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初陣
あの日以来、から笑顔が消えてしまった――。
「。
こちらへ来てちょうだい」
「はい、貂蝉さま」
自分のすぐ傍に控えていた少女を呼ぶ。
呼ばれた少女は今までと変わらず、素直に従った。
ただ一つ違ったのは、無表情のままだったということ。
「……」
変わり果てたは、見ているこちらが辛くなるほどだった。
聞けば、少女がいた世界は戦とは無縁のところだったと言う。
そんな環境で育った彼女が、戦場に出る。
どれほど辛いことだろうか。
あの日から、どうにかしてを逃がしてやりたいと考えていた。
けれども、良い案は一つも浮かんでこなかった。
女とばれてしまえば、別の意味で危険が及ぶかもしれない。
金を持たせて逃がしたとしても、一人で生きていくのは難しいだろう。
結局、には戦う道しか残されなかった。
「ごめんなさいね。
私にはこのぐらいしか、してあげられないの」
貂蝉は少女を奥の部屋へと導く。
ついて来ているのを確かめると、棚にあった紫檀の箱を取る。
そして、の目の前に差し出した。
「これは……?」
「あなたに必要なものよ。
開けてみなさい」
瞳をじっと見つめて、貂蝉は言った。
少女はこくんと頷いて、そっと箱を開けた。
「……ボク、いりません。
使いたくありません」
中のものは、七首。
暗器の王者とも呼ばれるもの。
「それでも、使わなくては駄目。
これがあなたの身を守ってくれるわ」
「でもっ!」
「使い方は私が直々に教えます」
「嫌です!
ボクは、ボクは戦場になんて出たくありません」
「ではここから逃げなさい!
一人でどこまでも行けばいいわ!!」
苛立ちをそのまま声に出した。
これしかない。
これしか道はない。
そう、何度も自分に言い聞かせてきた。
それなのに――。
「貂蝉……さま」
呼びかけられて、ハッと我に返る。
「ごめん、なさい。
つい怒鳴ってしまって」
「いえ」
目の前の少女は、小さく首を横に振った。
貂蝉はそれ以上何も言えなくなってしまった。
しばらく、二人の間に沈黙が漂った。
「戦争に、行くしかないんですね」
先に沈黙を破ったのは、の方だった。
「ええ。
何もしてあげられなくて、ごめんなさい」
分からなかった。
もっと考えれば何か方法はあるかもしれない。
戦に連れて行かずにすむ方法。
董卓や、他の男の慰み者にもならない方法。
あったのかもしれないが、自分には思いつかなかった。
だから、貂蝉は謝りの言葉を告げた。
「貂蝉さまのせいじゃありません」
「でも……」
やはり小さく首を振るが、哀れでしかたなかった。
慰めの言葉をかけたくとも、それももう尽きてきた。
「ここまで生きてこられたのも、貂蝉さまのおかげです」
「」
言ってあげられる言葉がみつからない。
せめて、と貂蝉は名を呼ぶ。
少女が持つ、本来の名前を。
「ボク、人を殺すのはすごく怖いです。
誰かが殺させるのを見るのも嫌です。
でもこれしか道がないなら、進むしかないんですよね」
微かに、無理矢理笑っている。
誰の目から見ても、明らかだっただろう。
悲しみに染まった瞳が、ほんの少し煌いて見えた。
「本当に、ごめんなさい」
「謝らないでください。
ボク、何とか頑張ります。
だから、謝らないでください。
決心が揺らいじゃいそうです」
目を細める少女に、貂蝉は賛辞を贈った。
「ありがとう。
あなたはとても優しいのね」
「そんなことないです。
貂蝉さまの方が優しいですよ」
二人は、そっと笑い合った。
そうでもしていないと、泣いてしまいそうだったから。
***
それから、は血のにじむような訓練をつんだ。
戦までの間、それは毎日毎日続けられた。
は呂布軍旗下に入り、貂蝉の護衛役を命じられることになった。
場所は本陣と目と鼻の先。
危険性は、ほとんどないところだった。
「」
降ってきた声は、武の師匠・文遠のものだった。
「何でしょう?」
あの日以来、は最低限しか言葉を交わさないでいた。
張 文遠。
この人が、怖かったから。
「……私はこれから他の隊と共に、討伐軍を攻めに行く。
くれぐれも、気をつけなさい」
「はい」
それだけ言うと、は拱手をする。
あまり話したいとも思わなくなっていた。
笑いかけたいとも思わなくなった。
なぜだか、分かっているようで分からなかったけど。
文遠はうむ、とだけ答えて走り去って行った。
しばらくした時だった。
ざっと空気が変わった。
場に緊張が走る。
「伏兵だ!」
声が上がった。
それが全ての合図になった。
胸が早鐘を打つ。
たくさんの音が重なる。
悲鳴、怒号、金属音。
どれもこれも、目をつむってしまいたいもの。
耳を塞ぎたくなるような現実。
それでも、はその場に立っていた。
「覚悟!」
一人の男が、険しい表情で襲いかかってきた。
自分よりも大柄な男が持つ武器は剣。
上から振り下ろされるそれを、少女は反射的によける。
相手の懐に入り、スッとしゃがむ。
それをバネに飛び上がる。
狙うは敵兵の頚動脈。
七首は、微かに相手の皮膚を切っただけだった。
もう少し。
もう少し力を込めなきゃ。
手が震える。
汗がにじむ。
逃げ出したくなる。
それでも、逃げる場所はない。
少女は、もう一度七首を握り直す。
敵はまた、切りかかってくる。
今度はもっと険しい顔で。
一瞬の思考のせいで、判断が遅れた。
懐に入ることが出来ず、バクテンで攻撃をかわす。
うまくよけきれず、皮膚が少し切られる。
一、二、三。
リズム良く回転し、体勢を立て直す。
反動は充分。
そのまま、相手の懐に飛び込んでいった。
あとは簡単だった。
七首に力を込め、一気に急所を掻き切る。
皮膚に触れた瞬間に、引ききった。
金属の重なり合う音はない。
そこにあるのは、肉を絶つ重い音。
飛び上がった時のスピードを利用して、相手から離れる。
それでも、返り血をよけきることは出来なかった。
手が、武器が。
顔が、体が。
人体から流れ出た大量の血が、降りかかった。
赤い血は、まるで雨のよう。
止まることを知らないようにさえ、思えた。
違いは二つ。
色と、温度。
浴びた雨は、あまりにも温かかった。
ドサッ。
人一人が死ぬにしては、あまりにも呆気ない音だった。
少女は振り返ることが出来なかった。
自分がしてしまったことを。
「ボクは人殺し……。
あのバケモノと一緒」
ポツリと呟いた声は、喧騒にのまれた。
灰色の空は、全てを呑みこんでいく。
命も、感情も。
何もかも、全てを。
また、一人二人と襲い掛かってくる。
剣を構えた男たちが、自分に群がってくる。
少女は無感情に、それを殺していく。
そこに慈悲などあらず。
そこに情けなどあらず。
ただただ、機械的に仕事をこなしていく。
二つ、三つ。
屍は増えていく。
生きた人間は減っていく。
それの繰り返しだった。
伏兵は、一人の兵の活躍によって撃退された。
その功績は素晴らしいものであった。
討伐軍をうならせ、董卓を大いに喜ばせた。
虎牢関の戦い。
これをもって、 の初陣とする。
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