第六十五章

 建平三年 三月。
 鳥陵の都を東に行ったところに巨大な城が完成した。
 ようやく、と付け足した方が良いのかもしれない。
 元年から建設が始まり、戦争と二本立てだった国家事業も一区切りがついたのだ。
 朱塗りの柱が煌々しい宮殿に、皇帝は遷都した。
 新しい都の名はシュホウ。
 朱い鳳と記す。
 人々は真新しい宮殿を鳳凰城と呼ぶ。
 見事に天を舞って見せた鳳の君に敬意を賞したのだ。
 都の中心であった鷲居城は離宮となり、その地を大司馬が賜る。
 大司馬はそこに府を開く。


「今日、この城の新しい呼び名を耳にしました」
 シュウエイは茶器を書卓に置く。
 人手が足りているのに、わざわざ彼がお茶を淹れなければならないのは嫌がらせか、趣味か。
 どちらにしろ、シュウエイにとっては迷惑極まりないことである。
 白磁の器の中には、紅梅よりも紅い色の水がなみなみと注がれている。
 それを受け取った青年は驚きもせずに、口につける。
 中身は甘い苺水。
 甘党な青年に合わせて、常人ならば一口で満足できるほどの濃厚な砂糖水であるった。
「?」
 この地では少し変わった色の瞳が答えを問う。
「白い鷹の城で、白鷹(はくよう)城」
 詩でも吟ずるようにシュウエイは言った。
 そこら辺を歩いている男がやったら、妙に芝居くさくて笑いものだが、この男には不自然さがなかった。
 気障な仕草が、ピタリと決まる男である。
「意外にひねりがありませんね」
 弱冠で大司馬を賜った青年は面白くなさそうに呟いた。
 あまり、夏官の長には見えない。
 官服はどこか、借り物のような感が漂い、全くもって似合っていなかった。
「ひねってどうするんですか?」
 律儀にシュウエイは答える。
「もっと、こう変わった名前。
 たとえば、虚仮(こけ)とか、闇穴(あんけつ)とか、盆暗(ぼんくら)とか」
 おっとりと苺水を飲みながら、ソウヨウは言った。
「私は嫌です!」
 シュウエイは書卓を叩く。
 模範的に真面目な人間である。
 聞き流せばいいのに、それができない。
 だからこそ、ソウヨウが玩具にするのだ。
 それに気がつく機会は永遠になさそうなのが、気の毒だった。
「面白そうだと思いませんか?」
 上官は気にせずに、ニコニコと同意を求める。
「どこの世界に、馬鹿だの、阿呆だの、間抜けだの城につける人間がいるんですか!?」
 シュウエイは怒鳴った。
「ありきたりで、面白くありません。
 どうせなら、十六夜城や花薔薇城と呼んでください」
「……どういうわけだか、大司馬の城という印象の方が強いようです」
「それは困りましたね。
 私は花薔薇の守護者なのに」
 ちっとも、困っているように見えない表情で青年は言った。
 勅命により大司馬に任命された場で、彼は更なる幸運を賜った。
 公主の婿として、選ばれたのだ。
「絲白厳の、白鷹城……。
 ありきたりです」
「だからと言って、城に頓馬(とんま)だとか、遅鈍(ちどん)だとかつけるわけにはいかないでしょうが」
「シュウエイ、楽しそうなこと言わないでください。
 思わず採用したくなるじゃないですか」
 ソウヨウは嬉しそうに言った。
「やめてください」
「人が嫌がることを時折、やってみたくなることはありませんか?」
「残念ながら、そんな趣味は持ち合わせておりません」
 不機嫌極まりない表情でシュウエイは言った。
「おや?
 そうですか……。
 でしたら、自分というものを知らなさ過ぎていますね」
 ソウヨウは空になった白磁の器を弄ぶ。
 曖昧な色の瞳と冬葉色の瞳がぶつかり合う。
「あなたは、あなたが思う以上にいやらしい。
 欲しい物は絶対に手に入れる。
 どんな手段を使ってもね。
 あなたはとても狡猾で計算高く、人を罠に嵌めるのが得意です。
 その上、策略を巡らしている間は正義も罪悪も、高潔な精神もどこかに置いておける」
 ソウヨウはニコッと笑う。
 余裕のある勝者の眼差し。
 格下相手への慈愛と同情が混じった声音。
「違いますか?」
 その言葉に、答えは返ってこなかった。
「別に、それが悪いわけではないでしょう?
 誰もが当たり前にやっていることです。
 楽しみにしていますよ、翔将軍殿」
 ソウヨウは立ち上がると、白磁の器をシュウエイに押し付けた。
「どこに行かれるのですか?」
「秘密です」


 シキョ城は完全に、ソウヨウの物になった。
 現在、後宮と東宮の一部を除いて、全ての宮を開放している。
 施政宮の、ほんの数日前まで皇帝陛下が座っていた椅子に座り、雑務をこなす。
 そして、誰の許可も取らずに後宮に向う。
 変われば変わるものである。
 本人、これでもかなり途惑っているのだが、誰もそれを認めてくれない。
 過去の所業のせいか、それとも感情が外に出にくい顔のせいか。
 ……前者の可能性は、かなり高い。
 皇帝の居城だったときとは打って変わって、後宮には人の気配がある。
 甘い花の香り、さざめく衣擦れ。
 そんなものにいちいち感心しながら、歩を進める。
 目的地にだいぶ近づいてから、手紙の一つでも出してから来た方が礼儀にかなっていただろうか、と思案する。
 あまり礼儀知らずなことをしていると、影の権力者である女官長に嫌われてしまうかもしれない。
 それは、避けたい事態だ。
 そうなった場合、日常生活から快適さが奪われてしまう。
 ソウヨウがそんなことを考えていたとき、柱から人影が現れる。
 白い裳が乱れるのもかまわず、駆けてきたのは胡蝶の君。
 エイハン風の衣裳を身にまとい、その長い髪はサラサラとただ背に垂らされている。
 この後宮の美しい主である。
 本当に、美しい。
 キラキラと輝く赤瑪瑙の色の瞳、茜空よりも美しい明るい色の髪、シミ一つない白い肌。
 全てが小さく造られ、簡単に壊れてしまいそうな、華奢な身体。
「シャオ」
 朗らかな笑顔で、ホウチョウは抱きつく。
 何度繰り返されても慣れることはない驚きに、嬉しさ半分、途惑い半分。
 確かに感じる柔らかな感触、甘い花の香り、手を伸ばせばふれることのできる髪。
 充分すぎる誘惑だった。
「おはよう」
 ホウチョウはニコッと笑う。
「おはようございます、姫」
 ソウヨウも釣られて笑う。
 その名に相応しく、スルリと腕の中から逃げるホウチョウ。
 彼女は一所に落ち着いていられない。
 いまだ残る感触にソウヨウは、勿体ないと思う。
 あと少しだけ足りない、充足にならない満たされ具合。
 だから、貪欲さを覚える。
 できるはずないというのに、籠に閉じ込めておく方法を考える。
「この城の新しい名前、知ってる?」
 ホウチョウは楽しげに訊く。
「さあ?
 知りません」
 たとえ、知っていても彼はこう答える。
 彼女の笑顔を少しでも長く見ていたいから。
 彼女の嬉しそうな声を少しでも長く聴いていたいから。
「白鷹城と言うのよ。
 かっこいいでしょっ!」
 得意になってホウチョウは言った。
「そうですね」
 ソウヨウは同意した。
 シュウエイが聞いたら、嘆くこと請け合いである。
 結局のところ、どうでもいいことなのだ。
 名前なんて所詮は識別するための記号でしかない。
 その本質は変わるわけがないのだ。
 どんな名前であろうと、それ自体は変わらないのだ。
 どう呼ばれていても……。
「シャオ。
 ここでも、碧桃が咲き始めたのよ」
 ホウチョウはソウヨウの手を掴むと、走り出す。
 ソウヨウは嬉しそうについていく。
 ここは、今日も平和だった。
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