第七十一章

 人間は愚かな生き物だから、直面するまで気がつかないということがままある。
 失って、初めてそれが大切だったか気がつくのだ。
 とはいえ、今回はとても可愛らしい事件だった。
 奥侍女のメイワが里下がりをしたのだ。
 急な話だったが、心の準備ができないほどではなく、何の問題もなく一ヶ月過ぎていくはずだった。
 しかし、彼女だけは違った。
 硝子細工の胡蝶だけは。


 ぐすぐすと泣き続けられ、慰める言葉も尽き、ソウヨウはほとほと困っていた。
 長椅子に座る彼の膝の上に頭を乗せ、ホウチョウは泣いていた。
 一日の大半、泣いているのだから正しく泣き暮らしている。
 今日も朝から泣き続けている。
 理由は簡単だ。
 メイワがいないからだ。
 それだけのことだ。
 ホウチョウだって、メイワの里下がりに納得していたはずだ。
 それなのに、だ。
 ホウチョウの生活はメイワに依存していた。
 着替え一つとっても、彼女なしでは耐えられないのだ。
 後宮に官女は百を下らない。
 しかし、誰もメイワの代わりにはならない。
 帯を締める強さ、衣を着せ掛ける角度、その他諸々が他の女官では気が利いていない。
 そのため、ホウチョウは毎日メイワがいないことを確認させられる。
 硝子細工のように儚い心を持つ乙女には、限界だった。
 毎日のように届く書簡は何の慰めにもならない。
 ソウヨウがどんなに傍にいても、意味がないのだった。
 青年はためいきをかみ殺した。
 果たして、ここまで熱烈に自分は想われているだろうか?
 その答えは、否。
 ソウヨウが姿を消しても、嘆くことはあっても、こんなに酷くはないだろう。
 ありありとその光景が想像できた。
 そう思うと、寂しい。
 自分が想う以上に、彼女は自分を想ってはくれないのだ。
 ホウチョウにはたくさん大切なものがあって、自分はその中の一つにしか過ぎない。
 わかりきっていることだ。
 周り全てを大切にする、初夏の日差しのようなキラキラとした魂。
 純粋で、傲慢で、優しくて、しなやかな心。
 だからこそ、心惹かれると言うのに。
 恋は人をわがままにする。
 ソウヨウも、わがままになっていっていることに自覚がある。
 恋心を自制するということは難しい。
 泣く彼女を抱きしめたい、その瞳に自分だけを映させたい。
 たとえ、大切な友人であろうとも、他の人間のことを考えさせたくない。
 ソウヨウは強い自制心でそれを制する。
 自分の思い通りにしようとした瞬間、彼女は彼女ではなくなる。
 眩い煌きが失われてしまう。
「メイワ殿は、約束の期日には帰ってきますよ。
 あの人が約束を破ったことがありますか?」
 ソウヨウは泣く恋人の髪を撫で、優しく言う。
 赤茶色の髪は大人しく、ソウヨウの指に絡め取られる。
 手入れの行き届いた髪は艶やかで、うっとりするような手触りだった。
「ないわ」
 泣き濡れた赤瑪瑙の瞳がこちらを向く。
 艶のある瞳が、涙でより深みを増し、吸いこまれてしまいそうだった。
「あと半分です。
 あっと言う間ですよ」
 ソウヨウは柔和に微笑んだ。
「……」
 ホウチョウの顔がくしゃっと歪む。
 瞳の端に溜まっていた涙が、滑り落ちる。
 泣き顔は醜くなる者が多いというのに、彼女は例外であった。
 心が痛む程、美しい。
「まだ、半分もあるわ」
 大きな瞳から、ポロポロと涙が零れ落ちる。
「メイワ殿の代わりにはなりませんが。
 彼女が帰ってくるまで、私がお傍にいます。
 寂しくはないでしょう?」
 ソウヨウは慌てる。
 計略の奇才も形無しである。
「メイワじゃなきゃ、嫌よ」
 あっさりホウチョウは言った。
 ソウヨウは、恋人としての立場が危ぶまれる。
 遠まわしに愛情よりも、友情だと言われたのだ。
 ホウチョウはぐすぐすと泣き続ける。
 どんな言葉をかければ、彼女が泣き止むのか。
 皆目見当がつかない。
 本当に、困った。
 ほっておくこともできず、ソウヨウはホウチョウの髪を撫でるしかなかった。
 身にならない二人のやり取りの最中。
 先触れも挨拶もなしに、部屋に入ってきた男がいる。
 完全に人払いをしてある、恋人同士が睦みあっている部屋に、気にせずに入室する人間は限られている。
 時の皇帝、ホウスウである。
 朱鳳にある鳳凰城から、直接来たのだろうか。
 瑞鳥の鳳凰が金糸で縫い取られている黒の衣をまとっていた。
 堂々たる若き皇帝の姿であった。
「決まったことに、いつまでも泣いているんじゃない」
 開口一番、ホウスウは言った。
「自分で許したんだ。
 我慢しろ。
 たかが、月が一度欠けて、再び満ちるまでの間だろうが」
 耳が痛くなるほどの正論である。
 冷徹無慈悲と高官の中でささやかれるだけある。
 血を分けた数少ない肉親に対しても、この態度。
「たかが、じゃないわ」
 ホウチョウは体を起こし、兄を見上げる。
「こんなに長い間、離れたこと、ないんだから!
 お兄様には私の気持ちなんかわからない!」
「わかりたくもない。
 友人なら、笑って祝福するべきだろうが」
「だって」
「だってじゃない」
「すっごく、急だったんだもん」
「ずいぶん前から、話は進んでいたのだ。
 ことがことだけに調整がつかず、今の今まで宙ぶらりんになっていただけだ。
 急だと言うなら、お前の結婚の方が急だ」
「それは仕方がないことよ」
「は?」
 ホウスウは顔をしかめる。
「だって、運命だったんですもの」
 ホウチョウは胸を張って答える。
 その顔には自信に満ち溢れており、涙はもう止まっている。
「じゃあ、今回の件も運命だったと思え」
「それとこれは別よ」
「自分の利益しか求めず、不利益なこととなると文句を言う。
 為政者の一族が人民の悪い手本になってどうする」
「手本がなければ、正道(せいどう)から道を外す者は、どんなに道を説いてもすぐさま道を誤るわ。
 そんな人たちのために、自分を犠牲にするなんておかしいわ。
 善意と博愛は、自己犠牲の産物ではないはずよ。
 自分自身が満ちている者が、初めて慈悲を施すことができるの。
 そうでない者が施すそれは、所詮偽善にしか過ぎないのよ」
「その思想は立派だが。
 論点がずれている。
 いいか?
 お前は約束したんだ。
 約束した以上、それを全力で守ろうとする。
 それが、あるべき姿であろう?」
 ホウスウの言葉に、ホウチョウは口をへの字に曲げた。
 止まっていた涙が見る見る湧きあがる。
「お兄様なんて、大っ嫌い!」
 そう言うと、ホウチョウはソウヨウに、しがみついて泣き出した。
「嫌いでかまわないが、大司馬は返してもらうぞ」
 ホウスウは冷徹に言った。
「ひどいっ!
 メイワを取り上げたばかりか、シャオまで取り上げるの!?
 確かに、お兄様は皇帝陛下だけど、ひどい!!」
 ホウチョウは非難する。
「ほんの少しの間だ。
 ソウヨウ、仕事だ」
「……ですが」
 ソウヨウはホウチョウを見る。
 目を放したら、彼女は儚くなってしまうかもしれない。
 危ういほど、存在感が薄れている。
「すぐに済む。
 署名がいるのだ」
「……」
 仕事は大切かもしれないが、仕事のために生きているわけではない。
 ソウヨウの思いを見て取ったのか、ホウスウはためいきをつく。
「出仕しろとは言ってないだろうが!
 十六夜、手を離しなさい」
 灰色じみた瞳が妹を見る。
「嫌っ」
 悲鳴にも似た声が告げる。
「半刻もかからない。
 幾つかの書簡を見るだけだ。
 ソウヨウが仕事をしなければ、多くの人物が困るのだ。
 困るだけではない、判断が遅れれば人の命が失われるかもしれない」
 ホウスウの言葉に、ホウチョウはしぶしぶとソウヨウの袖を離した。
「できるだけ、すぐに戻ります」
 ソウヨウは微笑んだ。


 皇帝にお渡り願うには、少々手狭な堂を一つ開放する。
 普段使ってないとは言え、手入れは行き届いている。
 パタパタと女官は部屋の中を整えると、退出した。
 室内はソウヨウとホウスウの、二人だけになった。
「ずいぶんと、甘やかしているようだな」
 ホウスウは黒檀の椅子にゆったりと腰をかけ、口元に笑みを掃いた。
「鳳様ほどではございません」
 真顔でソウヨウは言った。
 いくら鳳凰城と白鷹城が近いとはいっても、散策がてらに行き来する距離ではない。
 皇帝であるのだから、使者を立てれば良いのだ。
 わざわざ、用を見つけてここまで来る必要はない。
 妹公主が心配だったのだろう。
「歳の離れた兄弟というのは扱いづらいものだよ。
 兄というよりは父親の気分になる」
 ホウスウは苦笑する。
「はあ……」
 兄弟のいないソウヨウにはわからない感覚だった。
「いつまで出仕しないつもりだ?」
「メイワ殿がお帰りになるまでは、ついていて差し上げたいと思います」
「あと、半月か……。
 長いな。
 大司馬、という役職をどう思っているのだ?」
 ホウスウはソウヨウを見た。
「閑職」
 ソウヨウは即答した。
「私の聞き間違いか?」
 人間、不機嫌なときも笑う生き物である。
 ホウスウは子どもをあやすように、優しげに微笑んだ。
「いいえ、陛下。
 陛下の耳も、頭も正常です」
 ソウヨウは愚鈍のように答える。
「武官の、最高位だぞ。
 位の上では、その上は三公と宰相しかいない。
 大司馬とは、政治にも参画できる高官。
 武だけではなく、優れた外交力も求められ、内政にも通じた者でなければ勤まらない職」
「建前ではそうなっていますね」
 ソウヨウは凡庸にうなずいた。
「それが閑職なわけがなかろうが」
「ですが、実際問題では暇です。
 陛下のなす治世には若干の独断と偏見がありますが、概ね公平で寛容です。
 富める者からは文句が出ない程度にごっそりと、貧しき者には気がつかれない程度にがっちりと採取し、国は潤っています。
 宰相も太師もしっかりとした方で、よく陛下に諫言なさっていますし、言うことを聞くかどうかは別として陛下も臣民の声によく耳を傾けております。
 ギョクカンが鳥陵の一地域になった今、脅威を感じる外敵もいません。
 国内にまつろわない者も少々いますが、吹けば飛ぶような軍事力しか持ち合わせておりません。
 ……私の仕事と言えば、国内の治水ぐらいで。
 それとて、大司徒のお手伝いです。
 私は判を押し、署名をしているだけで良いのです。
 立派な閑職です」
「私の政治に何か含むところがあるのか?」
「まさか。
 陛下はご立派です」
 ソウヨウはニコッと笑う。
「大司馬よりも、三公のいずれかの席の方が良かったか」
 ホウスウは独りごつ。
 ソウヨウはきょとんとした。
「まあ、良い。
 最低限の仕事をしてもらおうか。
 署名だけでも、かなりの数をしてもらうことになる」
 ホウスウは意地悪く微笑んだ。

 判を押し、署名するだけの仕事を済ますと、ソウヨウは急いで部屋に戻る。
 彼の恋人は長椅子で健やかな寝息をたてていた。
 ホッとしたような、少し残念なような気分になり、ソウヨウは長椅子の傍にしゃがみこむ。
 ホウチョウのすべらかな頬には涙の跡が残っていた。
 恐る恐る指を伸ばし、その跡をなぞる。
「私のためにも、泣いていてくださいましたか?」
 詮のないことを問うてみる。
 眠る恋人は答えてはくれなかった。
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