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真実
ある日突然、は戦場を離れることになった。
董卓からの帰還命令が、貂蝉らに出たためである。
反董卓連合軍と言っても、結局は烏合の衆。
時が経つにつれ、連合軍は内部抗争を始めた。
結果、軍は分裂の危機に陥っていたのだった。
要所に多少の兵力と徐栄を残し、たちは都・洛陽に向かった。
「……」
都に向かう中、は一人考えていた。
戦の中で気がついてしまった、一つの真実に。
「?」
「あ、はい。
すみません!」
反射的に謝ると、貂蝉が微笑む。
ふわりと、場が和む。
「謝らなくて良いのよ。
大丈夫?
何か考えていたみたいだけれど」
「い、いえ。
何でもないんです」
は慌てて首を横に振る。
主に心配をかけたくなかった。
それに、言えるはずもなかった。
貂蝉さまも人殺し?
そんなことを。
「そう。
何かあったら話して頂戴ね。
聞くだけしか出来ないけれど」
柔らかな微笑みが心にしみる。
温かくて、優しくて。
泣きたくなるくらい、穏やかな笑みだとは思った。
「はい」
しっかりと頷く。
それ以上の言葉を、は紡ぐことができなかったから。
道を、馬が歩いていく。
道を、人が歩いていく。
兵が帰路に着いたのは、まだ肌寒い頃のことだった。
***
帰って一月と経たないうちに、董卓は都・洛陽を焼き払い、長安へと遷都した。
地獄とは、こんな感じなのだと思った。
家は焼かれ、人は叫び、嫌な臭いが充満していた。
馬車の中だというのに、それらはいつまでも追いかけてきた。
まるで、ここから逃げていくたちを恨んでいるかのように。
「ちょう……せん、さま」
鼻を押さえ、なるべく臭いを嗅がないようにする。
胃の中のものが逆流しそうなのを、必死に堪える。
以前、董卓の邸で見た光景を思い出して、は泣きそうになる。
外で起きているであろうことは、容易に想像できる。
董卓は、あのバケモノは、この土地全部に炎を放った。
人も、家も、動物も何もかも燃えている。
火が燃え移った人間は、足掻き苦しんでいるだろう。
助けを求め、土に体をこすりつけ、もがくだろう。
関節がひん曲がり、皮膚や目が溶け、命尽きるまで踊り狂う。
熱さから、水を求めるだろう。
冷たいはずの水が、余計に苦しみをもたらすことも知らずに。
「堪えなさい。
あと……あと少しよ」
貂蝉が苦しそうな声を上げる。
同時に、腕の中に抱きしめられる。
伝わってくる温もりだけが、唯一の救いだった。
は固く目をつぶり、恐怖に震える手で貂蝉にしがみついた。
数日後、一行は長安に着いた。
たちを待ち構えていたのは、廃墟と言ってもおかしくない城。
董卓は、すぐに新しい城を造らせ始めた。
新しい邸、ビ城は洛陽から逃れてきた、たくさんの民の力によって年の明けぬうちに完成した。
また、平和な日が戻り始めていた。
***
「貂蝉さま、一つお聞きしても良いですか?」
髪結いの手伝いをしながら、は貂蝉に問いかけた。
温かな陽射しが、部屋の中まで入ってきている。
そんな季節になり始めた頃だった。
「もちろんよ」
優しくかけられた声に、ほっと胸を撫で下ろす。
ずっと訊きたくて仕方のなかったことを、貂蝉に尋ねた。
「あの、貂蝉さまはどうして戦に出るんですか?」
「……そうね。
あの方と共にありたいからかしら」
凛としていて、意思が込められた声が部屋に響く。
あの方が呂布だと言うことに、はすぐに気がついた。
「すごいですね」
「そんなことはないわ。
は?」
逆に問われて、一瞬戸惑う。
少し考えてから、ぽつりと話し始める。
「ボクは……その、貂蝉さまをお守りしたくて。
お役に、立ちたかったんです」
初陣を終えた日。
抱きしめてくれた温かな腕。
どこか懐かしい感じがした、心地良い場所。
とにかく、守りたいと思った。
「ありがとう。
そういえば、張遼殿に初めて会った時のことを覚えている?」
「え?」
「あの時も、そう言ってくれたわね」
思いもよらぬ言葉に、は目を丸くした。
文遠さまに初めて会った時。
あの人は何て言ってたっけ?
ボクは何て答えたっけ?
武を教えたいって。
男なら、主を……主を守りたくないかって……。
「ボク……」
言葉がうまく出てこない。
頭が混乱してきて、何が何だか分からなくなってくる。
「あの方は、真面目な方だと思うわ」
「貂蝉さま?」
相変わらず、穏やかな微笑みがそこにはあった。
「彼が怖い?
恨んでいる?」
「……分かりません」
思わず、下を向いてしまう。
答えが見つからない。
あの日からずっと考えている。
文遠さまのこと、戦のこと。
それなのに――。
「もし恨むなら、私を恨みなさい」
「どうして、ですか」
突然の言葉に、は貂蝉を見つめた。
綺麗な水色の瞳が、真っ直ぐにこちらを見ている。
「元は、私が許してしまったのが悪いんですもの。
それがいけなかったの」
「そんな!
貂蝉さまは悪くありません!」
つい、声を荒げてしまう。
初めて張遼と会った時のことを、は鮮明に思い出し始めていた。
貂蝉さまのリボンが飛ばされて。
木に登って。
落ちそうになって、着地して。
文遠さまが来て、楽しそうに笑ってて。
あの人は、あの人は――。
『そなたは、自分の主を守りたいとは思わぬか?』
あの時、お願いしたのは自分だ。
無理を言ったのは自分だ。
こうなることを望んだのは、自分だった!
「どうか、許してとは言わないわ。
でも、“武”を憎まないで頂戴」
微かに潤む瞳は語っていた。
武という言葉の指し示す人物が誰なのかを。
それが、主の最愛の人だということを。
「ボクこそ、ごめんなさい。
もう大丈夫です、ボク……。
ボクは絶対憎みません。
貂蝉さまも、文遠さまも、呂布さまも。
だから、だから!」
「……」
本当の名前が呼ばれる。
心の中に、温かいものが広がっていく感覚がする。
「お願いします、ボクをずっとお側に置いてください」
誰も憎まない。
恨まない。
だから、ここにずっといたい。
は思いを形にする。
「ええ、もちろんよ」
肯定の言葉に、は涙を堪えることができなかった。
「文遠さま」
新しい邸の、新しい張遼の自室には来ていた。
爽やかな風がすぐ横を通り過ぎていく。
「。
どうかしたのか?」
少し柔らかな表情で、文遠がこちらを見る。
戦場とも違い、今までともどこか違う顔。
にはそう見えた。
「あの、すみませんでした」
ぺこりと頭を下げる。
何となく、謝りたい気分だったから。
「?
おかしなやつだな。
謝られる覚えはないが」
「いいんです、ボクの自己満足なんです」
「そうか。
気は済んだか?」
問われて、ははっきりと答えた。
「はい!
では失礼します」
「うむ。
また鍛錬の時にな」
「はい。
ご指導、よろしくお願いします!」
少女は心から笑って言った。
文遠さまはきっと、ボクを人殺しにするために武を教えたんじゃない。
誰かを守る力を教えてくれたんだ。
少しずつ、少しずつ。
歩み寄っていける。
はそう、思った。
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