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故郷を思う
ふと、顔を上げた。
そこには、自分の知らない世界があった。
「綺麗……」
自然と言葉が出てきた。
は、そこに立ち尽くした。
茜色に染まった空は、どこまでも続いているような気がした。
昼から夜になる瞬間。
色のグラデーションが美しい。
赤、青、紫。
そこにわずかな白が存在し、調和を生み出す。
綺麗。
その一言しか思いつかなかった。
それ以上でも、それ以下でもない。
目の前の景色は、とにかく綺麗だった。
「あっちじゃ見られなかったなぁ」
ぽつり、と声がもれる。
ふと、自分のいた世界のことを思い出した。
毎日、学校と家を行き来する生活だった。
朝起きて、授業を受けて、部活に出て。
夕焼けなんてとっくに終わった頃、やっと家に帰る。
バイトもしてなかったし、習い事もしてなかった。
部活はほぼ毎日あったから、何だかんだで忙しかった。
空を見上げることすら、少なかった気がする。
「幸せだった、のかな?」
家庭はごく普通の家だった気がする。
両親がいて、家があって、トモダチがいた。
いつも笑っていたわけじゃなかったけど、辛いわけでもなかった。
今考えると、そこが幸せな場所だったのか分からない。
懐かしい、会いたい。
そうは思うのだけれど、どこか不思議な感じがした。
少し前まで、自分はあそこに『帰りたい』と思っていた。
平和で、争いなどなくて、身の危険などほとんどない。
そんな場所に帰りたかった。
お父さん、お母さん、トモダチ。
皆に会いたいと願っていた。
「今は……?」
自分に問いかけてみる。
答えられないことなど、分かっていた。
それでも、問う。
「……分からない」
帰りたいと、強く願うことはない。
懐かしいと思い出すことはあるのに。
それよりも先に、思ってしまう。
あそこは、本当に自分のいるべき場所だった? と。
親やトモダチは心配しているかもしれない。
警察に捜索願を出しているかもしれない。
誰かに迷惑をかけているかもしれない。
それでも、無理矢理にでも帰りたいとは思えない。
は一つ溜息をつく。
思考を一つ一つ、組み立てていく。
分からないことが、分かるようになるように。
理由は案外、簡単なことなのかもしれない。
ここには、温かいものが、人が。
たくさんいるから。
貂蝉はいつも柔らかく笑っていてくれる。
張遼はいつも優しく頭を撫でてくれる。
呂布はいつもさり気なく気を使ってくれる。
一緒に働く下男の人たちも。
一緒に戦争に行った仲間たちも。
いつもいつも、笑ってくれる。
だから、自分も笑っていられる。
ここは、すごく温かい。
「」
後ろから声がした。
は、ぱっと振り返った。
「文遠さま」
表情は笑顔になる。
武の師匠は、とても良い人だ。
最近改めて知った、真実。
「こんなところでどうした?」
「夕焼けを見ていたんです」
太陽はもう、微かに顔を出しているだけ。
空が段々と暗くなっていく。
「そうか。
そろそろ戻らぬと、暗くなるぞ」
文遠は竹簡を手にしている。
誰かのところに行くのか、帰るのか。
どちらにしても、忙しい人だ。
はそっと思う。
「はい。
じゃあ帰りますね」
この世界には、街頭も懐中電灯もない。
ちょっと不便だけれど、それにももう慣れた。
にこっと笑って、はその場を去ろうとした。
「ああ、」
「何ですか、文遠さま?」
呼び止められて、は首を傾げる。
「あ、いや。
何でもないんだが……」
「?」
いつもと違う文遠の様子に、は目を瞬かせる。
なぜか、少しだけ頬が赤い気がする。
夕焼けの残像でも映っているのだろうか?
「その、明日も鍛錬があるからな」
放たれた言葉に、こくんと頷く。
そして、もう一度笑ってみせた。
「分かりました!
では、失礼しますね」
ほんの少し慣れてきた拱手をし、は文遠に背を向けた。
一日が終わり、一日が始まる。
時は止まることなく、流れていく。
それが当たり前のこと。
はまだ知らない。
己の体に起こっている変異を。
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