第九十五章

 チョウリョウにまつろわぬ者たちは、まだ多い。
 乱の鎮圧のために兵は辺境に派遣される。
 確かに、ギョクカンは倒れ、チョウリョウは大陸の覇者となった。
 しかし、チョウリョウ以外の「国」はまだあるのだ。
 一つの思想の下に天下は、まだ統一されていないのだ。
 真実の平和には遠い。


「シャオ!
 戦いに行くってホント?」
 明るい色の髪を揺らして乙女は走ってきた。
 薄っすらと頬が上気して、艶めいて見える。
「ええ」
 ソウヨウはうなずいた。
 鳳凰城から帰ってきた白鷹城の主は、穏やかな表情で恋人を迎える。
 曖昧な色の瞳はうっとりと愛しい人を抱きしめる。
「どうして?」
 ホウチョウは尋ねた。
 責めるように鋭く。
 彼女にとっては納得がいかないことだった。
「こう見えても、大司馬ですから。
 今回の戦いはとても重要なのです。
 必ず、勝たなければなりません。
 鳥陵の未来のためにも」
 ソウヨウは微笑を浮かべたまま言う。
「平和になったんじゃないの?」
 赤瑪瑙色の瞳がソウヨウを見据える。
「ええ。
 ですが、敵と言うのは意外なところにいるものです。
 私は全ての『敵』を葬り去らなければなりません」
 白厳の二つ名に相応しく、青年は言った。
 蒼き鷹は白くも厳しい、法の番人。
「よくわからないわ」
「辺境は皇帝陛下の威光も遠く。
 従わない者も多いのです」
「従わない者は『敵』なの?」
「そういうことになりますね」
 ソウヨウは冷酷にも、うなずいて見せた。
 その表情は、笑顔だ。
「女の私には政はわからないわ。
 でも……。
 シャオが戦場に行かなければならないのは、嫌なの」
「仕事ですから」
「シャオが傷つくのが嫌なの」
 ホウチョウは床に視線を落とす。
 ソウヨウにはその表情が見えづらくなる。
「戦いでは怪我してくるでしょう?」
「気をつけます。
 それに前線に立つことは稀ですから、かすり傷一つ負わずに帰ってくると思いますよ」
 ソウヨウは穏やかに言う。
「ここが」
 ホウチョウはそう言うと、ソウヨウの胸を人差し指でつつく。
「傷つくでしょう?」
 綺麗な赤瑪瑙の瞳がソウヨウを見上げる。
「?」
「シャオは優しいから。
 だから、心配になるの」
 ホウチョウはソウヨウに抱きつく。
 ふわっと香る花薔薇。
「一緒に行ければ良いのに」
 寂しげな声が胸に響く。
 切ないくらいに、心地良かった。
「必ず、姫の元に戻ってきます」
 ソウヨウは約束した。
「絶対よ」
「絶対です」


「ねー、ファン。
 見送らなくても良いの?」
 華月は窓枠に肘をつく。
 眼下には武装した兵士たちの列。
「いいの」
 ホウチョウは忙しく指先を動かしながら答える。
 刺繍をしているのだ。
「だって、今生の別れになるかもしれないんだよ?」
 華月は振り返る。
「そのときは見送るわ」
 ホウチョウは顔を上げた。
「そのとき?」
「そのとき。
 今生の別れになるときは、ちゃんとお見送りをするわ」
「んー?」
 華月は首をひねる。
「これは今生の別れにならないから、見送らないのよ」
「ファンはそういうのがわかるの?」
「ええ」
 さも当然のように、ホウチョウはうなずく。
「ふーん。
 神殿の巫女みたいだね」
「あなたのところの、巫女と一緒にしないでよ!」
 ホウチョウは赤面して抗議する。
 カイゲツの民の指す「神殿巫女」とは、公的な娼婦を意味する。
「えー、どうして?
 神殿の巫女さんは、そういうのもきちんとわかるんだよ。
 そりゃあ、チョウリョウの民から見たら不潔極まりない側面も持ってるけど、女神様にお仕えしている聖職者なんだから」
 華月は不満げに言う。
「だったら、どうして聖職者が不特定多数とあんなことをするのよ!」
「それは女神の加護を男の人に与えるためだよ。
 女の人は、月の女神と海の女神を身の内に宿しているんだもん。
 契ることによって、それを分け与えることができるんだよ」
「その考え方は立派だけど、夫婦ですれば良いじゃない、そんなことは!」
 チョウリョウ生まれの、チョウリョウ育ち。
 血筋こそ、エイハンの血を引くが中身はかなりの『チョウリョウの民』のホウチョウには、納得もしたくない事柄だ。
「もちろん、夫婦間でもそういうことはできるけど。
 巫女さんの方がより大きな加護を与えることができるんだって。
 日夜そういう技術を訓練してるから」
「男を陥落させるための技術の間違いじゃない?」
「ボクもよくわからないけどさあ。
 一応、神に仕えている人間なんだよ。
 もっと、違う言い方できないの?」
「男の浮気を正当化するための詭弁にしか見えないわ。
 じゃあ、沖達がそういうトコ行っても、華月は平気なのね?」
「仕方がないよ。
 男だもん。
 ホントはイヤだけど、ボク子どもだし。
 沖達のこと満足させてあげられないし」
 華月はしょんぼりとする。
「最悪だわ」
 ホウチョウは布に目を落とす。
 濡れ濡れと輝く朱子織の紅い布。
 そこには仲睦まじい鴛鴦の番い。
 恋は一生に一度で良い。
 運命の人は一人で良い。
「ファンって、心狭いよ」
「これがフツーなの。
 カイゲツの民だって、鳥陵の一部になったのよ。
 いつまでも、そんな常識が通るなんて思わない方が良いわ」
「身についた習慣ってなかなか抜けないと思うよ。
 無理すると、心に負担かかるし、体壊すし」
「少なくとも、結婚は一対一よ。
 これだけは徹底して欲しいわ」
 妥協して、再婚は認める。
 ホウチョウは譲歩を示した。
「それでみんな幸せになれれば良いんだけどね。
 政略結婚で、好きでもない人と暮らさなきゃいけなかったら、揺らぐと思うよ。
 自分をちゃんと愛してくれる人がいたらなぁ、って。
 で、外に恋人作っちゃうんだよね」
 華月はしみじみと言う。
「それがおかしいのよ!
 どうして好きでもない人と結婚するのよ!」
 ホウチョウは怒鳴った。
「危うく、好きでもない人と結婚するところだった人が言う台詞じゃないよね」
「?」
「もう忘れたのぉ?
 ファンはダメダメだなぁー。
 ギョクカンの王とのこと」
 華月が馬鹿にしたような目つきでホウチョウを見た。
「そんな過去のこと忘れたわ」
 ケロッとホウチョウは言った。
「……過去って。
 まだ半年しか経ってないよー」
「もう、半年よ」
 ホウチョウは断言する。
 華月はその態度を見て、ためいきをついた。
「……。
 そう言えばボク、婚約してまだ三月なんだよね。
 熱々なはずなんだけど……あの沖達じゃあ」
 とか言いつつ華月はうっとりと目を細める。
「メイワなんてまだ結婚して一ヶ月経ってないけど、伯俊は戦場に行くのよね。
 平気なのかしら?」
 そんな華月をあっさり無視して、話の腰を折る。
「平気なわけないじゃん。
 蜜月だよ。
 本当なら、ベタベタしててもいい時期でしょ?
 特にチョウリョウなら」
「メイワがいないと、私が困るわ」
「伯俊、かわいそー。
 メイワ、こんな主でかわいそー。
 白厳、こんな性格の悪い婚約者でかわいそー」
「聞き捨てならないわね!」
「ファン、いい歳したおばさんなんだから、もっと落ち着きってものを学んだ方が良いよ。
 じゃあね」
 華月はぴょんと椅子から降りると、軽い身のこなしで部屋を出て行く。
「覚えていなさいよぉ」
 ホウチョウは怒りでプルプル震えながら言った。


 鳥陵の内も、外も、一つの思想の下には束ねられてはいないのだった。
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