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不可思議
その日、は気がついてしまった。
自分に起きている、おかしなことに。
暖かい陽射しが、地上を包み込んでいた。
過ごしやすい気候に、の機嫌は自然と良くなる。
朝。
まだ少し風が冷たい時間、少女は回廊を歩いていた。
頼まれたお使いを無事済ませたは、足早に貂蝉の部屋に向かった。
「あれ……?」
わずかに霧がかった院子に、人影があった。
それは、の良く知る人物に似ていた。
「おはようございます、文遠さま!」
近寄ってみると、それはやはり武の師匠。
少女はいつものように、朝の挨拶をする。
「あ、ああ、か。
おはよう」
どこかよそよそしい文遠に、は小首を傾げた。
何かあったのかな?
もしかして、声をかけちゃいけなかったのかな?
は心の中で呟く。
ついこの前、一緒に夕日を見た時から、文遠の様子がおかしい。
鍛錬をしてる時、ふつうに話しをしてる時。
何となく、よそよそしいのだ。
しかも、自分を相手にしている時だけ。
「どうかしたんですか、文遠さま?」
文遠の顔を覗き込み、少女は尋ねた。
少し、頬が赤い気がするのは、気のせいではないみたいだ。
「な、何でもない!
大丈夫だ」
「本当ですか?
顔が赤いですよ。
もしかして熱があるんじゃあ……」
病気。
それなら、今までの行動の意味も分かるような気がした。
熱があると、人は余裕をなくしたりする。
目の前の男性は自分に対して厳しいから、無理をしているのかもしれない。
「いや、そういう訳ではない。
その……大丈夫だ」
「本当に平気ですか?」
「ああ、心配ない。
調子が悪ければ、きちんと休養をとる。
だから――」
「分かりました」
文遠の言葉を遮るように、は答える。
すると、師匠はほっと一息ついた。
心底安心したように、瞳を和ませたから、は驚いた。
こんなに余裕のない文遠さま、初めて見た。
色々と思うことはあったけれど、はそれ以上口にしなかった。
「ところで、何をしていたんですか?」
代わりに、は問いかける。
文遠は手に小刀を握っている。
その周りには、水の入った桶があるだけ。
「先程まで髭を剃っていたのだ。
……今は、爪を切っていた」
「爪ですか?」
「ああ、もやるか?」
「あ、ボクは大丈夫です!
まだ切るまで伸びてませんから」
ふるふると首を横に振って、は断った。
「!?」
言ってから、は自分の指先を見た。
文遠に伝えた通り、爪はまだ伸びていない。
この世界に来る前と同じ長さで、そこに存在している。
「ど……して……」
声がうまく発せない。
心に大きな衝撃が走り、目眩がした。
まだ明るい時間のはずなのに、目の前は真っ暗になった。
ありえない。
爪が伸びていないなんて、ありえない。
この世界に来て、かなりの時間が過ぎた。
日は昇り、沈んで、また昇った。
それをもう何度も見てきた。
時間は、確実に流れている。
じゃあ今、突きつけられた事実は何を意味する?
――自分だけが取り残された。
一つの結論が導き出された瞬間、は足が震えた。
自分が人間ではないように思えてきて、背筋が凍る。
「どうした?」
「あ、いえ」
何でもない、と言おうとして言えなくなる。
何でもなくない。
気がついたことは、とんでもないことだ。
人は成長し、時は止まることなどない。
それは誰でも、どこでも。
同じことのはずだ。
こちらに来て数ヶ月。
季節は冬から春に変わった。
なのに、爪も、髪も切った覚えがない。
は恐る恐る自分の髪に触れた。
毛の先は、ここに来る前の長さと同じだった。
「あの、失礼します!」
少女は慌しく会釈し、全速力で駆けていった。
大声で泣いて叫びたいのを我慢しながら、は貂蝉の元に急いだ。
***
「貂蝉さま!」
「あら、どうしたの?
そんなに息を切らして」
使いに出した少女が、息を切らして入ってきた。
部屋の主は、微笑んでそれを迎える。
「あの……!
ボク、おかしいんです!」
息も絶え絶えに、少女が声を発する。
的を得ない答えに、貂蝉は首を傾げた。
「どういう、意味かしら?
ゆっくりと話して頂戴」
とりあえず、貂蝉はを落ち着かせることにする。
椅子に座らせ、肩に手を置く。
膝を折り、視線を同じ高さにした。
「ボク……。
爪も髪も伸びてないんです。
さっき、文遠さまが爪を切っていて……それで」
少女は自分の体を自分で抱きしめる。
微かにだが、震えているのが分かる。
「まさか。
そんなことがあるはず……」
「でも、本当なんです!」
言葉を遮り、が叫び声を上げる。
それ以上かけてやる言葉が見つからず、貂蝉は押し黙った。
そういえば、と思考を巡らす。
少女の髪も爪も、切ってやったことがない。
今まで特に気にかけたこともなかったが、まさかこの様な事態になっているとは思いもしなかった。
常識では考えられないことが起きている。
目の前で震える少女はそう訴えた。
信じられないことではあったが、彼女が嘘をついているとは思えない。
異界からの訪問者。
に、今何が起きているのだろう?
少女の体はなぜ、時を止めてしまったのだろう?
考えても答えなど出るはずはなく、ただ虚しく時間が過ぎていくだけだ。
そう。
時は決して止まることなく、流れるものだ。
止まるはずなど、ない。
もしそれが出来る者がいるとすれば、天に住まう神々だけであろう。
「貂蝉さま……」
すでに涙目のの背を、貂蝉は優しく撫でてやる。
今の自分には、このぐらいしかしてやれないから。
「とにかく、落ち着きましょう。
大丈夫よ」
「本当に、大丈夫なんでしょうか?」
潤んだ瞳を見つめながら、貂蝉は頷く。
「ええ、大丈夫。
大丈夫よ」
平気な訳がない。
大丈夫なはずがない。
それでも、貂蝉は繰り返し告げる。
大丈夫だと、少女に言い聞かせる。
今はそれしか言葉が思いつかない。
陳腐だけれど、それしか言いようがない。
「はい、貂蝉さま」
は力なく頷いた。
貂蝉はただひたすらに、少女を慰めた。
***
暗い、暗い場所。
どこまでも続く闇の中。
少女は一人、立ち尽くしていた。
「ここ、どこ……?」
呟いても、教えてくれる人はいない。
きょろきょろと辺りを見回しても、誰も見えない。
けれど、不思議と怖い感じはしなかった。
「」
声がした。
男の人だと思われる、少し野太い声が。
「だ、誰……?」
突然名を呼ばれたことに驚きながらも、は尋ねる。
「お前をこちらに呼んだ者」
今度は、高い女の人の声。
澄んでいて、とても綺麗な声だった。
「ボクを……呼んだ?」
言葉の意味を理解出来なくて、はぼうっとしてしまう。
声は聞こえてくるのに、姿がない。
自分が立っている場所は、かなり不思議な場所。
そんな気がした。
「そうだ。
我らはお前を呼んだ。
全てを正すために」
「正すため?
それってどういう……」
「今はまだ話す時ではない」
「そう、ですか」
答えをもらうことが出来ず、はうな垂れる。
よく分からないけれど、今は駄目と言われてしまった。
しつこく聞いてみたかったけど、はそれをしなかった。
声からは、強い意思が見え隠れしている。
多分、何度聞いても答えてくれないのだろう。
そう思ったから。
「……」
「は、はい!」
突然、本当の名前を呼ばれて驚いた。
最近ずっと聞いていなかったフルネーム。
まるで、自分の名前ではないような気さえした。
それほど、はこの世界の生活に慣れ始めていた。
「お前の髪や爪。
時が来るまでは伸びぬ。
私たちが止めている限り」
澄んだ声が胸の奥に響いた。
信じられない言葉に、は声を失う。
トメテイル。
あまりにも呆気なく言われた事実に、戸惑いと衝撃が胸を駆け巡る。
「どう、して……?」
やっとのことで言えたのは、問い。
全身が震えて、舌は思い通りに動いてくれない。
自然と声は擦れてしまう。
「必要がない」
はっきりと言ったのは、野太い声の方。
冷たく聞こえたのは、発せられた言葉のせいなのか。
「そんな……。
だって、だって。
必要じゃない、とか……そういうの関係ないよ!
こんなの、おかしい!!」
声の限り叫んで、訴える。
体の中の時間が流れない。
そんなこと、あっていいはずがない。
おかしい。
変だ。
気持ち悪い。
「今のお前に、歳を重ねられては困る。
それゆえだ。
しばし耐えろ」
声はさらに畳みかける。
信じられないほど冷たい物言いに、はがく然とする。
「そんなの……ひどいよ」
言いたいことは山ほどあった。
ふざけないで、と叫びたかった。
今の自分はまるで、おもちゃのような扱いをされている。
そう思えて仕方がない。
それなのに。
もう、その気力すら湧いてこなかった。
「成長は止めていない。
筋肉と骨は衰えず、日々成長する」
「よく、分からない」
もう何だか、どうでもいいような気がしてきた。
成長と老化の違いを訊く気にすらなれない。
「……時間だ」
「え?」
声の放った言葉の意味が分からなくて、は呟く。
「我らの行動に干渉する者がいる。
今日はここまでのようだ」
「人の子よ。
お前なら出来るであろう。
元の流れ、を……取り戻せる」
二つの声が交互に言う。
最後の方は途切れてよく聞こえない。
「何それ。
よく分からないよ、ねえ。
待って!!」
は懸命に叫び声を上げ、二つの声を呼んだ。
「!」
は、弾けるように体を起こした。
ぼやける視界を懸命にこらして、目の前を見つめる。
真っ暗な闇の中、微かな星月の明かりに助けられる。
見えたのは、いつもと変わらない部屋の様子だった。
「夢……?」
ぽつりと呟いた声が闇の中にとける。
「……変な、夢だったな」
かけ布をぎゅっと握りしめる。
夢の中のできごとは、鮮明に頭に残っている。
まるで、現実に起きたことのように。
「寝よう」
布をかけ直して、は寝台にもぐりこむ。
暖かい季節とはいえ、まだ夜は肌寒い。
体を小さく丸めて、は瞳をつむることにした。
空が明けぬ頃。
少女は不思議な夢を見た。
まだ、は真の意味を知らない。
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