第六十六章

 女であれば、真新しい衣裳に身を包むのは大きな喜びである。
 メイワも所詮、ただの女性なわけで、下ろしたての衣裳に満面の笑みを浮かべた。
 春らしい装いで、色は薄紅梅と空色を取り合わせて、帯は雪柳。
 裳裾はうんと短くくるぶし丈で、歩くと薄紅梅の糸靴が覗く。
 布はみな軽やかな薄絹。
 大げさな簪はやめ、ゆったりと編んだ髪に雪柳の花弁を飾る。
 チョウリョウの伝統にしては軽々しすぎる衣裳は、この離宮ならではのもの。
 皇太后の故郷の伝統を取り入れた様式だ。
 もっとも、こんな姿では仕事にならない。
 フワフワ、ヒラヒラでは、あちらこちらに引っかかってしまう。
 休みの日だからこその格好である。
 十日に一度の休暇。
 丸一日、ゆっくりしていられるはずであった。
「メイワ様!」
 パタパタと軽い足音と、澄んだ高い声。
 メイワは休みの日の恒例行事のために戸口に立つ。
 衝立の向こう、侍女見習いの少女が息を切らして立っていた。
「せっかくのお休みなのに、申し訳ございません」
 すまなそうに麦色の髪の少女、秋霖は言った。
「……その、姫が……」
 秋霖は言いよどむ。
 メイワには人を安堵させる微笑を浮かべる。
「今日、大司馬は朝議には出られなかったはずだけれど?
 皇帝陛下は、まだ御政務があるはずですし、皇太后陛下は昨日から臥せっていらっしゃるはず。
 何があったのかしら?」
 メイワが穏やかに言うと、少女は困ったように微笑した。
「私にもさっぱりわかりません。
 ただ、姫が手がつけられないほど、お泣きになられているのです」
「そう。
 すぐ、参上いたしますわ。
 ただ、ほんの少し猶予を頂いてもよろしいかしら?
 この格好では」
 メイワの言葉に秋霖は首を横に振った。
「申し訳ございません。
 今すぐに、と女官長のお言葉が……」
 秋霖は言った。
「このような格好で、姫の元へ行くのは大変失礼だと思うのだけれど……」
 メイワは呟いた。
 紅一つ差していないのだ。
「もしメイワ様がお眠りだった場合は、寝着のままで良いから連れてこい、と言われて……」
 秋霖は言った。
「わかりました。
 行きましょう」
 メイワは微笑んだ。

 春らしいそよ風を感じながら、廊下を渡る。
 優しげな風が、裳裾を揺らす。
 柔らかな色合いの薄絹が風をはらんで、花弁のように広がる。
 ざわつく内宮を進むうちに、ここがかつてのシキョ城でないことを気づいてしまう。
 華やかな色合いの衣裳をまとう女官たちに混じって、男性が存在しているのだ。
 以前は、内宮でも後宮に近い場所は、官吏であっても立ち入りを禁じられていた。
 特に赦された者だけが、いくつもの許可を得て立ち入ることができたのだ。
 しかし、それはもう過去のこと。
 大司馬は高官に限ったとはいえ、内宮のほとんどを出入り自由にしたのだ。
 公主の寝室に向う道に、見知った顔を見つけてしまう。
 くつろいだ姿を晒すことになって、顔から火が出るように恥ずかしい。
 メイワは不自然にならないぎりぎりの速さの、小走りになる。
 挨拶もなしに、急ぎ姫の元に向った。
 後宮の、最も広い上等な部屋の主は盛大にかんしゃくを起こしたらしい。
 床にはさまざまな物が、本来の目的を無視した配置で置いてあった。
 主は、寝台の天幕の紗を盾にするように掴み、床に座り込んでいた。
「おはようございます、姫」
 メイワは微笑んだ。
 泣き濡れた赤茶の瞳がこちらを見る。
 メイワは驚かせないようにゆっくりと近づくと、ホウチョウの側で膝を折る。
 朝の身支度の最中であったのだろうか。
 膝まで届く長い髪はもつれ、痛々しい有様で床に広がっていた。
 小さな体に単を一枚、頼りげなくまとっている。
「その格好では、まだ寒いでしょう?」
 メイワは言った。
 ホウチョウはクスンと鼻をすする。
「お召し替えいたしましょう」
 メイワの言葉に、ホウチョウはコクンとうなずいた。
「誰か」
 メイワは立ち上がると、部屋の外に声を掛ける。
 下女が二人、まろぶような勢いで参上する。
「春物と、夏物の衣裳を全て揃えていただけるかしら?」
 メイワの命令に下女は素早く行動を起こす。
 下女が揃えている間に、メイワは散乱して部屋を整える。
 すっかり元通りにすると、椅子にホウチョウを座らせ洗面させ、その長い髪を梳く。
 その頃には、ホウチョウも落ち着きを取り戻してきて、おしゃべりを始める。
「今日は、一日シャオがいるのよ」
 嬉しそうにホウチョウは言う。
「先ほど、お見かけいたしましたわ。
 姫がかんしゃくを起こしてしまったために、困ってらっしゃいました」
「え?」
「身支度がすんでいない女性の寝室に、殿方は立ち入るわけにはいきませんもの。
 今も部屋の外でやきもきしながら、立ってらっしゃるでしょう」
 メイワはクスクスと笑う。
「……」
 ホウチョウは不満そうに、口をへの字に曲げる。
「早く支度をすませてしまいましょうね」
 メイワは梳き終わった髪に香油を馴染ませる。
 艶が増した髪を手早く編みこむ。
 下ろしたままでも充分魅力的な髪だが、大司馬と一緒ということなら編んでしまうか、簡単に結ってしまった方が良い。
 目の毒すぎる。
 年若い男性にとって垂らし髪は強い誘惑だ。
 名を交わした以上、二人は夫婦なのだからどんな事態になってもおかしくはない。
 編み終わりに朱色の布を結ぶ。
 ちょうど良く下女が衣裳を抱えて戻ってくる。
 ざっと見てメイワは明るい色の衣を選ぶ。
 萌黄に薔薇色、帯は朱色。
 表着は生地が薄く、丈の長い物を選ぶ。
 霧がかかったように強い色彩が柔らかくなる。
 裳は白色の夏用の物。くるぶしが見えるほどに短い、それ。
 玉は耳墜だけにし、生花を代わりにする。
 四月の装いとしては軽めだが、ホウチョウに良く似合っていた。
 エイハンとも、チョウリョウとも呼び難い服装は、二つの血を引く乙女には素晴らしく合っていた。
 形の良い唇に、そっと紅を乗せて身支度は終わった。
「もうよろしいですわよ」
「出掛けて良いの?」
「はい。
 白厳様にご迷惑をおかけしないように」
「もちろんよ!」
 ホウチョウはニコニコ笑顔で答える。
 メイワは笑顔でそれを見送った。
 胡蝶の名を持つ乙女は、ヒラリと飛んでいく。
「……。
 今日は、誰がご機嫌を損ねたのかしら?」
 メイワは下女二人に視線を転じる。
「職務に忠実なのは素敵なことだけれど、主の意思を酌む努力も必要よ」
 ためいき交じりの言葉に、下女はさらに身を硬くする。
「押しつけたら、壊れてしまうほど儚い方だから。
 私はこれで失礼させていただきます。
 何か問題が起きたら、遠慮なさらないで呼んでくださいね」
 メイワは笑顔で言い置くと、部屋を後にした。

 ためいきをつこうとして、気配に気がついて息を呑んだ。
 気を抜けない。
 本音が零れそうになるときに限って居合わせるのは、間が悪いのか、それとも巡りあわせか。
 メイワはその男性を見上げ、微笑んだ。
 武官だということを辛うじて示すのは、腰に帯びた剣。
 黄玉、黄水晶が嵌め込まれたそれは飾り物としての印象の方が強いから、やはり武官には見えない。
 スラリとした長身の男性は、文官に見えてしまうほどきちんとした装束で立っていた。
 整った顔に微かに笑みが浮かぶ。
 本当に微かな変化だから、見逃してしまう……他の人なら、きっと。
「今日はお暇なのですか?」
 メイワが問うと
「大司馬があの調子では、仕事はありません」
 伯俊は言った。
 出会った頃よりも、会話が続くようになった。
「珍しいお茶が手に入ったんですが、どうですか?」
 控えめなお誘い。
 冬葉色の瞳に懇願の色が宿る。
「よろしかったら」
 重ねられる願い。
 メイワはうなずきかけ、今の自分の格好を思い出す。
 ずいぶんと気軽な姿だ。
 ……紅も塗っていない。
 女として、現在の自分はどうであろう。
 赤面を通り越して、血の気が引く音が聞こえる。
 年端いかない小娘じゃあるまいし。
 恥ずかしい。
「お嫌、ですか?」
 伯俊はためらいがちに訊く。
「いえ。
 その。
 こんな格好ですから……。
 ……失礼ですわ」
 メイワは困ったように笑う。
「?
 貴方は、大変美しい」
 真剣な響きの声に、メイワの心臓がドキッと跳ね上がる。
「お上手ですわ。
 その気がない娘でも、夢中になってしまいますわね。
 お気をつけた方がよろしいですわよ」
 メイワはそれでも、笑顔浮かべたまま言った。
 心臓はドキドキと落ち着かない。
「嘘や偽りを言う口は持ち合わせておりません」
 伯俊は静かではあるが、決して揺るがない力強さで断言した。
 そのひたむきな瞳に、メイワは絡め捕られてしまいそうだった。
 嫌ではない。
 その感覚に歓喜している自分がいる。
 でも、怯むのは確か。
 いくつもの歯止めがメイワの中に存在する。
 だから……。
 最後の一歩に足りない。
「次の機会を楽しみにしておきます。
 失礼いたします」
 メイワは優雅に一礼すると、立ち去った。
 冬葉色の瞳を感じながら、その場から逃げ出したのだ。
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