第九十四章

「何かあったの?」
 ホウチョウは目をこすりながら尋ねた。
 まだ夢の中にいるような気がする。
「いつも通りですよ」
 秋霖は椅子を引きながら言う。
 そこにホウチョウは腰をかける。
「そう?」
 目の前に用意されたたらいに水がなみなみと注がれる。
 闇のような黒漆の底には螺鈿の胡蝶。
 それが水に沈んでいく。
「とても嬉しそうだから、面白いことでもあったかと思ったわ」
 ホウチョウは冷たい水に手を浸す。
「嬉しそうだと面白いって、どういう発想なんですか?
 さあ、早く顔を洗ってください」
「面白いことがあると嬉しくならない?」
「なりません」
 侍女は即答する。
「そう。退屈な生き方ね」
 ホウチョウは水をすくって顔を洗う。
 水が肌を濡らす感覚は不思議だ。
 乾いた柔らかい布が受け取り、水滴をぬぐう。
「それで、何もないの?」
「退屈なお話しかありませんよ」
「聞きたいわ」
 ホウチョウは言った。
 すっかり馴れた手つきで、秋霖は後片付けをする。
「時間の無駄とか言わないでくださいね」
 侍女は櫛箱から、最も目の粗い櫛を取り出す。
「大丈夫よ。
 今の私は暇で暇で仕方がないんですもの。
 時間を節約するほど、切羽詰ってないわ」
 ホウチョウは微笑んだ。
「手紙が届いたんです」
「想い人かしら?」
「そう言えなくもないですね」
 秋霖の手がホウチョウの髪を選り分ける。
「兄からです」
 櫛が髪の先からすいていく。
「今度、都に来るそうです」
「秋霖のお兄様は……」
「白厳様の配下で、秋霜と申します」
「字?」
 記憶にはない名前にホウチョウは訊いた。
 婚約者の配下すべてを覚えているわけではないが、目立つ人物の名前は一通り記憶している。
「ええ、秋霜は字です。
 風呼様や伯俊様は、姓でもあるヤオと呼んでいたはずですよ」
「秋霜で秋霖ね。
 おそろいね」
 ホウチョウは笑った。
 秋霖が秋の長雨で、冷たい喩えなら、秋霜は秋の霜。
 草木を枯らすほどの、厳しさ。
 あるいは、キラリと輝く鋭い剣。
 どちらにしても、冷徹な武人を連想させる。
「そのお兄様が都へ?
 休暇かしら?」
「まさか。そんな人じゃありません」
「秋霖の顔が見たくなったのかもしれないわよ?
 可愛い妹なんでしょ?」
「顔が見たいなら、鏡でも見てすませますよ」
「そんなに似てるの?」
 ホウチョウの兄たちは、それぞれ個性的だった。
 亡くなった上の兄は、父親似であったし、下の兄は母親似だと評判だ。
 ホウチョウは両親のそれぞれに似たらしく、一見では兄妹は見えないだろう。
「似ていると思いますよ。
 それに、寂しがるというのとは無縁の人なんです。
 きっとお仕事でしょうね」
「武人の鑑というところ?」
「さあ、どうでしょう。
 伯俊様は情緒がないと、零してらっしゃいました」
「あら? 伯俊でも、愚痴なんて言うの?」
 大司馬の人物評によると、「シャン・シュウエイはうかつな人間」とされている。
 実際に、彼の恋の顛末は芝居にできそうなほど面白かった。
 とはいえ、侍女の目の前で口を滑らすほどの馬鹿ではないはずだ。
「兄によほど問題があったんでしょうね。
 伯俊様は立派な方ですから、私どもがいるような状況では愚痴なんて言いません」
 秋霖は断言する。
「用心深いことは良いことよ。
 でも武人としては繊細ね」
 ホウチョウは言った。
「算盤でも弾いているほうがお似合いですよね」
 秋霖も同調する。
「それで秋霖のお兄様はお仕事で都へいらっしゃるのね。
 じゃあ、白鷹城へ来ないのかしら?」
「姫。ここは一応、白厳様が府を開いたのですよ。
 夏官の長の、大司馬府です。
 兄は夏官の端くれなんです。
 いくらなんでも素通りはありません」
 秋霖はホウチョウの思い込みを訂正しようとする。
「でも、私が会えるかどうかは別問題でしょ。
 お仕事なら」
「白厳様に頼めばよろしいじゃありませんか。
 もっとも、会っても楽しい人ではないですよ。
 ……姫?」
 秋霖の手が止まる。
 ホウチョウは侍女に目線を転じる。
 櫛を片手に少女は困惑していた。
「秋霖は知らないのね」
 ホウチョウは口を開く。
「何がです?」
「お兄様も、シャオも、公私混同はしないわ。
 むしろ、そういうことが大嫌いなの。
 私の話に耳を傾けてくれるわ。
 でも、うなずかない」
 皇帝である兄は、話をはぐらかすだろう。
 ためいき混じりにお説教する。
 諭そうとする。
 婚約者の青年は困ったように微笑んで、謝るだろう。
 それだけはできないことだ。と。
 優しく、優しく、謝るだろう。
「私がお願いすれば、たいていのことは叶えてくれるから、みんな勘違いするけど。
 お兄様もシャオも、叶えてくれないお願いがたくさんあるのよ」
 ホウチョウの願いを、何でも叶えてくれるわけではない。
 どれだけの権力を手にしていても。
 絶対に譲らない一線がある。
「秋霖のお兄様がお仕事で来るなら、私は会えない。
 そのお仕事が片付くまでは、会えないわ」
 ホウチョウの相手役は間に合っている。
 わざわざ将軍位にある人物が、割りさかれている。
 兄が目をかけ、婚約者が信を置いている人物たち。
「無理なお願いをして、嫌われたくはないの。
 殿方を立てるのが女性の役目だって、聞いたわ。
 それに、イイ女は男の仕事に口を出さないんですって」
「最後は風呼様でしょう」
 秋霖は笑った。
「私はイイ女にならなきゃいけないのよ」
「はあ。でも風呼様の基準で良いんですか?」
 侍女は髪をすき始める。
「風呼はメイワが理想だって言っていたわ。
 お兄様も、女官長も、そこは異論がないと思うの。
 二言めには、メイワを見習えって言うんですもの」
「確かにメイワ様は素敵ですね。
 あんな女性になりたいって思います」
「でしょう。
 みんなが言ってることって、本当に差がないのよ」
 ホウチョウは微笑んだ。
「でも、白厳様は今のままで充分だって言い出しそうですね」
「そこがシャオの素敵なところよ」
 ありのままの自分で良いと言ってくれる。
 受け止めてくれる。
 変わらずにいることを許容してくれる。
「姫は幸せですね」
 秋霖は言った。
「ええ、私は幸せよ。
 誰かに保証してもらわなくってもね」
 ホウチョウはうなずいた。
「そうですか」
 侍女はためいきをついた。
 小言を言いたくなったのを我慢したのだろう。
 ホウチョウは目覚め始めた頭で、今日は何をして遊ぶか考え始めた。
並木空のバインダーへ > 前へ > 「鳥夢」目次へ > 続きへ