第七十七章

 フェイ一族の共通の習性なのか、下官を連れて歩くのを好まない。
 皇太后ですら、そうなのだから娘の公主は言わずもがな。
 無理やりついて歩くと奥の手を使う。
 『花薔薇の院子に行くわ』と。
 城の呼び名が代わっても、花薔薇の院子が禁園であることは変わらない。
 特に赦された者しか立ち入ることができない。
 赦されている者であっても、遠慮して立ち入ることがない。
 今も昔も、語らいの場所であるのだから。
 奥侍女のヒエンは赦された者の一人であったが、花薔薇の院子に入ったことは数度しかない。
 妹のように愛らしい姫君が『花薔薇の院子に行く』と口にするときは、一人になりたいときか、恋人と語らうときだと知っているからだ。
 夕刻には早い時間、暇を持て余したヒエンは、一人回廊を渡っていた。
 真昼の暑さが嘘のように、涼しげな風が通り抜けていく。
 かすかに香るのは、クチナシの花だろうか。
 甘すぎない香りが心を満たす。
「あら、メイワじゃない」
 侍女名を呼ばれて、ヒエンは振り返る。
「これはお久しぶりでございます」
 かつての同僚であり、高級官僚夫人に納まった女性に、頭を下げる。
 鷲居城で働いていたころから、美しかった同僚は、財務を司る大司農の下で働く夫を持つ女性として、ふさわしい装いをしていた。
 精緻な彫りの玉の簪、煌びやかな耳墜。縫い取りも艶やかな錦の衣に、金の腕輪が数本、細い手首を彩る。
「やめてちょうだい。
 私の夫の身分で頭を下げるのは」
 明春は陽気に笑う。
 その笑顔は結婚前と変わらない。
 嫌味がなく、親しみがこもった気持ちの良い笑顔だった。
「私自身が出世したわけじゃないんだから。
 それに、夫の序列から言えば、私があなたに頭を下げるべきなのよ。
 将軍より身分が上なんて、数えられるほどしかいないんだから。
 それよりも、時間がある?」
「ええ」
「あなたが一人なのだから、当然ね。
 世間話でもしましょう」
 明春は言った。
「とっておきのお茶があるのよ」
 ヒエンは自室に向かって歩き出す。
 明春は自然と左隣にやってくる。
 ヒエンに比べて、身体に恵まれた同僚だ。指5本分上に、華やかな貌が乗っている。
 目線を合わして話すのはお互い疲れてしまうので、席にでも着かないかぎり、視線は合わない。
「あら? 旦那様に叱られない?
 勝手に使ったりして」
 明春は目を丸くする。
「そんな人じゃないわ」
「シャン家の嫡男で、奸智に長けた英雄の一人なのに?」
「噂どおりに、器用な人だったら戦場には出ないわ」
 ヒエンは声を潜めて言った。
「反対なの? 戦に出るの。
 私の夫なんて、それ以前の問題なのよ。
 チョウリョウの男なのに、私よりも乗馬が下手なの。
 メイワが羨ましいわね」
「戦に出るのは、止められないわ。
 それがチョウリョウの男子の生き方だから。
 ただ……どちらかというと、不器用な方だと思って」
 ヒエンは苦笑した。
「歳下の夫は物足りないって口ぶりね」
 明春は楽しげに言う。
「結婚生活に不満が出るほど、一緒にいるわけじゃないわ」
 ちょうど部屋に辿りつく。
 用心の為に部屋の扉は閉めない。
 誰が尋ねてくるか、すぐにわかるように。外のことがすぐにわかるように。
 城に上がってからの習性だった。
「結局、メイワは奥侍女を辞めなかったのよね」
 明春は椅子を引いて座る。
「ええ。陛下からもお願いされてしまって」
 ヒエンはお茶の準備に取りかかる。
「あの陛下がお願い。
 違和感のある話ね」
 同僚は首を傾げる。
「それだけ、姫が可愛いのでしょう。
 公主の暮らしを守るために、だいぶ無理をした、とも耳にするから」
「情報は旦那様?」
「伯俊様は公私混同をしない方です」
 ヒエンは夫の名誉のために、きっぱりと断言した。
「じゃあ、太師か宰相ね。
 実家が大きいって、やっぱり有利よね。
 あっちこっちに繋がりがあって」
「そう? 実家を頼ったことがないから、ピンと来ないわ」
「頼らずにすむのが大きいわね。
 メイワは恩恵に気がついていないのね」
 明春はためいきをつく。
「ここも変わったわね。
 私が勤めていたときとは大違いだわ。
 奥侍女も知らない顔ばかり。
 あの子も辞めてしまったのでしょう?」
「淑香のことかしら?」
 ヒエンは明春がお気に入りだった奥侍女の名前を挙げる。
 我慢強く、わがままな公主に愚痴一つこぼさなかった少女だけに印象深い。
「公主が南入りした後も、鷲居城に止まってくれていていのだけれど。
 帰還前に、家に戻ったそうよ」
 ちょうど人事に改革があった時期だった。
 奥侍女は姓を呼ばれずとも、みな背負っている。
 色々あったのだろう。
「すっかり異民族だらけになって、やりづらい。
 って、あちこちで聞くわね。
 ヒエンのところにもいるって聞いたけど?」
 明春は明るく尋ねる。
「秋霖はいい子よ」
 ヒエンはお茶の入った陶磁器の封を小刀で切る。
「秋霖というの。名前? 侍女名?」
「侍女名よ。
 霖雨のごとくと言われそうな美しい少女よ。
 まだ驟雨のようににぎやかな女の子だけれど、あと2、3年もすれば」
「後宮に上がってもおかしくはない?」
「……考えてみたこともなかったわ。
 陛下のお好みからは、外れるでしょう」
 茶器に茶葉を入れ、手早くお湯を注ぐ。
「さあ、どうかしら?
 陛下は若いというよりは幼い娘が好みだと話題なの。
 知っているかしら?」
「海姫さまの話からかしら。
 でも、海姫さまは故郷へ帰られたのだから、そうとばかり言えないのでは?」
 ヒエンは二人分のお茶を卓の上に載せた。
「さあ、どうぞ」
「遠慮なく」
 明春は茶器に手を伸ばす。
「良い香りだわ。贅沢ね」
「たまには良いでしょう」
「ええ、たまには、ね。
 陛下のえり好みが激しいというのには、同意して欲しいわ。
 どれほど美しい女官がいても、浮いた話が出てこないのよ」
「どこかに想う方がいらっしゃるとか」
 ヒエンも茶器を取る。
「隠していないで表に出せばいいだけでしょう?
 歴史を紐解けば、皇帝の座についた男はどのような女も妻にしてきたのだから。
 たとえ……」
 明春は言いよどんだ。
 ヒエンは続きがわかっていたので
「そうね」
 と、微笑むに止まる。
 すでに伴侶がいても、どれだけ身分の差があっても、たとえ血縁者であっても。
 皇帝は女を後宮に召しだすことができる。
「時期が来ればきっとわかること」
 ヒエンはのんびりと言った。
 運命は本人にも予想ができないほど、唐突に訪れるものなのだから。
「運命ね。……便利な言葉ね」
 現実的なところのあるかつての同僚は、ぽつりと呟いた。
 パタパタ
 軽い足音。少し駆け足になっている。
 ヒエンと明春は顔を見合わせる。
 ほどなくして赤茶色の髪を垂らした乙女が部屋に入ってくる。
「メイワ! あら、明春。
 お久しぶりね。元気だったからしら?」
 ホウチョウは卓まで来て、笑う。
「十六夜公主さまご機嫌よろしゅう」
 明春は立ち上がり、腰を落とす。
 それから敬意をこめて一礼をする。
「座っていても良かったのに。
 ここはメイワの部屋でしょう?
 私の部屋ではないもの」
「どうなさいましたか?」
 ヒエンは尋ねる。
「髪をやってもらおうと思ってきたの。
 お邪魔だったかしら?」
 そう言いながら、ホウチョウは空いていた椅子にちゃっかりと座っている。
「いいえ、そのようなことは」
 ヒエンは立ち上がり、櫛箱から目の粗い櫛を取り出す。
「明春。たくさんお話を聞かせてちょうだい。
 面白い話を知っているんでしょ?」
「面白いかどうかはわかりませんが、公主が好きそうな話は2、3心当たりがございます」
「じゃあ、座って話を聞かせて。
 メイワ、かまわないでしょ?」
 ホウチョウは椅子を勧める。
「そうですわね。髪が結いあがるまではお暇でしょうし。
 私も明春の面白い話は聞いてみたいです」
「じゃあ、決まりね」
 ホウチョウは胸の前でパンっと手を打つ。
 その楽しそうな仕草に、明春もヒエンもついつい微笑んでしまう。
 こうして和やかに昼下がりは過ぎていく。
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