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惨劇の後
戦の最中だとは思えないほど、穏やかな時間だった。
そこかしこで燃える火に、幕舎の前で交わされる談笑。
本当に、おかしなくらい穏やかだった。
女は、そんな中歩いていた。
少々急ぎ足で、少女の元へ。
「貂蝉」
その声に、女はハッと振り返った。
「奉先さま」
にこりと微笑み、貂蝉は立ち止まった。
「どこに行く?」
「のところまで。
そろそろ起きる頃かと思いまして」
「……そうか」
言うと、男はつり上がっていた眉を一層つり上げた。
「奉先さま?」
不思議に思って、貂蝉は問うた。
感情が表情に出やすい人だから、すぐに分かった。
彼が、機嫌が悪くなったことが。
「いや、何でもない」
ついと視線を背ける。
その行動に、貂蝉は首を傾げた。
機嫌が悪いことは分かる。
けれど、その原因が分からない。
自分が何かしただろうか、と考える。
……思い当たる節は見つからなかい。
たった二言三言交わしただけだというのに。
「そういう風には見えませんわ。
おっしゃっていただけませんか?」
見上げて、にっこりと笑ってみせる。
彼がこういう表情に弱いのは知っている。
だから、わざとやってみせた。
「ただの下男に、お前がそこまでする必要はないだろう。
手当てなら、専属の者でもつけてやればいい」
一層不機嫌な顔で、男は言い放った。
貂蝉は一瞬困惑した。
忘れかけていた。
は今、男としてこの地にいるのだということを。
確かに周囲から見ればおかしい。
いくらお気に入りの下男だとしても、ここまで主が手を出すことは。
あまつさえ、今自分は彼女の元に行こうとしている。
冷たい汗が一筋、背中を伝っていく。
「……それは」
言葉に詰まった。
このままでは、と自分が恋仲とでも言っているようなものだ。
あの計画のため、それは避けなければならない。
周囲はこの際、二の次で構わない。
ただ、この人だけは。
この人にだけは誤解されては困る。
「……あの子は、実は女なのです」
賭けだった。
信じてもらえなければ。
他にそれが漏れてしまえば。
私もあの子も、未来はない。
貂蝉は、ぎゅっと手を握りしめた。
「そうだったのか」
「え?」
降ってきた声は、容認の言葉だった。
意外すぎる展開に、貂蝉は戸惑いの声をもらす。
「信じて、くださいますの?」
「嘘だったのか?」
「いえ!」
慌てて首を横に振り、否定する。
目の前の男は、口の端を上げる。
「安心しろ、誰にも言わん」
微かな笑みを湛えて、呂布はそう言い切った。
ああ、と貂蝉は心の中で頷いた。
彼は誰よりも強く、そして心の優しい方なのだと。
武を尊ぶ人だから、賢くないとは限らない。
たとえ兵法を全て理解できなくとも。
論語をそらんじることができなくても。
優しく、賢い人なのだ。
それを今知ることが出来て、貂蝉はとても嬉しいと思った。
「ありがとうございます、奉先さま」
絶世の美女と称される佳人は、心から笑った。
少女を少女と知る者は二人。
運命はまだ、動き出したばかり。
***
誰かが、どこからか呼んでいる気がした。
振り返ってみるけれど、誰もそこにはいなかった。
確かに声が聞こえた。
それなのに、やはり誰もいなかった。
呼んでみようと思った。
こちらから呼びかけてみようと。
けれど、何も言えなかった。
自分を誰が呼んでいるのか。
いるはずの誰かの名前が、分からなかったから。
ハッと目を覚ました。
何かにつき動かされたように。
少女は、ぼやける視界を懸命に見ようとする。
「……ゆめ」
ポツリと呟いたはずだったが、自分の耳には少し大きく聞こえた。
ここは、どこだろう?
自分がいるところが分からない。
天井は見覚えのないものだった。
「気がついたのね」
声がした方を見る。
そこには、見慣れた人がいた。
「貂蝉さま」
心配そうな表情と出会う。
記憶が、はっきりとし始める。
ここが『戦場』だということを――。
恐怖が体に蘇る。
手に残っていた感触を思い出す。
全身が震えだす。
たまらず、少女は思い切り体を起こす。
「いたっ……!」
「駄目よ、まだ寝ていなさい」
手に肩を押さえられる。
そのまま、寝台に押し付けられた。
「いやです!
ボクは、ボクはっ……!!」
体の震えが止まらない。
ガタガタと揺れているのが、暗い中でも分かる。
自分が自分でなくなってしまったように。
何もかもが怖かった。
「!」
その時だった。
大きな乾いた音が耳に響いた。
「ちょう、せん……さま?」
頬に衝撃が走った。
そこだけが、熱くなっている気がした。
次いで、腹部にも衝撃が響く。
戦いの中で、いつの間にか傷を負ったのだろう。
少女は、苦痛に一瞬だけ顔を歪めた。
「もう、これしか道はないの。
あなたが生きていく道は、これしか……」
目の前の主は、泣きそうな声で訴えた。
分かっていた。
分かっていたはずなのに。
この人にとっても、これは苦渋の決断だったんだ。
それなのに、ボクは解かろうとしなかった。
女の自分から見ても綺麗で、美人で。
こんなにも優しい素敵な女性。
文遠さまと初めて会った時。
ボクはこの人の役に立ちたいと思った。
少しでも、ほんの少しでも。
助けてもらったお礼を、恩を。
返したいと思っていた。
それなのに、それなのに――。
「貂蝉、さま。
ごめんなさい」
するりと言葉が出てきた。
言わなければならないことが、分かっていたから。
「どうしてあなたが謝るの?
謝るのは私の方だわ」
武器を取るには細すぎる。
綺麗すぎる腕が伸びてきた。
手が、まだ少し熱い頬を撫でる。
少女はゆっくりと首を横に振る。
「違うんです、ボクが悪いんです。
だから謝らせてください」
「……」
この方だけが、自分を本当の名前で呼ぶ。
元いた世界で。
生まれてからずっと呼び続けられてきた名前を。
優しく、優しく。
大切に呼んでくれる。
気がつけば、ボクは温かい腕の中にいた。
ここを、この場所を。
ボクは守っていかなくちゃいけない。
どれだけの血を流すことになっても――。
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