第六十七章

 春が来て、平和になって、人々は途端に忙しくなった。
 そして、ここにも被害者がいる。

「白厳殿からも、どうかお願いいたします」
 そう言ったのは、三公の首(おびと)である太師(たいし)の露禽だ。
 白髪の老人で、好々爺という表現がしっくりとくる人物だ。
 ただ、あの皇帝陛下が、太師に据えた人物が善良な老人であるはずがない。
 三公は皇帝を輔弼(ほひつ)する。
 言わば、皇帝の教育係である。
「そうは言われましても……。
 あの方は頑固ですから」
 ソウヨウはおっとりと微笑んだ。
 棋盤を囲んでの密談である。
 白石を一つ握ると、パチンとソウヨウは打つ。
「後継を得るというのも大切な役目でございます」
 露禽はすぐさま黒石を打ち返す。
 鋭い攻めに、ソウヨウはしばし考える。
「あまり、周りが言っても効果は少ないと思うのですが」
 考えた末に、変則的な手を打つ。
「私たちは充分待ちました」
 露禽はためいきをつく。
「あの悪戯っ子はもう二十六だ。
 十を数える子がいても、ちっとも不思議ではございません」
 黒石の攻めの勢いは衰えることはない。
「……。
 その、チョウリョウで言うところの運命の相手に巡り会っていないだけでは?」
 ソウヨウは白石を弄ぶ。
「いくらなんでも、遅すぎます。
 もうすでに見つけているのでしょう」
「ずいぶんと確信的ですね」
「それはもう。
 陛下が這い這いをする頃から見知っておりますから。
 意外に抜けてるところがございまして、まあそこが可愛らしいところですが。
 隠し事をしていればピンとくるんですよ」
「はあ……」
「鴻鵠弟も同意見でしたから。
 好いた女がいるのでしょう」
 穏やかに露禽は言った。
「だったら、話は早いと思うんですが」
 迷いあぐねて、ソウヨウは白石を打つ。
「ところがどっこい、鎌をかけても乗って来はしないのです。
 相手がわからないのでは、こちらもやりようがございません」
 露禽は黒石を打つ。
「特定はできなくても、範囲を絞ることはできませんか?」
「玉琴が協力してくれませんから。
 彼は独身主義ですからな」
「玉琴と言うと、あの王玉琴殿ですか?」
「もちろんです。
 彼以外の誰が玉琴と名乗るというのでしょうか?」
「そんなに鳳様と仲が良いのですか?
 どちらかというと、行将軍と仲が良いように見えますが」
 ソウヨウは地味な手を打つ。
「千里は今、辺境です。
 都にはおりません」
 露禽はキッパリと言った。
 黒石はまた陣を増やしていく。
「私なんかよりも、ずっと大司馬に向いてらっしゃるのでは?」
 ソウヨウは微笑んだ。
「こちらも必死でございます。
 手段は選んでいられません」
「……なるほど。
 それは大変ですね」
 夏官の長は機密漏れについて無視して、のんびりと言った。
「白厳殿。
 貴方からも、どうか一言」
「……。
 私が何か言ったところで、気が変わるとは思えないんですが」
「陛下が皇后を迎えないまま儚くなった場合、貴方が次の皇帝です」
 老人の言葉にソウヨウの笑顔が消える。
「今、飛の姓を持つ者は僅か三人。
 皇太后陛下、皇帝陛下、十六夜公主。
 先代の遺子は鴻鵠弟が養子にしたために翼姓でございます。
 順当に十六夜公主の婿である貴方が、皇帝の座に就いたところで歓迎こそされ、非難されることはありませんでしょう。
 現在、大司馬であるのですから、身分が低すぎることもございませんし」
 大司馬は夏官長として、政治に携わる。
 その役目は広く、外交までも引き受けることがある。
「それは困ります。
 私には、きちんとした人生設計があるんです」
 ソウヨウは言った。
「この国は、後継者を必要としておりますから」
 露禽は微笑んだ。
「私には目立つことなく、ひっそりと小市民的な幸せに浸るという、大いなる野望があるんです」
 充分目立つことをしておきながら、ソウヨウは力説する。
 パチンと白石を置く。
「ではその野暮の実現のために頑張ってください。
 どうやら、私の勝ちです」
 露禽は黒石を置く。
 ……盤には、白石を置くべき場所がなかった。
「お約束どおり、陛下を説得してください」
 にこやかに露禽は言った。
「どうしてあなたが大司馬ではないのでしょうか」
 ソウヨウはポツリと呟いた。
「良いことを教えて差し上げましょう」
「?」
「何を隠そう、あの悪戯っ子に棋を教えたのは私です。
 そして、あの子は私相手に勝ったことは一度たりともありません」
 まさしく老獪。
 知っていれば、最初から賭け事などしなかった。
 情報収集という前段階で、すでに敗北は決定されていたのだ。
 ソウヨウはためいき混じりに言った。
「わかりました」


 頭にくるから、叩頭礼はしない。
 ソウヨウは立礼ですました。
 いと尊き御方は、それを咎めたりはしなかった。
 儀式ばったことが嫌いだからだ。
 その必要性は認めているものの。
「珍しいな」
 竹簡からホウスウは瞳を転じる。
「どんな風の吹き回しだ?」
 今秋には義理の兄弟になる二人の関係は、冷え切っていた。
 ソウヨウが成人してから、より顕著になった。
 もともと、ソウヨウは人当たりが良い方ではない。
 シキボの悪習を洗い流すには、歳月が圧倒的に足りてない。
 それでも、だいぶマシにはなってきているのだ。
 必要がなければ、他者と関わろうとしない。
 それはソウヨウの欠点であり、ホウスウの悪癖である。
 そんな二人だからこそ、腹を割って語らうことは、とてつもない未来の話になりそうであった。
「習老師(習先生)の言いつけで参りました」
「老師?」
 聞きなれない単語に、ホウスウは訊き返す。
「棋で負けました」
「奇遇だな。
 私も勝ったことがない」
 ホウスウは薄く笑った。
「陛下に、進言しに来たんです」
「諫言は三公の役目だが、臣下の権利でもあるな。
 聞くだけは聞こう」
「早く結婚してください」
 自分の勤めは果たしたと言わんばかりに、ソウヨウは言った。
「……本当に結婚を勧めにきたのか?」
 ホウスウは呆れる。
「どちらでもかまいません。
 私には関係ありませんし。
 でも、子どもだけは作ってください」
 ソウヨウはキッパリと言った。
 ホウスウは竹簡を書卓に置くと、頬杖をつく。
「つくづく、思うよ」
 ためいきをつき、若き皇帝は言った。
「?」
「ソウヨウはチョウリョウの民ではないな、と。
 名ばかりだ」
 この大陸で唯一の国の支配者は言った。
 ソウヨウに蒼鷹という字を与えた人間は、深く息を吐き出した。
「十六夜はお前じゃなければ嫌だと全身で訴えた。
 だから、許した。
 死んだ兄との約束もあった……。
 だが、私は望んだわけではない。
 お前は諸刃の刃だ。
 いつか私の大切な妹を傷つけるだろう。
 それは、もしかするとではない……きっとでもない。
 ……絶対だ」
 冷たい色の瞳がソウヨウを見据えた。
「姫は絶対に幸せにしてみせます」
 ソウヨウはおっとりと微笑んだ。
「舞台に一度上がった者は、幕が引くそのときまで演じ続けなければならない」
 皮肉げにホウスウはささやいた。
「……大丈夫です。
 独りではありませんから。
 頼りになる人間がいますから」
 ソウヨウは穏やかに言う。
「……変われることができるのが、人間か。
 期待しすぎないように未来に期待しよう」
 ホウスウは背もたれに身を預けた。
「それで、鳳様は子どもを作る気がないんですか?」
 ソウヨウは暢気に訊いた。
「……。
 やはり、騙されないか」
 ホウスウは天井を仰いだ。
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