第八十九章

 建平三年 六月。
 一日、雨が降り続く日。

 雨の日ぐらい大人しく読書を……。
 するわけがないのが、この白鷹城である。
 大司馬府が開かれているので、余計である。
 体力が有り余って、小さな事故が起きやすい。
 しかも、騒動を起こすのは夏官だけではなかったりする。


 くだらない理由でいさかいが起きる。
 仲裁役のメイワもそろそろ疲れてきた。
 ホウチョウと華月は日に一度は大喧嘩をしている。
 両方とも口が達者なのが、なお悪い。
 いい歳した大人のホウチョウが譲れば良いのだが、わがまま公主が我慢することなどありえるはずもなく。
 走るホウチョウの背を追いかけながら、メイワはためいきをついた。
 また、女官長からお小言をもらうはめに……。
 妙齢の女性が裳裾をからげて走る。
 ……はしたない。
 姫が元気になったのは嬉しい、とメイワは思う。
 でも、少しばかり元気になりすぎである。
 南城に行く前。
 去年の秋は、ホウチョウは寝込むことが多かった。
 ちょっとしたことで、熱を出し、風邪をひく。
 不眠を訴え、すぐさま落ち込んでいた。
 一日中、薄暗い部屋に閉じこもり、泣き出しそうな瞳で窓の外を見ていた。
 年頃の乙女らしく、たおやかに。
 麗々しく琴をかき鳴らし、歌を口ずさみながら刺繍をしていた。
 が、それは過去のことである。
 南城に行ったのが良かったのか、運命の相手と巡り会えたのが良かったのか、すっかり元通り。
 憎たらしいほど、元気である。
 メイワは昔を思い出す。
 十年前のメイワもこうして走っていた。一日中、飛家の小姐(お嬢様)を追いかけて、部屋に連れ戻すのが、侍女見習いのメイワの仕事だった。
 だが、子どものころとは違う。
 メイワも、もう若くない。
 すっかり息が上がって、立ち止まる。
 朱塗りの柱に手をつき、深呼吸をする。
 こうやってメイワが休んでいる間にも、騒動はどんどん大きくなっていることだろう。
 考えたくもない。
 ほんの少しばかり、仕事に復帰したことを後悔する。
 結婚を機に奥侍女を辞めても良かったのだ。
 他の奥侍女は皆、結婚を理由に退職している。
 メイワは、ホウチョウと離れがたく思い、仕事を続けることを決めた。
 夫になった人物も快く承知してくれた。
 けれども、早計だったかしら?
 どっぷりと後悔した後、メイワはよろよろと歩き出した。
 姫を追いかけなければならない。
 今度と言う今度は、見逃すわけにはいかない。
 非常に大問題なのだ。


 事の発端は、もうよくわからない。
 お決まりの売り文句に、買い文句。
 華月は『子ども』扱いされるのを、ひどく嫌う。
 十四歳。
 それは子どもと呼ぶには大人びていて、それでも成人前。
 宙ぶらりんな年頃である。
 ホウチョウは年上風を吹かせたがる。
 三人兄弟の末っ子として生まれ、兄たちとは歳が離れている。そのためかどうかわからないが、年下の面倒を見るのが好きだった。面倒を見るというよりは、ちょっかいを出すと言うのが近い。
 『教えたがり魔』なのだ。
 このときもお姉さんぶって、華月に言っていたのだ。
「やっぱり、華月はまだ子どもね」
 得意げにホウチョウは笑う。
 華月は面白いはずがない。
「ボクは、もう大人だよ」
「あら?
 華月はまだ十四歳でしょ?」
「ファンよりも精神的には大人だよ」
 華月は口を尖らせる。
「どこが?」
 ホウチョウは鼻で笑う。
 二人の年齢差は五つ。
 精神年齢の差は……残念ながら、あるようには思えない。
「証拠を見せて」
 ホウチョウは勝ち誇ったように言う。
「ボクはファンと違って、大人なんだから!」
 華月は言った。
「私は充分、大人よ!
 失礼なこと言わないで!」
 ホウチョウは言い返す。
 怒鳴っているあたり、大人の余裕はない。
「白厳とくちづけだってしたことないクセに!」
「く、く!
 あっ、当たり前じゃない!
 そういうのは、はしたないのよ!」
「そんなの言い訳だよ。
 ファンはダメダメだなー。
 殿方を満足させることもできないんじゃあ、大人の女性とは言えないね」
「結婚前にしたらいけないのよ!」
「黙っていればわからないよ。
 秘密の一つもないなんて、ホントに恋人同士なの?
 愛し合ってって、嘘でしょ。
 白厳は無理やり結婚させられるんだ」
 かわいそー、と華月は言う。
「ちゃんと、私たちは愛し合ってるわ。
 永遠の愛だって誓ったんだから!」
 ホウチョウには譲れないところだった。
「じゃあ、どうしてくちづけをしたことがないの?」
「はしたないからよ!」
 そうして、話は元に戻る。
 いつもだったら、そのまま他愛のない話になるのだが。
「華月だって、したことないくせに!」
「したことあるもん!」
 華月は言い切った。
「嘘つかないでよ!」
「嘘じゃないもん!」
「そんな見え見えの嘘つかれてもね。
 華月ったら見栄っ張りね」
 ホウチョウはフッと笑う。
「嘘じゃないよ!」
「子どもの華月がくちづけなんてしたことがあるはずないじゃない。
 嘘言わないで。
 心優しい私は、すぐ謝るなら許してあげるけど」
「ボク、嘘なんかついてないよ!」
「もう、見栄っ張りなんだから」
 ホウチョウは呆れる。
 このときに気がつくべきだった。
 華月の瞳が潤み始めていることに。
「嘘ついたらいけないのよ。
 他人を騙すことになるし、自分自身も騙していることになるんだから」
 俄然、余裕が出てきたホウチョウは諭すように言う。
「華月は子どもなんだから」
 ニコニコと追い討ちをかける。
 完全に『いじめっ子』である。
「ボク、子どもじゃないもん!
 嘘つきじゃないもん!」
 そう叫ぶと華月は走り出した。
 ホウチョウがしまったと思うころには、すでに遅い。
 華月は泣きながら、部屋を出て行ってしまった。
 非常に、まずい。
 こういうときの華月のすることは決まってる。
 保護者の元まで泣きながら走るのだ。
 華月は言いつけることはしない性格だが……、沖達は察しが良い。
 遠まわしに嫌味を言われたこともあるし、廊下ですれ違うときなんかは睨まれる。
 今回はそれと、もう一つ。
 今日のこの時間、沖達はソウヨウと棋を打っているはずである。
 昨日、そんな話をホウチョウは聞いていた。
 と言うことは、華月が泣いていることがソウヨウにもバレてしまうのだ。
 かなり、問題である。
 華月には、ぜひ泣き止んでもらわなければならない。
 ホウチョウは全力で追いかけた。
 
 そのホウチョウを止めるために、メイワが走るはめになったのは至極当然の結果であろう。


 場所変わって、白鷹城の一角。
 珍しい天の恵みに「鍛錬しなくてもいいんだぁ」と棚ボタ式幸せを噛み締める大司馬。
 彼はお気に入りの院子が見える場所に卓を置き、棋を打っていた。
 相手を務めるのは、海月太守。
 どちらが強いのかはわからない。
 勝敗は五分五分。
 ソウヨウはでたらめな手を打つ。
 沖達の方も違うことでも考えているのか、時折しくじる。
 力量は測れない。
 あまり誘った意味がない、とソウヨウは思う。
 強いのか、弱いのか。
 堅実なのか、大胆なのか。
 硝子なのか、鋼なのか。
 さっぱり見えてこない。
 謎が多すぎます。
 ソウヨウは黒石を打つ。
 沖達は即打ちはしない。
 熟考もしないが。
 まるで、何かを待つようにしばし止まり、機械仕掛けのように白石を置く。
 ギョクカンとの戦いに、武将として軍を率いた人物だ。
 無能なはずがない。
 沖達があの戦いで参加したのは首都シュレン攻めのみ。
 そのころ、シキボに布陣していたソウヨウには彼の戦いぶりはわからない。
 かなりの軍功を上げたはずなのだが、具体的に何をしたのかは話が伝わってこないのだ。
 シュウエイに調べさせているのだが、成果ははかばかしくない。
 こうして棋を打っていても、彼の実力はわからない。
 読みづらい。
 ソウヨウはためいきをついて、黒石を打つ。
 パチン
 良い音がする。
 沖達も白石を置く。
 碁盤が埋まり始めたころ。
 軽い足音と泣くのをこらえる声が聞こえてきた。
 それはだんだん大きくなっていく。
 いぶかしがり、ソウヨウは戸口を見る。
 護衛をしていたユウシと目が合う。
 間もなく、乱入者がやってきた。
 ユウシの傍をすり抜けて、迷いもせずに沖達の腕の中に飛び込んだ。
 部屋の隅で同じく棋を打っていたカクエキとシュウエイも驚く。
 沖達には予想の範囲のことだったのだろう。
 すすり泣く婚約者を包み込むように抱き寄せ、その背を優しく叩いていた。
「ボク、嘘つきじゃないよ!」
 華月はそう言うと、大粒の涙を流す。
 沖達は何も言わずに、少女の涙を袖で拭ってやる。
「ファンが、ボクのことを嘘つきって言うんだ。
 でも、ボクは嘘なんてついていない」
 華月は全身で訴える。
 事情がさっぱりわからない展開にソウヨウはきょとんとする。
 そして、軽い足音が廊下に響く。
「華月、待ちなさい!」
 飛び込んできたのはホウチョウ。
 華月はその声にビクッとおびえる。
「あ、シャオ。
 おはよう」
 ホウチョウはにっこりと笑う。
「おはようございます、姫」
 これまたにっこりとソウヨウも言う。
 条件反射である。
「華月、確かに私が言いすぎたかもしれないけど。
 嘘をつくのはいけないわ」
 ホウチョウは言った。
「ボクは嘘なんか!」
 そこで、華月は言葉を切った。
 ハッと気がつき、辺りを見渡す。
 少女の顔から顔色が失せる。
 唇を少しかむ。
「……。
 ボク、……ごめん、なさい。
 見栄……ぱり、した」
 華月は小さな声で言った。
 カタカタと小刻みに震えながら、沖達の袖に隠れる。
「ほら、ごらんなさい。
 やっぱり、嘘だったじゃない」
 ホウチョウは言った。
 そう信じ込めた人物はこの部屋には数少なかった。
 何より、華月の涙が雄弁に物語っていた。
 少女は静かに泣いていた。
「今度、嘘をつくときはもっとマシな嘘をつきなさいよ。
 よりにもよって」
 ホウチョウはそこで言葉を切った。
 高慢に話していたホウチョウも微妙なお年頃。
 恋人を含む男だらけの空間で口にするのは、はばかられた。
「どんな嘘だったんですか?」
 カクエキがまぜっかえした。
 あんな中途半端なところでやめられたら、気になってしまう。
「ごめんなさい。
 ボクが、悪いの。
 嘘つきだから」
 しくしくと泣きながら、華月は言った。
 沖達はその頭を優しく撫でる。
「もう、言わない。
 ……言わないから!」
 華月は懇願する。
 これがかえって火に油を注ぐ結果になった。
「華月はくちづけをしたことがあるって嘘をついたのよ!」
 ホウチョウはハッキリと言った。
 水を打ったように一瞬シーンとなる。
 生粋のチョウリョウの民には衝撃的な発言だった。
 言った本人も赤面して、床を見つめているぐらいだ。
「それはすごい嘘ですね」
 ユウシは感心するように呟いた。
 人を疑う、と言うことを知らない男である。
「そうですね」
 ソウヨウもうなずいた。
 姫が一番! な人間である。
 ホウチョウが言うことが常に正しいと思っている節がある。
 カクエキとシュウエイはあらぬ方向を見ていた。
「……ごめんなさい」
 華月は再び大粒の涙を零し始めた。
「そんなに泣くと目が溶けてしまう」
 微笑みながら沖達は、華月の頬に唇をふれさせた。
「!」
 驚いたのは華月だけではない。
 少なくとも善良な二人と、機微を理解しない一人は眼が釘付けになった。
 カクエキは尻上がりの唇を吹く。
 シュウエイはためいきをついた。
「嘘つきとはかわいそうに」
 沖達はそう言うと、少女の唇をついばんだ。
「沖達?」
 華月は大きな目をさらに大きくする。
「いいの?
 人前だよ」
「良識のある皆さんだ。
 きっと、黙っていてくれるだろう」
 沖達はさも当然と言う顔で言った。
 再び、くちづけを交わそうとした男を華月は手で阻止する。
「人前じゃあ、恥ずかしいからイヤ」
 華月は唇を尖らせる。
「涙も止まったようだし、よしとしよう。
 では、勝負の途中ですが、失礼いたします」
 沖達は礼儀の手本のように礼をすると、婚約者の肩を抱き部屋を出て行ってしまった。
 二人が立ち去った部屋からは、謎の叫び声や物音がしたのは当然の成り行きかもしれない。


 そんなこんなで、大騒動は起きるのだった。
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