始まる。
 南城の空気が変わった。
 新年を迎えてから穏やかな雰囲気であったのに、それが一掃された。
 物々しい出で立ちの男たち、きらめく白刃たち。
 メイワはここが最前線の砦であることを思い出した。
 ここはすでに戦場の一部であり、知り合いは皆武人なのだ。
 兵を率いて戦う立場にある者ばかり。
 それを忘れるほど、穏やかな春が続いていた。
 まどろみの時は終わり、南城は本来のあるべき姿を取り戻したに過ぎない。
 誰もに緊張を強いる空気の中、主の繊細な神経はさらにか細くなった。
 食事を厭(いと)うようになり、眠りも浅い。
 おかげで、ここ三日微熱が続いている。
 いくつもの心配でメイワはためいきをつきそうになる。
 それをグッと我慢する。
 メイワまで気落ちしては意味がないのだ。
 こういう時は、しっかりしていなければ。
 メイワは健気にも自分自身に言い聞かせる。
「メイワ殿」
 呼び止められて、反射的に笑顔を取り繕(つくろ)い振り返る。
 この城の城主がいた。
 城を歩く男たちとは対照的に、普段と変わらない姿である。
 腰に吊るした剣がなければ、うっかりと文官だと思い込んでしまいそうであった。
「姫のお加減はどうですか?」
 白厳の君は訊いた。
 メイワが建物の外に出た途端、声をかけられたところから考えるに、ずっとここで立っていたのだろう。
「神経の細い方ですから、ずいぶんと参っているようです」
 メイワは控えめに言った。
「そうですか……」
 城主は首をめぐらして、建物を見る。
 別段、特別な表情を浮かべていたわけではないが、寂しそうに見えた。
 表情自体は柔らかに微笑んでいて、全体的に穏やかな空気をまとっているのに。
 何故だか、メイワにはそう見えた。
「では、しばらくは我慢しておきましょう。
 逢ったら、無理をさせてしまいそうです」
 青年はニコッと笑った。
「姫は白厳様に逢うことを、楽しみにしています。
 少しでしたら、大丈夫ですわ」
 メイワの言葉に、青年は首を振る。
「少しというのが難しいんです。
 姫が元気になるまで我慢します」
 努めて明るく青年は振舞う。
「そうですか」
 メイワは視線を石畳に落とした。
 姫が元気になるとしたら、戦いそのものが終結したときだろう。
 それを目の前の青年は知っていて、言っているのだ。
 出立自体を秘するのかもしれない。
「ですが、お発ちになる際は必ず、姫に逢っていってくださいね」
 メイワは顔を上げ微笑んだ。
 白厳は曖昧な微笑を浮かべた。
「きっと、ですよ。
 もし逢わないまま、白厳の君が戦場に行かれたのを姫が知ったら、今以上に気を落とされます」
 メイワは言った。
「別れを告げるって、難しいですよね」
 十に満たない童のようなことを青年は言った。
 主もどこか幼いまま成人を迎えたような人物ではあったが、青年はまた違う意味で幼い。
 突拍子もないところはどちらも同じなのだが、質が違うような気がするのだ。
「努力します」
 そう言って、大人びた微笑を浮かべた。
 もう十八なのだから、大人であるのに、そう感じた。
「将軍。
 探しましたよ」
 メイワの考え事を中断するように、張りのある若い男の声が割って入ってきた。
「何ですか?」
 白厳はきょとんとする。
「報告に上がろうと思ったのに、報告を聞く相手がいないんですから。
 所在を明らかにするように、と何度忠告させれば気が済むのですか?」
 石畳を歩いてきながら伯俊は言った。
「報告?」
 曖昧な色の瞳を瞬かせる。
「もう風呼の軍は動き出しました。
 風呼も出立前に将軍にお目にかかろうとしていましたが、時間切れでしたよ。
 朝からフラフラと落ち着きなく、城内を歩き回らないでください。
 誰に聞いても、城主様なら先ほどまでここにいたが、フラッとどこかへ行ってしまった、としか答えが返ってこないのは、どうかと思うんですが?」
 滔々(とうとう)と伯俊は言った。
 それを白厳は仕方なしに聞いていた。ありありと面倒くさいと態度に表していた。
 メイワはただ、びっくりとしていた。
 口数の少ない人物だと思い込んでいただけに、落差が激しい。
「もう、そんな時間ですか。
 早いですね」
 白厳は暢気に笑う。
「ご自分でお決めになられたんでしょうが。
 忘れた振りしないでください」
 伯俊はピシャッと言う。
「本当に忘れてたんですよ」
 白厳は唇を尖らせる。
「私は風朗と違いますから、簡単には騙されません」
「騙されてくれてもいいじゃないですか。
 ケチ」
「ケチでけっこうです。
 さあ、ご自分の勤めを果たしてください」
「……あ」
 面白いことを思いついたのか、白厳は笑う。
「ほら、メイワ殿です。
 もうすぐ、出立でしょう?
 話したいこととかありますよね。
 せっかくだから、お時間を差し上げます」
 白厳はニコニコと言った。
 その言葉に、伯俊はメイワに気がついたのか硬直する。
 どうやら視界に入っていなかったらしい。
 そこまで、自分は目立たない存在なのだろうか、とメイワは少しだけ悲しくなった。
「じゃあ、私は書斎に戻りますね」
 そう言い置くと城主は立ち去った。
 残された二人は、途惑った。
 しばらくの間、無為に時間が通り過ぎ、沈黙に耐えられなくなったメイワから話しかけた。
「もうすぐ、お発ちになられるんですか?」
 恐らく最も当たり障りのない問いかけに
「はい」
 伯俊はうなずいた。
 それっきり、話の線が途切れてしまう。
 最近は気にならなくなっていたが、今日ばかりはその沈黙が気になる。
 メイワの中ではいくつか訊きたいことがあったが、そのどれもが相応しくないような気がして、訊けなかった。
 再び、時だけが無駄に浪費されていく。
 一緒にいることが苦痛だと、感じた。
 緊張感で息が詰まる。
 ぼんやりと、この方に嫌われているのだろうか。と、考えてしまう。
 いくつもの、責める言葉がメイワの身の内で湧いてくる。
 どうして。と言う思いが一番強い。
「戻ってきたら……。
 聴いて欲しいことが……、ある」
 伯俊が言った。
「嫌なら……かまわない。
 その、……言って欲しい……」
 普段よりも長い言葉に、メイワは顔を上げる。
 冬葉色の瞳と出会う。
 そこには真摯な輝き。
「ご武運をお祈りしてます」
 形式的な言葉を口に乗せてしまう。
 もっと、他に言いようがあったはずなのに。
 自分の口から出た言葉は、何と冷たいものだっただろうか。
 後悔しても、取り返しのつかないことだ。
 しかし、伯俊は嬉しそうに微笑んだ。
 滅多に見ることのできない表情に、メイワの胸は余計に痛んだ。
「あなたの言葉を胸に。
 必ず……戻ってきます」
 伯俊は約束をした。
 メイワは後悔した。
 もっと違う言葉をかければ良かった、と。


 翌朝、伯俊率いる軍は本陣を離れて東南に出立した、と人伝えに聞いた。
 メイワの後悔は確定された。
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