第五十五章

 戦が終わった。
 多くの兵たちは無事に帰還を果たした。


 眠れない。
 メイワは寝台の上で、何度目かの寝返りを打った。
 眠ろうとすればするほど、胸の動悸が激しくなり、余計に眠れなくなる。
 暗がりの中、黄玉石の瞳が不安げに開かれた。
 紅の塗られていない唇から、ためいきが零れる。
 メイワは寝台から滑り降りる。
 眠れない理由はわかっている。
 軽く興奮状態になっているのだ。
 戦いは終わった。
 メイワの見知った顔ぶれは、変わることなく帰還した。
 誰一人欠けることなく。
 その喜びで、心が落ち着かないのだ。
 メイワは寝着に、明るい色の衣を二、三枚重ね、帯を締め直す。
 おろされたままの髪にふれ、しばし考え、結局そのままにする。
 院子を一回りしてくるだけだ。
 誰にも会うことはないだろう。
 深夜である。
 女たちは明日のために早々と眠り、寝ずの番の者以外は起きていない。
 男たちは酒盛り中であろう。
 そう、なのだ。
 今頃、大宴会が開かれ、勝利の美酒で皆、酔っているはずだ。
 薄情にも男性陣はそそくさと宴会の準備を始め、自分たちだけで飲み始めてしまったのだ。
 白厳の君すら、帰還して、ご機嫌伺いにちらりと訪ねてきただけで、すぐさま部下に連れて行かれてしまった。
 それで落胆した姫を慰め、寝かしつけるのは大変な苦労だった。
 宴会の給仕すら男がするらしく、古くから仕えている侍女ですら締め出しを食らったのだ。
 都の宴会ほど雅やかなものではないので、女性が宴会場でうろついていると危険極まりないそうで、伝統になってしまっている事柄らしい。
 メイワは所詮客でしかないので、こちらの流儀だと言われたら反論できない。
 どうせ、もうしばらくしたら、都に帰るのだ。
 そう思うと、悔しいやら、悲しいやら。
 メイワは不機嫌に院子に出る。
 本人、無自覚に怒っていた。
 庭の木々を見遣ることなく、石畳をつかつかと歩いていく。
 何のための散策かわからない。
 メイワの怒りは増していく。
 心配して、損をした。
 あんなに後悔したのに。
 帰ってきたら、謝ろうと思っていたのに。
 それなのに、会いに来ないなんて。
 悔しくて、涙が零れそうだった。
 黄玉石の瞳にうっすらと涙が浮かぶ。
 それでもなお歩いていると、人の声がした。
 メイワは驚いて、立ち止まる。
 誰にも会わないと思っていたからこそ、髪を結わないできたのに。
 恥ずかしい。
 すぐさま、引き返さなければ。
 メイワは辺りを見渡す。
 どこをどう歩いてきたのか、見たことのない風景が広がっていた。
 完全な迷子である。
 血の気がスーッと引くのを感じた。
 ……どうしましょう。
 恥を忍んで、この先にいる人物に帰り道を教えてもらうか。
 それとも、勘を頼りに帰るか。
 どちらも、選択したくない。
 メイワは困った。
 石畳を見て、思案していたときだった。
「これは満天の星を従える月の精か、はたまた碧桃の花精か」
 声と同時に甘い香りが漂ってきて、メイワの思考は止まった。
 そこから先は、想像もしたくない場面だ。
 よりにもよって、こんな状況下で、何でこの方が。
「都合の良すぎる春の宵夢のようだ」
 その声には笑いが含まれている。
 その人物はメイワの前まで歩いてくる。
 このまますれ違ってくれたら、どんなに良いか。
 メイワは身を硬くする。
「こんなところにいると、危ない。
 早く帰った方が良い。
 ここは危険に満ち満ちているから」
 いつにない優しい声が告げる。
「……帰り方がわからないのです」
 メイワはビクビクと顔を上げた。
 思ったとおりの人物が目の前にいた。
 月華の下でも変わらぬ美貌の青年が、打ち解けた感じのする衣束で立っていた。
「それは大変ですね。
 けれど、道案内を頼むのは適切ではない。
 ……。
 私も充分、危険の一つなのだから」
 伯俊は艶然と微笑んだ。
 メイワはドキッとした。
 こんなに話す方だったろうか。
 こんなに表情が豊かな方だったろうか。
 メイワの知る人物とは、かけ離れている。
 心臓の音がうるさいぐらいに、耳元でする。
「では、これをお守りにしよう」
 伯俊はそう言うと、腕を伸ばし、すぐ側の枝を折った。
 枝が揺れ、香りが振りまかれる。
「どうぞ。
 桃は邪気を払う」
 伯俊はメイワに花のついた枝を差し出す。
 それを受け取り、碧桃の下に自分が立っていたことに初めて気がついた。
 見上げれば、名残の花。
「さあ、こちらです」
 歩き出した伯俊の後を、メイワは慌てて追う。
「あ、ありがとうございます」
「礼には及びません」
 伯俊は言った。
「あの。
 こんなところで何をなさっていらしたんですか?」
 メイワは自分の事を棚に上げて訊いた。
「酔い覚ましに。
 あそこにいると、潰れるまで飲まされる。
 杯を受けなければ不機嫌になる輩と、飲み干さないと怒る輩がいる上に、酒を水のように飲む輩がいて、私の肩身は狭いんです。
 命からがら逃げ出してきたところで、貴方と会った」
 伯俊は楽しげに話す。
「……酔ってらっしゃる?」
 メイワは隣を歩く男性を見上げる。
「ええ。
 大樽の半分、空けさせられましたから。
 起きたら、二日酔いが酷いでしょう。
 何をしても、大丈夫ですよ。
 どうせ、記憶に残っていない。
 これぐらい飲んだ後は、全く記憶が残らないんです」
 伯俊は苦笑する。
 黄玉石の瞳が瞬く。
 酔っている、と言われればそうなのかもしれない。
 酔うと人が変わる、と言うのだし。
 彼は酔うと陽気になり、多弁になるのかもしれない。
 メイワは納得した。
「じゃあ、今話していることも、起きたら覚えていないのですか?」
「多分。
 今までの例から行くと、一切覚えてません。
 残念ですが」
 伯俊は言った。
「大変ですわね」
 メイワは同情した。
「もう、慣れました。
 普段は飲み過ぎないようにしてるんですが、今日はめでたい席でしたので。
 こんな酔っ払いが道案内では心細いでしょうが、我慢してもらえませんか」
 伯俊は笑った。
「いいえ、信じておりますわ」
 メイワはニコッと笑う。
 しっかりとした足取りで歩く青年が、酔っ払いには、どうしても見えなかった。
「期待に応えないと、いけませんね」
 冬葉色の瞳がメイワを見た。
 鎮まっていた胸の高鳴りが、また始まる。
 メイワは驚いて、視線を逸らす。
 何か、会話を探さなくては。
 彼女は焦った。
 このままではいけない、と理性が警鐘を鳴らす。
 わけのわからない不安が湧き出す。
 二人が石畳を歩く音だけが響く。
 言葉一つ、いえない。
 重苦しいのとは違う、沈黙に居心地の悪さを感じていた。
 逃げ出したい。
 それなのに、それができない。
 それをしたくない、と思う自分がいる。
「着きましたよ」
 ハッとメイワは顔を上げる。
 見慣れた建物が目に入る。
「ここまでくれば平気ですね」
「はい。
 ありがとうございます」
 メイワは頭を下げる。
 ここで別れるのは、なんだか寂しいと思った。
 立ち去り難く、メイワはその場で伯俊を見上げてしまった。
「何か、悩み事でも?」
 その表情を見て、伯俊は問う。
 メイワは首を横に振った。
「言いたいことがあるなら、どうぞ。
 訊きたいことがあるのなら、いくらでも」
 伯俊は優しく言った。
 その言葉にも、メイワは首を振る。
 冬葉色の瞳は困ったようにメイワを見つめる。
 ただ、寂しいのだ。
 ここで別れるなんて。
 ……。
 メイワはようやく、気持ちに気がついた。
 その想いの名も知っている。
 あと少し、もう少し。
 一緒にいたい、と。
 心が訴える。
 言葉にならない想いで、メイワの心が溢れかえりそうになる。
「夢が醒めないうちに、失礼しよう」
 伯俊はそう告げると、立ち去ろうとした。
 メイワが思うよりも、体が動いた。
 立ち去ろうとする人の衣をしっかりと掴んだ。
「馬鹿な男が期待するような真似は慎んだ方が、身のためです」
 伯俊は苦笑する。
 メイワの手を優しく包んで、その指を解こうとする。
 心臓が凍りつく。
 恐怖だ。
 このまま、別れてしまう。
 メイワは都に帰らなければならないのだ。
 そうしたら、二度と逢えない。
「行かないでください」
 絞り出すようにメイワは訴えた。
「一時の迷いですよ。
 ゆっくり眠れば、人恋しさは消えるはずです。
 お休みなさい」
 伯俊は駄々をこねる子どもに諭すように、穏やかに言った。
「嫌!」
 反射的にメイワは叫んだ。
 ここまで感情的になったことは、今まで一度もない。
 自分の何もかもが鋭敏な神経になってしまったようで、メイワは感情に振り回されていた。
 もう知ってしまった想いは、なくしてしまうことなどできない。
 何もかも忘れ去るなんてできないのだ。
「お願いです」
 メイワの唇がささやく。
 春の宵が後押しをする。
「今宵だけでかまいません」
 普段の彼女ならば、考えつくこともできないことを言おうとしていた。
 感覚が研ぎ澄まされていて、一切の迷いがなかった。
「一緒にいてください」
 メイワは言い切った。
 冬葉色がマジマジとメイワを見る。
「魅力的なお申し出だが。
 何を言っているか理解しているようには見え」
「私は本気です」
 伯俊の言葉を最後まで聞かずに、メイワは言った。
 黄玉石の瞳が青年を見上げる。
「後悔しますよ。
 撤回するなら、今のうちです」
 伯俊は言った。
「いいえ」
 どこにそんな勇気があったのか、メイワは断言した。
「そうですか」
 メイワの決意が固いのを感じ取ったのか、伯俊はためいきをついた。
 青年はメイワの細い体を抱き上げた。
「せっかくの道案内が意味を持たなくなったようです」
 伯俊はそう言うと、自分の部屋までメイワを連れて行った。

「一晩、一緒にいるだけですよ」
 どこまでも生真面目な男は、メイワを寝台に下ろすと言った。
「きっと、貴方は後悔するでしょうから」
 伯俊はメイワの傍に腰を下ろす。
「私はかまいません」
「貴方は一緒にいたいだけなんでしょう?
 それが望みで、その他のことは重要ではないはずです」
「別に、伯俊殿でしたら」
 図星を指され、メイワは言った。
「今、じゃなくてもかまわない。のでしょう?
 どうせ、私は記憶が残るか怪しいですし。
 野合するのに、耐えられますか?」
 ズバリ問われてしまうと、メイワにも迷いが生じる。
「さあ、眠りましょう」
 伯俊はメイワを抱え、布団の中にもぐる。
 あやすように髪を撫でられているうちに、メイワは眠りに落ちた。


 それは春の宵夢。
 儚く、幻のように消えた。
 メイワは夜が明ける前に目を覚まし、自分の部屋に戻っていった。
 まるで何事もなかったかのように、一日が始まった。
 これを知るのは彼女だけで、何も痕跡が残っていないのだから、証明のしようがなかった。
 ただ、恋心だけが彼女の中で自覚された。
 後は、花瓶に活けられた碧桃の一枝。
 それだけが、あれは夢ではなかったことを暗示していた。




 この一件は、珍しく伯俊の記憶に残った。
 が、しかし。
 メイワの名誉のために、彼は口を噤んだ。
 そのため、メイワがこのことを知るのはずいぶん後になってからだった。
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