第九十一章

 六月のある日。
 大騒動の数日後。
 真剣な面持ちで、ホウチョウはソウヨウの元へ訪れた。
 時間は夕刻。
 大切な話がある、とホウチョウは言う。
 二人が花薔薇の院子を選んだのは当然の結果であった。
 ここならば、邪魔が入ることが少ない。


 黄昏時。
 夏咲きの花薔薇は満開であった。
 鮮やかな色の花弁、強い芳香。
 空もまた薔薇色。
 この花薔薇の香りが空を染め上げたようだった。
 花園の主もまた、麗しかった。
 彼女は文句なく美しい。
 そこに立っているだけで美しい。
 それが、満開の花薔薇を従えているのだ。
 この風景を切り取って、装丁して、飾っておきたいぐらいだった。
「シャオ」
「はい、姫」
 ソウヨウは嬉しそうに返事をした。
「くちづけをしましょう」
 一瞬、ソウヨウは聞き間違ったかと思った。
 が、それは恋人の口から聞かされたものである。
 ソウヨウが聞き間違うはずないのだ。
「……」
 困った。
 したいか、したくないのか問われたら、ソウヨウだって男だ。
 したいに決まっている。
「イヤなの?」
 ホウチョウは怖いくらい真剣に言う。
 舞台は完璧すぎるぐらい整っている。
 夕暮れ時、二人きりの院子。
 二人は名を交わした仲。
 だが、ホイホイと釣られてしまってはいけないのだ。
 これは明らかな罠である。
 乗るわけにはいかない。
 ちょっと……いや、かなり勿体なかったが。
「お気持ちは嬉しいのですが。
 姫は本当にしたいのですか?」
 ソウヨウはおっとりと微笑んだ。
「冗談でこんなこと言ったりしないわ」
 はしたないもの。と、ホウチョウは言った。
 ことあるごとに「はしたない」と言うのは、彼女が幼い所以であろう。
 人に言われたことを鵜呑みにする。
 とかく恋の作法に関しては。
 ソウヨウは苦笑した。
「シャオは結婚するまでは、しない方が良いと思っているの?」
 その質問にソウヨウは、「いいえ」とも、「はい」とも答えなかった。
 ただ、薄ぼんやりと微笑むだけだった。
 露骨な誘いであったとしても、嬉しい。
 けれども、それは身の内に湧き上がる恋心が言わせた言葉ではないことを知っていると、少しばかり躊躇するのだ。
 後悔はして欲しくない。
 傷ついて欲しくない。
 いつだって朗らかにいて欲しいのだから。
「うらやましかったのですか?」
 海月太守とその婚約者が。
 ソウヨウの問いに
「だって、華月ですらしたことがあるのよ。
 華月はまだ子どもなのに」
 ホウチョウは不満げに答えた。
 予想通りの答えだった。
 余所の花は赤い。
 本当に欲しいわけじゃない。ただ、人が持っているものが良く見えるだけで、欲しいわけではない。
 それが手に入ってしまえば、つまらないものに見える。
 期待が外れて、また違うものが欲しくなる。
 その循環だった。
「チョウリョウでは結婚前にそういうことをするのは、はしたないんじゃありませんか?」
 ソウヨウは穏やかに言った。
「黙っていればわからないわ」
 ホウチョウは言った。
「鳳様にも?」
「もちろん」
「女官長にも?」
「ええ」
「メイワ殿にも?」
「……言わないわ」
 ホウチョウは言った。
「きっと、そのことをメイワ殿が知ったら、悲しむと思うんですが」
 違いますか?と、ソウヨウはホウチョウに訊いた。
 ホウチョウはうなだれた。
 その仕草が愛らしいとソウヨウは思った。
 黙っているつもりならメイワが、知るはずがないことに気がつかないらしい。
「悲しむかしら?」
 不安げにホウチョウはソウヨウを見上げる。
 花薔薇の色よりも濃い色の瞳が、ソウヨウを見つめる。
 誘惑に耐えながら、ソウヨウはうなずいた。
「それはイヤよ」
 ホウチョウは言った。
「結婚するまで、待てますか?」
 ソウヨウは訊いた。
「まだ、夏なのよ。
 あと、五ヶ月近くあるわ」
 ホウチョウはためいきをついた。
「あと五ヶ月しかありませんよ」
 ソウヨウは言った。
「前から思ってたんだけど」
 ホウチョウは花薔薇の院子を歩き始める。
「シャオって、のんびり屋さんよね」
 色とりどりの花の間を、花よりも美しい乙女が歩く。
 ソウヨウは遅れずに、その後をついていく。
「そうですか?」
「五ヶ月って、長くない?」
「姫に逢えなかった歳月を考えれば、とても短く感じます」
「そう考えられるのが不思議。
 もっと、早く時間が流れれば良いのに」
 ホウチョウは言った。
「こうして姫と一緒にいられるのが嬉しいので、あまり早く流れられても困ります」
 ソウヨウはクスクスと笑う。
 ホウチョウは立ち止まり、ソウヨウを見上げた。
「私たちって、全然性格が違うわよね。
 どうして、こんなに違うのに好きなのかしら?」
「さあ?
 どうしてでしょうか?」
 ソウヨウは小首をかしげる。
「よく、わからないわ」
 ホウチョウは考えることを放棄した。
 そして、また院子を歩き出す。
 自由であることが、彼女らしさを創るのだ。
 ソウヨウは憧れをそこに見出す。
「でも、私にも一つだけわかることがあるのよ」
 ホウチョウは得意げに言う。
「?」
 彼女の言葉を聞き漏らすまいとソウヨウは耳を澄ます。
「私はシャオが大好きなの」
 ホウチョウは満面の笑みを浮かべた。
「私も、姫のことが好きです」
 ソウヨウは言った。
 ホウチョウはニコニコとその言葉を聴いた。
並木空のバインダーへ > 前へ > 「鳥夢」目次へ > 続きへ