第九十六章

「あー、早く帰りたいですー」
 ソウヨウはうだうだとぼやく。
「もう、三日も姫の顔を見ていません」
 この世の終わりを嘆くが如く、弱冠の大司馬は言う。
「どうして、私はこんなところにいるのでしょうか?」
 大司馬とは辺境の夷狄(いてき)を征討する役職。
 そのために特別に設けられた地位である。
「……。
 少しの間、口を閉じられないのか!」
 とうとうシュウエイが怒鳴った。
 ここまで、ずっと愚痴を聞かされてきたのだ。
 ぐちぐちと取りとめもないことばかり、そればかりを聞かされ続けたのだ。
 堪忍袋の緒も切れるというものである。
「無理ですー。
 口から悲しみがあふれでてしまうんです」
「……。
 いいから、黙ってろ!」
「シュウエイが苛めます」
 ソウヨウはわざとらしくしおしおとする。
 シュウエイは耐える。
 ここで文句をつけても意味がない。
 この場にいないカクエキに対して、恨み言の一つでも言いたい気分であった。


 馬を走らせること三日。
 通常の行程の半分まで縮めて、やってきたのは鳥陵の北方の地。
 たどり着いたのは、騎馬のみである。
 シュウエイが選りすぐった兵士だけが、どうにか付いてこられただけである。
 徒歩の兵士はとっくのとうに見放されている。
 付いてこられる者だけが付いてくればいい。
 そう大司馬は最初に言ったのだ。
 今頃、置き去りにされたカクエキの軍は影も形も見えない旗印を目指して進軍中であろう。
 完璧な下策である。
 補給一つまともにできやしない。
 一度刃を交えたら、野垂れ死ぬこと請け合いである。
 そんな作戦を決行した最高司令官は、のんびりと散策中である。
 それにシュウエイは護衛官代わりに、ついて歩っているのだ。
 他の兵は更地で休んでいる。
 馬も兵も使い物にならないほどの疲労を抱えている。
 士気はガタガタ、補給線もない。
 最悪な戦場である。


「良い景色ですね。
 この辺は、まだ春ですね。
 過ごしやすくて良いですねー」
 姫を連れてきてあげたいです。と、新緑を愛でながらソウヨウは呟く。
 相槌を打つ気力もなく、シュウエイは聞き流す。
「戦場には見えませんね」
 ソウヨウはのんびりと言う。
 ここは鳥陵でも辺境。
 隣接する地域は一癖も二癖もある「国」ばかり。
 同盟を結んでいても、紙一重のように裏切る。
 ここに住む者たちは独立意識が強く、皇帝に反発を抱いている。
 小さな反乱を起こすことしばし。
 そのため、何度も軍を派遣している。
「花がこんなに咲いていますよ」
 ソウヨウはニコニコと花を摘み始める。
 真剣に綺麗な花を選んで、せっせと花束を作る。
「どうするつもりですか?」
「姫に差し上げようと思います」
 とても嬉しそうに青年は言う。
「……。
 誰が運ぶんですか?」
 戦場で、大司馬が、軍を率いてきたというのに、婚約者のために、花を摘む。
 シュウエイの美意識がそれを許せない。
 何のためにここに来たのか。
 目の前が暗くなる。
「もちろんシュウエイです」
 ソウヨウは断言した。
「……枯れますよ」
 律儀にシュウエイは忠告を与えた。
「シュウエイなら大丈夫です!」
 ソウヨウは言った。
 シュウエイがこの瞬間にも、都に帰りたくなったとしても、誰も責めることはできないだろう。
 結婚してまだ一月。
 いくら軍人といえども、最前線には立ちたくない。
「あ、行将軍ですよ」
 子どものように、ソウヨウは指を指す。
 小高い丘に見える人影。
 日輪を受け輝く金の頭髪。
 違えるはずもない。
 流石のシュウエイも顔を歪める。
 面倒なことに対する嫌悪感。
 そう純然たる『厄介ごと』に対するためいきが零れる。
 できることなら関わりあいたくない。
 全天の綺羅星は、彼を地獄に引きずり落とそうとしている。
 綺麗な笑顔で。
「お仕事熱心ですね」
 命令を下した人物が笑顔で言う。
 行千里に北伐を命じたのは、ソウヨウである。
 しかし、成果は芳しくない。
 それゆえ、皇帝の勅命を受け、大司馬自ら兵を率いて北方の地までやってきた。
「持っててくださいね。
 すぐ用事を済ましてきますから」
 無邪気にソウヨウは言うと、シュウエイに花を押しつけた。
 ソウヨウは小走りで、行将軍の元へと向う。
 それをシュウエイは見送った。
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