第六十四章

 まだ浅い春の日。
 吹く風はまだ冷たい北風で、咲き初める花たちを揺らしていた。
 奥庭に、清らな乙女が一人。
 旅装も解かずに、花々に帰郷の挨拶をしていた。
 心というのは不思議なもので。
 その時々で正反対なことを考えてしまったりする。
 ホウチョウは慣れ親しんだ城に帰ってこれて嬉しかった。
 あの時は、何もかもを捨ててしまってもいいと思った。
 大切な、運命の人の手を離してしまうぐらいなら、全部いらないと思った。
 でも、こうして無事、家に戻ってくると、安堵する。
 暖かな南城は、楽しいことであふれていたが、自分の家と言う感じがしなかった。
「私の可愛い花薔薇」
 色褪せることのない美しい呼びかけに、乙女は自然と微笑む。
 振り返れば、精霊のように美しき女性。
 兄弟の誰も受け継ぐことのなかった色の瞳が、ホウチョウを見つけ和む。
 絹の衣を引きずり、彼の人はゆったりと歩み寄る。
「どこまで、遊びに行っていたの?」
 咎めるにしては甘いささやき。
 皇太后は娘の髪をそっと撫でる。
「南城よ」
 ホウチョウはニコニコと答えた。
「まあ、そんなに遠くまで?
 一人で出掛けるのは危険だわ。
 あなたは誰もが欲しがる美しい花薔薇。
 手折られてしまうわ。
 どこか、遠くの私の手の届かないところに、隠されてしまうわ。
 いけない。
 危険だわ。
 あなたはここにいなければならないの」
 いつにない真剣な母の口調に、ホウチョウは不安になる。
 歌にも似た言葉の羅列。
 瞬きもせずに見据える瞳。
 それはほんの少し力を入れれば砕けてしまう硝子のような、緊張感を他者に押し付ける。
「だって、あなたは私の可愛い花薔薇なんですもの」
 ランは言い切った。
「私はずっとここにいなければ、いけないの?」
 引っかかる言葉があった。
 ホウチョウは訊いた。
 だって、約束をしてしまった。
 ずっと、一緒。……と。
 美しい女性の顔が歪む。
「あなたはここでしか生きていけないのよ。
 だって、あなたは花薔薇なんですもの。
 ここ以外の場所では、あなたは枯れてしまうわ」
 ランは言い募る。
 母の気迫に飲まれながらも、ホウチョウは言い返した。
「私。
 約束したの。
 運命の人を見つけたの。
 ずっと、その人と一緒にいるって。
 離れないって」
 ホウチョウは言った。
 母の顔を見ていると、自分が酷くいけないことをしたような気がする。
 正しいはずなのに、不安になる。
「どこへ行くの?」
 悲鳴のような声が訊く。
 ホウチョウは耳を塞ぎたくなった。
 心が揺れる。
 自分は間違ったことをしたのだろうか。
 違う。
 でも……。
 母の白い指先が、ホウチョウの肩を掴む。
 爪紅がきちんと施されたそれが痛いくらいに、食い込む。
 恐怖に乙女の精神は屈しようとしていた。
 生まれて初めて、母に背く。
 ホウチョウとランは良く似ていた。
 精神の一卵性双生児。
 その言葉が過言ではないように。
 ランの血を色濃く継いだのは、間違いなく末子のホウチョウである。
 エイハンの斎姫の血統。
 運命を読み取り、神の声を聴く、その豊かな感受性。
 それ故、ホウチョウの精神はかぼそい。
 ささやかなことで、彼女の精神の均衡は狂う。
 あと一歩で、ホウチョウは自分の意識を手離してしまうところだった。
 彼女を呼ぶ、その声がなければ。
「姫」
 ホウチョウの真字を知る唯一人の人。
 ランの意識がそちらに向う。
 奥庭の、飛の姓を持つ者しか立ち入れない庭を、特に許された者。
「お話中、失礼いたします」
 ソウヨウはおっとりと言った。
 ホウチョウは深く息を吐き出した。
 心臓はまだ早鐘を打っているが、安心した。
 もう、怖くない。
「あなたね。
 やっぱり、あなたなのね」
 ランはソウヨウを見た。
「花盗人。
 あなたが私の可愛い花薔薇を奪っていくのね」
 歌うように、声が責める。
 その声に、ホウチョウはおびえた。
 嫌な空気が辺りにたちこめている。
 今すぐにでも、大好きな人の腕の中に飛び込んでいきたい。
 それで、あたたかな胸に顔うずくめて、今まで自分がどんなに不安で怖かったか訴えたい。
 優しい手がきっと、ホウチョウの髪を梳いてくれることだろう。
 しかし、それはできない。
 母の指はしっかりとホウチョウの肩を抑えている。
「いいえ。
 私は花守り。
 お疑いなら、皇帝陛下にお聞きください。
 私は決してこの庭から、花を盗んでいかないことをお約束いたします」
 ソウヨウは穏やかな物腰で言った。
「……。
 この子はずっと、この庭にいるの?」
 ランは訊いた。
「はい、もちろんです。
 ここ以上に素晴らしい庭はありません。
 これからは、ずっとこの庭で時を重ねていくのです」
 ソウヨウは言った。
「そう。
 それなら、いいわ。
 仕方がないことですもの。
 ええ、これは仕方がないの」
 ランは娘から手を退けた。
 ホウチョウは二人の顔を交互に見遣る。
「私の可愛い花薔薇。
 さようなら。
 あなたは、もう私だけのものではなくなってしまったのね。
 この悲しみの代価は、一つの予言。
 あなたは誰よりも愛する人を置いて、やがて天の国に帰ることでしょう。
 いくつもの約束を残して、あなたは神の身元に召されるのよ。
 かわいそうなあなた。
 愛は永遠でも、人の肉体は朽ち果てるもの。
 千の絶望と万の孤独。
 愛を知ったあなただから、耐えがたき苦痛となりあなたを苦しめることでしょう。
 これが、私から花薔薇を奪った罰」
 ランは焦点の定まらない瞳で高らかに告げる。
「私の可愛い花薔薇。
 絶望には希望があるように。
 悲しみには喜びが潜んでいるの。
 あなたはこれからたくさんの喜びを知ることでしょう。
 人を愛し、愛される喜び。
 そして、子をなし、育てる喜び。
 欠けることのない望月のような至福。
 これが、運命の人を見つけられたあなたに贈る祝福。
 幸せになるのよ」
 皇太后は娘の額にくちづけを一つ落とした。
「……お母様?」
 途惑いを隠せずに、ホウチョウは呟いた。
 すっかりと元の穏やかな母に戻った美しい人は、ニコッと笑った。
 そして、ヒラリと二人を残して、立ち去ってしまった。
 二人は無言で、その背を見送った。
「難しすぎて、よくわからなかったわ」
 正直な感想を乙女は小さく呟いた。
 それを聞き逃さなかった彼女の恋人は、静かに微笑んだ。
「シャオには、理解できたの?」
 ホウチョウはちらりと彼を見上げる。
 また背が伸びたのだろうか。
 目線を合わせるのも、最近一苦労だ。
「少しだけ」
 ソウヨウは言った。
「ふーん」
 面白くなさそうにホウチョウは唇をへの字に曲げる。
「良い話があるんですけど、知りたいですか?」
 ソウヨウは思わせぶりに言った。
「え?」
 ホウチョウの瞳がキラキラと輝く。
「お嫌なら、またにしますが」
「どんな話?」
 ホウチョウはソウヨウの袖を掴んだ。
 ソウヨウは本当に嬉しそうな顔をする。
「鳳様から、結婚のお許しを頂きました」
「本当?」
 胸の内から、喜びが湧き上がるのがわかる。
 それは体の隅々まで行き渡り、ホウチョウの身に収まりきれずに、あふれかえりそうになる。
「はい」
 誇らしげにソウヨウは言った。
「嬉しい」
 それ以上に、自分の心を言い表す言葉が見つからない。
 ずっと、一緒。
 その約束が、少しずつ現実に近づいてきている。
 叶わない願いなどないのだ。
 ホウチョウは至福の笑みを浮かべた。
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